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第3話 代位弁済

 郷原憲三は四十五歳。星崎工業所の元社員だ。
 開発部に席を置いていた頃は優秀な男で、現在、星崎工業所の主要商品となっている物品の半数は、元々を正せば郷原の発案だった。
 次期社長候補、つまり夕子の花婿第一候補とまでされていた。両親に薦められるまま形ばかりの交際を続けていたが、何度目かのデートで、郷原は自分が異常性癖の持ち主であると夕子に告げた。
 社内では決して見せない爬虫類のような目で夕子を直視する郷原。
 夕子は郷原を拒んだ。むしろ毛嫌いするようになった。郷原が一方的に押し付けて行った婚約指輪を宅配便で送り返す一幕もあった。
 そうしている内に、あの事故が起きた。両親が交通事故で他界したのだ。その時、車を運転していたのが郷原だった。
 重症は負ったが、郷原だけが奇跡的に命を取り留めた。
 警察の話では、深夜、お互いにスピードを出し過ぎていたために起こった衝突事故とのことだった。夕子も頭では理解していた。
 あり得ない話だが、夕子の大脳には一つの映像が残っていた。
 両親が事故に遭った時の映像だ。
 郷原の運転するベンツが夕子の正面に映った。と、次の瞬間、車が横向きになり、後部座席の窓に両親の顔が並んでいるのが見えた。声を出す間もなくベンツは加速。そのままトラックに突っ込んだ。
 夕子は事故現場に行った覚えもなく、警察の記録にも残されていない。前後の記憶もない。それなのになぜかこのシーンだけが鮮明に記憶されていた。
(あいつが安全運転さえしていたら、両親は死ななくて済んだのよ)
 郷原は、夕子にとって親の仇だった。
「お父様もお母様も、あの人の運転していた車で死んだことに変わりはないの」
 そう言われてしまえば、反論できる者はいなかった。
 重症だった郷原が退院し職場復帰するまで待つことが、忍耐の限界だった。申し訳程度の退職金で郷原を会社から追い出す結果となったが、それで夕子の腹の虫が治まるものでもなかった。
 追い出された方の郷原はどう思っていたのか。
 今まで考えもしなかった夕子だが、その男が今、星崎工業所の未来を握っていると言うのか。
「聞いてますか。社長」
 夕子は細井の声で我に返った。
「えっ! い、いえ、ごめんなさい。もう一度お願いします」
 細井は、郷原について次のように話した。
 郷原は星崎製作所を追われた後、王手の開発会社で修行し独立。独自の才覚だけで技術コンサルティング会社・郷原コーポレーションを設立、多方面で成果を上げて来た。その功績が山吉興業前社長の目に留まり、前社長の息子が一人前になるまでの繋ぎ社長を任されたのだと言う。
「私、ご挨拶しなければなりませんよね」
 夕子は、郷原の名を聞くだけで背筋が震えた。あの爬虫類のような目で見られるのかと思うと虫唾が走る想いだった。
「お気持ちはお察ししますが、これも社長のお仕事ですから」
 すべてを心得ている細井が言うのだから間違いはない。今ここで山吉興業と縁を切る訳にはいかないのだから。
 夕子は席を立った。
 会議室のドアを開ける。すでに星崎工業所の役員たちが揃っていた。
 長テーブルを挟んで、反対側に座っていた男・郷原が立ち上がった。人懐っこい、どこにでもいるような中年のおじさんと言ったイメージだった。上背もあり胸板も厚そうだが、少なくとも爬虫類のような目はしていなかった。
(こんな男だっただろうか)
 夕子は少なからず戸惑いを覚えた。
「これは星崎社長、お懐かしい」
 両側には秘書と呼ぶには妖艶すぎる美女二人。二十代前半だろうか。それぞれ胸元は、昨日、繁華街を歩いていた時の夕子より大胆だった。
「お久しぶりです、郷原さん。随分とご成功なされたようで何よりですわ」
 教科書通りの世辞を使ったつもりだったが、皮肉に聞こえはしなかったかと夕子は心配になった。
「星崎社長こそ、よくぞここまで会社を支えて来られました」
 夕子にとって郷原は親の仇であることに変わりはない。握手を求められていたら、その手を握ることができたかどうか。
 互いに着席し、通り一遍の挨拶を済ませた後、郷原は星崎工業所の財務内容について語り始めた。内容は適格だった。改善の余地にも触れていた。財務は専門ではないはずだが、良く調べ、良く研究していた。
 節目節目で、夕子の苦労を称える言葉も含まれていた。
 夕子は悪い気がしなかった。郷原には遺恨はないのか。十数年前の出来事は、過去のことと割り切っているのだろうか。
 それとは別に、郷原の話を聞いていて、夕子は改めて思った。
 山吉興業から資金提供を受けるに当たり、星崎工業所の主だった資産は、すべて担保として提供していた。通常の経費はともかく、設備投資一つするにも山吉興業の承諾なくしてはできない状況になっていた。
「さてと、これで前社長との義理は果たしたな」
 郷原の声色が変わった。
「えっ!」と、おかしなところから声が出た。夕子の不安が俄かに高まった証拠だった。
「ここから先は、一対一で話さないか」
 言葉遣いもラフになっていた。
「プライベートの話をするおつもりなら……」
 ここまでの紳士的な態度を頼りに返答する夕子だったが、
「それでもいいが、まあ、仕事の話だと思ってくれ。但し、山吉興業としてではなく、俺個人のビジネスだがな」
 俺個人……それで言葉遣いが変わったのか。
「お仕事の話でしたら、ここにいる皆と一緒に伺います」
 ビジネスの話と言うが、まるで良いビジョンは描けなかった。
「俺は構わないが、後で困るのはそっちの方だぞ」
「構いません」
 郷原と二人きりになどなれるものか、そうした思いが言葉に出ていた。
「よく言った。それならこれを見てくれ」
 郷原が会議テーブルの上に出した物は手形のコピーだった。
 星崎工業所が振り出した十億円の手形だ。宛名は二宮産業株式会社。期日は入っていなかった。
「どうしてこれをあなたが」
 驚いたのは夕子だけではない。細井も、他の役員たちも一様に動揺を見せていた。
 その手形は決して市場に出ない筈だった。夕子が社長に就任した直後、債務超過に陥った星崎工業所を救済する目的で、祖父の代から旧知の中だった二宮産業の社長が融通してくれた資金の担保として振り出されたものだったからだ。
 ある時払いの催促なし。それが暗黙の了解だった。利息だけはきちんと払っていた。経済基盤のしっかりした二宮産業にとって、この十億はなくても良い金だと、夕子は盲信していたのである。
「二宮さんのところも苦しいんだろ。俺が知っているのは、この手形が今ここにあるということだけだ」
 二宮産業には恩がある。あの時、この十億を融通して貰えなかったら、確実に今の星崎工業所は無かった。夕子だけではない。ここにいる役員たちは全員、二宮社長に足を向けて寝られないと思っていた。
「二宮社長に何があったと言うのですか」
 夕子は立ち上がった。
「おいおい。人のことを構っている場合かよ。この手形が取り立てに回ったらどうなるか、あんたら、当然、わかっているよなあ」
 夕子の全身に悪寒が走った。
 この手形は期日が入っていないのだ。取り立てに回されれば、その日が期日となってしまう。
 今の星崎工業所に十億の手形を落とす力はない。実行されれば確実に不渡りとなる。
「郷原さん、あなた……」
 やはり郷原は星崎工業所から追い出されたことを遺恨に思っていたのか。
 星崎工業所を倒産に追い込むために、今日、ここに来たのか。
「状況は理解して貰えたようだな」
 郷原の顔が、蛙を追い詰めた蛇に見えた。資本提携どころではない。生殺与奪の権まで握られたようなものだった。
「私にどうしろと」
 それだけ言うのが精いっぱいだった。
「あんたにいいものを見せてやるよ」
 郷原はそれだけ言うと、鞄から革の首輪を取り出し、隣の女の前に投げ出した。
 女はテーブルの首輪を見て硬直した。顔が真っ青になっていた。
「ほら、どうした。いつものようにやってみせろよ」
 反対側に座った女が心配そうに見ていた。よく見ると、顔が似ていた。姉妹だろうか。もしそうなら、首輪を出されたのは姉の方らしい。
「ここで、ですか」
 蚊の鳴くような声だった。
「そうだとも。お前がやらないなら、こいつにやらせるだけだ」
 郷原がもう一人の女に向かって親指を立てた。
「ひぃっ!」と声を漏らす妹? それを気遣う姉?
 姉と思しき女が首輪を取った。
 首輪を自分で自分の首に着けると、後は手早いものだった。何かの作業をしているかのように、次々と身に着けている物を脱いでいく。
「郷原さん!」
 夕子が大きな声を上げた。
「口出しは止めて貰おうか。首輪をする時は素っ裸というのがルールなんでな」
 女はとうとう下着まで脱ぎ去り、全裸になると郷原のズボンのベルトに手を掛けた。下着を下し、手慣れた所作で郷原の一物を取り出すと、躊躇することなく口に咥えた。
「どうだ。よく調教されているだろ。俺の事務所では、いつもこいつがデスクの下にいて、俺のマラを舐めているのさ」
 郷原が自慢げに見せつけた。夕子は顔を背けるしかなかった。
 ビチャビチヤと音を立てて男根を嘗め回す女。
 初めて来た場所で、大勢の男女の目の前で全裸にされ、フェラチォを強要されているのだ。これが女にとってどんなに辛いことか。
「郷原さん、もういいです。もうわかりましたから」
 夕子は正面を向くことなく告げた。
「何がわかったんだ。俺の奴隷秘書になったらこんなものでは済まないぞ。それでもいいなら、あんたにも首輪をやるよ」
 郷原が、別の首輪を夕子に向かって投げて寄越した。
 一度テーブルの上で跳ね、夕子の脇腹に当たって床に落ちた。
 瞬時、首輪に目を向ける夕子。
「あんたがそれを着けて俺の事務所に来るなら、手形の件は悪いようにはしないということだ」
 夕子は正面に向き直る。女は目にいっぱいの涙を溜めながら勃起した肉塊を持ち上げ、裏筋に沿って舌を這わせていた。
「私に、奴隷秘書になれと」
 抑揚のない声で話す夕子。
 夕子の目には、目の前の女の姿が自分と重なって見えていた。
「ダメです。社長がそんなことをしてはいけません」
 細井だった。
「だったらどうする。他に会社を救う道があるとは思えんがな」
 答えはなかった。
 細井だけではない。誰一人、郷原に回答できる者はいなかった。
 静まり返った会議室に、女の舌を鳴らす音だけが響いていた。
 他に方法はない。資本提携している山吉興業に相談しようにも、そこの社長が郷原なのだ。銀行から借り入れしようにも、担保になりそうな資産はすべて山吉興業に押えられている。
(全部、この男の計画だったのね)
 八方塞とはこのことだった。
 会社を倒産させ百二十人の社員を露頭に迷わせるか、郷原の奴隷秘書となり生き恥を晒して生きていくか。
 今ここで結論を出せと言うには、あまりに酷な話だった。
「やはり俺のマラは舐められないか」
 沈黙を破る郷原の一言に、心臓が爆発しそうだった。
「郷原さん。昔のことは謝ります。土下座でも何でもします。だから会社のことだけは」
 夕子は言ってしまってから、ハッと喉を詰まらせた。
 親の仇に土下座しようと言うのか。
「そんな誠意のない土下座をして貰ってもなあ」
 郷原には、すべてを見通されているようだ。
「正直な話、俺だって女には苦労していないんだ。今更、あんたみたいな年増女に来られたって迷惑ってものさ」
 ひどい言われようだが、言い返す言葉が見つからない。
「一か月だけ待ってやるよ。その間に金の工面をするんだな」
 僥倖だった。
 夕子の脳裏にはT自工の堀田の顔が浮かんでいた。特許権が売れれば、十億の返済など何でもない。
「ありがとうございます」
 夕子は深々と頭を下げた。返済できるとわかった以上、郷原に頭を下げるのは癪だったが、手の内を見せるのは得策ではない、そう判断したからだ。
「その代り、担保はきっちりと入れて貰おう」
 商取引なのだ。手形の期日を延ばして貰う以上、当然の要求だった。
「わかりましたと申し上げたいところなのですが、郷原もご存じの通り、星崎工業所にはもう担保になるような資産はございません」
「あるじゃないか」
 即答だった。郷原は、星崎工業所を詳細に調査していた。夕子たちでさえ気付いていない価値を見つけ出していると言うのか。
「えーと、何が」
 もちろん、あるならそれに越したことはない。
「あんたの家だよ」
 確かに夕子の自宅は担保になっていなかった。先々代から受け継がれた星崎家の資産だ。一時的に根抵当が付いていた時期もあるが、細井たちの尽力により、今はきれいになっていた。
「担保としても良いですが、評価額は二億程度かと」
 十億には到底足りないという訳だ。
「土地建物だけならそんなものだろう。だが、あんたの個人資産全部と引き換えならお釣りが来る」
「個人資産って……」
 夕子は、細井と顔を見合わせた。
「そうだ。星崎工業所の全株式を含めたあんたの所有物のすべてを担保にするなら、この手形の決済を一か月待ってやろうということだ」
 勝ち誇ったように胸を張る郷原。
「郷原さん、あなたは星崎工業所を乗っ取るお積りですか」
 夕子よりも先に細井が詰め寄った。
「結果的にはそういうことになるか。確かに魅力的な会社ではあるがな。今の俺にはついでのことなんだよ」
「それってどういう」意味なのと追及したかったのだが、
「それでどうするんだ。このまま会社を倒産させるか。それとも個人資産を担保にして一か月待って貰うか」
 一度言葉を切った郷原だが「そうそう。首輪を着けて奴隷秘書になるという選択肢もあったな」と付け加えた。
 いずれにしても不安は拭えない。
 だが、夕子に選択の余地はなかった。
「一か月待って貰うわ」
 それを聞いた郷原の目つきが変わった。ジョーカーを引いてしまったのか。一瞬、ものすごい後悔に見舞われた夕子だが、すぐに他に方法がないのだと言い聞かせた。
「社長、良いのですか」
 細井は言うが、他の役員たちは、夕子の決断に安堵したようだった。
「いいわ。今はそれしかないもの」
「良く言った。それでこそ星崎夕子だ」言うが早いか、股間に顔を埋める女の髪を引っ張り、「何をしている。早く例の書類を出さないか」
 女は全裸のまま鞄を持ち上げ、クリアフォルダに挟まれた一枚の紙を取り出し、郷原の前に置いた。
「これに判を付いて貰おうか」
 郷原は、クリアフォルダのまま、テーブルの上を滑らせた。
 表題は《代位弁済契約書》となっていた。
 内容は単純なものである。十億円の手形が決裁できない場合は、決済時において星崎夕子か所有するすべての個人資産を持って弁済に充てる、というものだった。
 郷原の署名と捺印は済んでいた。あらかじめ用意していたのだ。郷原にとっては予定通りということなのだろう。
 特許を売れば決済はできる。
 夕子は躊躇なく署名した後、社長室から印鑑を持って来させ、捺印も済ませた。
「これでよろしくて」
 書類を受け取った郷原は満足気に頷いた。
「ああ、契約成立だ。決済日が楽しみだぜ。せいぜい金策に走るんだな」
 特許売買の件は社内でもトップシークレットだ。さすがの郷原も気づいていないのだろう。決済日に吠え面をかくのはどっちだと、夕子は内心ほくそ笑みつつ、
「これで決済できなかったら、私は無一文という訳ね」
 自分の口にした言葉に、予想もしなかった胸の高鳴りを覚えた。
「そういうことだ。俺の狙いは、あんたを丸裸にしてここから追い出すことだからなあ」
 胸の高鳴りが、さらに上乗せされた。
「丸裸って……」
「すべての個人資産と書いてあるだろう。無一文になるだけでは済まさねぇ。その時、あんたが着ている服もすべてだ。下着一枚許さねぇ。素っ裸にして表通りに放り出してやるから、覚悟しておくんだな」
 郷原は、できあがったばかりの《代位弁済契約書》を掲げながら宣言した。それが俺の復讐だと言わんばかりに。


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