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第6話 夕子の幸せ

 夕子の通勤は、自宅から徒歩で十分。駅から電車に乗って二駅で下車。駅前の繁華街を抜け、川沿いの道を歩いて五分の行程だった。
 先々代が建てた工場を中心に集落ができていた。
 夕子にとって、ここを歩いて通るのは、一つの楽しみでもあった。
「夕子ちゃん、おはよう」
 声を掛けて来たのは、今年三歳になる麻友ちゃんだ。朝早くから庭に出て、お母さんが洗濯物を干す作業を手伝って(?)いた。
「おはよう。麻友ちゃん。今日も元気ね」
 この集落に済む人たちは、星崎工業所の社員の家族であったり、取引業者であったり、下請けであったり、何らかの形で星崎工業所と係わっていた。創業以来、生活を共にして来た仲間だった。
「夕子ちゃん、今日も張り切っているね」
「今度、夕飯を食べに来なさい」
「家の嫁に来てくれんものかのう」
 すれ違う人たちの声に、夕子はストレスを癒されていた。
 住民が星崎工業所の敷地に集まり、春は花見、秋は芋煮会をして楽しむのも年中行事となっていた。
 両親と迎えた最後の花見では、郷原と二人、ひな壇に座らされ、本人たちの意思を無視して、恋人同士のように冷やかされたものだ。
「夕子さんは郷原さんのお嫁さんになるの?」
 どこで聞き付けたのか、子供たちが興味津々に聞いて来た。照れくさそうに笑う郷原の横顔は、どこにでもいる普通の異性だった。
 その頃の郷原は、当時の社長である父に呼ばれ、星崎家の敷居を跨いでいた。泊まっていくことも少なくなく、夕子が布団の用意をさせられていた。家族に準ずる存在になりつつあったのだ。
 それが今では、夕子を羞恥地獄に落そうとしている。
(ハダカになんて、されるものですか)
 夕子の肩には星崎工業所の社員だけではない。この人たちの笑顔と生活もかかっているのだと気持ちを新たにした。

        ◇

「カレシにワガママ言って甘えるカノジョさんみたいですね」
 それがあの子の感想だった。
 いつも通り、社長室であの子と二人きりになった夕子は、夕べの郷原とのやり取りを詳細に話して聞かせた。その結果がこれだった。
「なんでそうなるのよ。信じられないわ」
 夕子にとっては不本意極まりない返答だった。
「だって、郷原さんに何とかして欲しかったんでしょ」
「それはあいつが勝手に言ってるだけよ」
「そうなんですかぁ」
 夕子は朝一番で細井を社長室に呼んだ。昨日の役員会の議事録をめくりながら、一つ一つの事項について確認した。
 T自工との契約が成立した今、手形の決済は間違いないこと。
 郷原はT自工との取引を知る由もないこと。
 夕子が辱めを受ける可能性は皆無であること。
「あなたも聞いていたでしょ。あいつには何もできないわ」
 夕べの電話で、含みのある言い方をしていた郷原だが、夕子には何も思いつかなかった。細井も同意見だった。念のため他の役員たちとも検討しておいて欲しいと指示はしたが、回答は期待できないだろう。
「それで機嫌が悪いんですか」
「何よ。それ」
 星崎工業所が盤石であることのどこが悪いと言うのか。夕子の機嫌が悪くなる要素など、どこを探しても見つかる訳がない。
「だったら何で郷原さんに電話なんかしたんですか」
「それは……」
 夕子の中でも結論が出ていなかった。
「繰り返しになりますが、今の状況を郷原さんに何とかして欲しかったからじゃないですか。私には言うなと言っておいて、自分でリークしちゃってるじゃないですか。社長のことを一番よくわかっているのは郷原さんなんじゃないですか。社長もそのことに気付いているんじゃないですか」
「ダメっ! それ以上は言わないで」
 あの子の言う通りなのだろうか。夕子の知らない夕子を郷原は知っている。それを叶えようとしている。つまり、
「郷原さんは、今でも社長のことを愛しているのかもしれませんね」

 ――あの事故がなければ何度でも贈るつもりだったんだ

 あれは本当だったのだろうか。
 いや、今はそれを考える時ではない。決して認める訳にはいかなかった。
「あいつが欲しかったのは、私じゃなくてこの椅子よ」
 夕子は、両手を肘掛に載せて見せた。
 少なくとも、半分はそれで間違いない。夕子のことなど、オマケくらいにしか考えていなかった筈だ。
「それって悲しくないですか?」
「悲しくなんかないわよ。私はあいつのことを何とも思っていなかったんだから」
「ホントかなぁ」
「当たり前じゃない。それに今は親の仇よ」
 話していて高揚して来た。郷原は親の仇だ。その相手に恥を掻かされるなんて、絶対に有ってはならない未来だった。
 十億の手形は落せるし、代位弁済は公序良俗違反で実行できない。

 ――心配して電話をくれたあんたの期待に応えてな

 夕子が何を心配していると言うのか。何を期待していると言うのか。
(どうせ何もできないくせに)
 夕子はスマホを取り出すと、郷原のナンバーを表示させた。昨夜、通話を終えた後、登録しておいたのだ。消してしまおうかとも思ったが、
(少しで進展があったら、掛けて寄越しなさいよ)
 そう睨みつけながら、郷原憲三≠フ文字を親の仇≠ノ書き換えた。
 傍から見たら、随分と怖い顔をしていたのだろう。
「ほら、やっぱり機嫌が悪いじゃないですかぁ」
 あの子の方こそ怖い者知らずと言えよう。夕子はこめかみをヒクヒクさせながら、
「だったら、機嫌が良くなるようなこと、して頂戴よ」
 言ってしまった自分に驚いた。あの子と間でこの会話なら、それは先日のように下着なしで繁華街を歩くような命令を出してと言っているようなものだ。
「社長から催促なんて、珍しいですね」
「違うの。そういう訳じゃ……」
 と言っても、あの子は信じていないだろう。
「それでもいいんですけど、その前に確認しておきたいことがあるんですよ。社長はこの前、女をハダカにして外に出すような契約は無効だって言ってたじゃないですか」
「その通りだけど、何か?」
 最悪の場合、破産はしても、郷原の言うような辱めを受けることはない。
「そうでもないかもしれませんよ。《契約自由化法》の適用を受ければいいんです」
 あの子が言うには、例の小説『私を辱める契約書を作ってください』のヒロインは、全裸で街中を歩きながら猥褻罪にも問われず、それを強要した相手も強制猥褻罪に問われなかったのは、同法の適用を受けていたからだと言う。
「だって、それは小説の中だったからじゃ」
「《契約自由化法》って、ホントにある法律なんですよ」
「まさか、それが本当なら……」
 夕子はタブレットを取り出し、《契約自由化法》について調べ始めた。
 正式な名称は『契約の自由を促進するための法律』と言い、数年前に交付、施行されていた。許認可と言う利権の温床を廃し、スピーディかつ合理的な取引を実現することを目的とされており、施行後、多方面で有効に機能し始めていた。
 特に医学の分野では魔法の薬を生む法律として、患者ばかりでなく、医者や製薬会社からも支持されていると言う。
「この法律を適用すれば、あの代位弁済契約書も有効だと言うの?」
 例の小説では、ヒロインが、この法律に則った≪ペット契約≫を結んでいた。ペットだから服を着ないのは当たり前。猥褻罪には当たらないという理屈だった。
「難しいことはわかりませんよ。でも、可能性が全く無い訳じゃないですよね」
 夕子も俄かには信じられない思いだが、全く無い≠ヌころではない。やり方次第では公序良俗なんて問題にならない。郷原の思い通りにされてしまう。夕子は素っ裸で表に放り出されてしまう。
 夕子はデスクに顔を伏せ、頭を抱えた。
 心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。最後の砦ではなかったのか。
 夕子は今まで、どれほどこの砦に頼っていたか思い知らされた。手形を落とせずに破産しようとも、女をハダカにして外に出すなどと言った暴挙は法律が、世間が、常識が許す訳がない筈だった。
「ご機嫌は治りましたか」
 あの子は、何を誤解しているのか。
「冗談じゃないわ。これじゃあ本当に!」
 夕子の脳裏には、先日の夢の光景が広がっていた。星崎工業所の全社員が見守る中で身ぐるみ剥がされ、郷原の手で玄関から放り出される夕子。それがより現実的な姿として映っていた。
「ちょっと落ち着いてくださいよ。手形は落せるんだから、何の問題も無いんでしょ」
 その一言は、夕子が顔を上げるのに充分だった。
「そうだわ。手形は落せるのよ」
 手形さえ落ちてしまえば、元より代位弁済契約の出番は無い。砦を構えておく必要もないのだ。
「社長がパニックを起こすなんて珍しいですね」
「ごめんなさい。私らしくなかったわ」
 素直に反省の弁を述べる夕子。とは言いながらも、心の奥はまだ騒いでいた。いつまた爆発するかもしれなかった。
「それに簡単じゃないみたいですよ」
 あの子の言う通りだ。《契約自由化法》の適用を受けるには、専門家の承認と法律家の確認が必要、となっていた。非合法な案件を合法とする法律だ。当然のことながら、何でも良いと言う訳ではない。
「そうね。調べてみるわ」
 夕子は再び、タブレットと向き合った。

        ◇

 その日の夜、夕子は男に抱かれていた。
 男の名は桑谷章雄。高校の頃の同級生で、今は市役所の職員だ。二十八歳の頃、偶然の再開を果たし、魔が差したように交際をスタートした。
 イケメンでもなく、仕事ができる訳でもない。良く言えば熟考型、悪く言えば典型的な優柔不断キャラだ。
 そんな章雄が夕子にプロポーズ。星崎工業所の資金的に窮地に陥っていた時でもあり、返事は会社が落ち着いてからで良いということになり、その後は、会えば身体を合わせる仲だった。
(セックスって、こんなものだったのかしら)
 久しぶりの逢瀬だった。
 章雄の腕の中で幸せを感じる夕子ではあったが、また同時に退屈もしていた。
 学生時代はそれなりの男性経験も積んで来た。若さと欲望に任せたセックスに身を委ねて来た。だからだろうか、章雄の柔らかな手遣いに新鮮さを覚えた。この人は、自分を大切にしてくれている、そう思えたのだ。
 幾度となく情交を重ねても単調な正常位を繰り返すばかりだ。明かりを消した寝床の中で最小限の愛撫。乳房を揉む手は桃の身を掴むようにやさしく、下腹部に這わせる指は、その位置を特定するための実用的な意味しか無かった
 一緒に入浴した覚えも無い。章雄は夕子の全身全裸像を見たいとは思わないのか。
 夕子もまた、章雄のそれを口に含んだこともない。
 ただ、その膨張率は際立っていた。女の穴を一杯に埋め尽くされている時、夕子は至福を覚えた。
(もっと突いて。もっと激しく。私を滅茶苦茶にして)
 言葉に出来ない思いは伝わることもなく、膨張は収縮へと切り替わる。
 章雄とのセックスは、そういうものだった。
「良かった?」と問う章雄。
「良かったわよ」と答える夕子。ウソが上手くなったものだ。
 気遣ってくれている気持ちが、せめてもの救いと言えようか。
 だったら、一昨日アレは何だったのだろう。
 郷原憲三のもたらした羞恥の未来図に刺激され、妄想の中で自らの指技によるめくるめく快感。夕子にとって、性行為の概念を一変する出来事となっていた。
「俺、やっと係長の昇進するんだ」
 腕枕の中、章雄が突然、言い出した。
「そう。おめでとう」
 大げさに喜べることではない。同期の者たちからはずっと遅れた出世だった。
「だから、もういいんじゃないか。夕子だって、会社のために充分頑張ったよ。そろそろ自分のために人生を歩んだって良い頃だ」
 言いたいことはわかった。
 夕子も潮時かと感じていた。会社を守るため人生を犠牲にして来た、女の幸せを遠ざけて来たと言われれば、その通りなのかもしれない。
 ストレスチェックなどしたら、どんな結果が出ることやら。
 夕子自身、会社が落ち着いたら、社長職を誰かに譲って勇退しようと、これまでに何度考えたことか。
「それも良いかもね」
 章雄が身体を起こし、夕子の両脇に腕を付いた。
「結婚しよう。派手な暮らしは無理だけど、きっと夕子さんを幸せにしてみせる。今の俺にならできる筈だ」
 昇進の件もあり、章雄もそれなりに自信を持てたのだろう。それまでにない積極性を見せていた。
「どうしようかなぁ」
 心中とは裏腹な言葉だった。
「俺に何か不満でもあるのか」
「ううん、そうじゃないけど……」
「だったら」
「だって、男の人って結婚したら変わるって言うし。釣った魚にエサはやらないとか」
「夕子さん!」
 章雄の言葉が強くなった。
「ゴメン。冗談よ。章雄さんに限ってそんなことはないってわかっているわ」
 夕子は、章雄に抱き付き唇を合わせた。
 恋人同士の長く深い口づけになった。会う機会が少ないからだろうか。何度も身体を合わせていると言うのに、会う度に新鮮だった。
 この人となら幸せになれる、夕子は確信していた。
 章雄の両親とも顔を合わせていた。人懐っこい人たちだった。ごく普通のサラリーマン世帯で、長男が後を継ぐことも決まっていた。
「たまには孫の顔を見せに来てね」
 幸せな未来の約束だった。
 章雄に不満なんか感じていたら罰が当たる。それは充分にわかっていた。こんなにも自分を愛してくれる男性は二度と現れないだろうと思っていた。
 それが不満と言えるかどうかはわからない。
 が、一つだけあるとしたら、
[ねぇ、章雄さん。結婚しても変わらずに愛してくれる?」
「もちろんだとも」
「結婚した途端に変なこと、したりしない?」
「変なことって、どんなことだよ」
「家ではずっと裸エプロンでいろとか言わない?」
「そういう趣味はないよ」
「首輪を着けて引き回すとか」
「そんなことしないよ」
「ロープで縛って、鞭で叩くとか」
「俺は変態じゃないぞ」
「ハダカにして外に出すとか」
「夕子さんは俺だけモノだ。大切に仕舞っておくさ」
(仕舞われちゃうんだ)
 夕子は、章雄を見つめ直した。
「じゃあ、どうしてくれるの」
「今までどおり、いつまでもやさしく夕子さんを抱き締めるだけだよ」
「絶対に」
「うん。絶対だ」
「そう。ありがとう」
 夕子は、章雄の首に抱き付いた。
 この人となら幸せになれる。章雄と結婚することが夕子にとって最も幸福なことなのだ。それは疑う余地がないだろう。
 と言うことは、
(全部、今まで通りってことなのよね)



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