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第9話 全裸の花嫁

「随分と失礼な時間ですこと」
 夕子は、飛び付くように電話に出た。出てしまってから、自分の所作に気づいた。これではまるで、郷原からの電話を待っていたようではないか、と。
『そう言うな。この前の電話の礼を言おうと思ってな』
「電話の礼……?」
『ああ。励ましてくれただろ。その礼だよ』

 ――しっかりしなさいよ

 夕子は確かにそう言った。あれは郷原を励ましていたのだろうか。
「何か新しい作戦でも思い付いたのかしら」
 星崎工業所の役員たちも言っていた。郷原は手も足も出ないと。大丈夫だと思いながらも、なぜか胸をせわしくする夕子だった。
『もちろんだとも。手は打っておいてやったぜ』
 何とも恩着せがましい言い方だった。
 郷原の目的は、夕子を無一文の素っ裸にして表に放り出すこと≠セと言っていた。その手を打ったというのなら、夕子にとってゆゆしき問題だが、
「それはどうも」
 早なる心臓を押さえ、夕子は平静を装った。
『なんだ。驚かないのか』
「あなたのことだから、何もしないで手をこまねいていることはないと思っていたわよ」
 夕子の本音だった。
『わかってるじゃないか。ありがとよ』
「どういたしまして」
 夕子が驚いたのは、郷原相手に余裕で話している自分にだった。
『この前置いて行った首輪は持っているだろうなあ』
 夕子の皮肉には返すことなく、郷原は自分のペースで話を進めた。
「持っているけど、それが何か」
 ここにはない。会社の、社長室のデスクの引き出しに入れたままだった。
『奴隷秘書に近く欠員が出そうなんでな。あんたに来て貰おうかと思ったのさ。素っ裸で放り出されるよりはマシだろ』
 欠員……?
 夕子は、あの日、郷原が星崎工業所に連れて来た二人の女性を思い浮かべた。どちらかが辞める、あるいは、逃げ出したのか。
「あなたの奴隷秘書とやらになったら、私をどうするつもりなのよ」
 もちろんそんなつもりは微塵もない。だが、聞いてはおきたかった。
『あんたの場合は、俺の私室で飼い殺しにしてやるよ。一生、首輪を着けたままでな』

 ――首輪をする時は素っ裸というのがルールなんでな

 先日、郷原はそう言っていた。一生、首輪を着けたままと言うことは、衣服は一切着せて貰えないと言う意味か。
(ずっと全裸のままなんて)
 夕子の下腹部が甘く疼いた。郷原なら本当にやるだろう。奴隷秘書になったら最後、夕子は死ぬまで丸裸……
「欠員が出る訳ね」
 郷原の自業自得と言うやつだ。
『今なら歓迎なんだがな』
「まあ、遠慮しておくわ。こう見えても、私、結構衣装持ちだし。そうじゃなくたって、あなたの奴隷秘書なんてごめんだわ」
 相手が郷原でなければ、あるいは魅力のある提案だったのかもしれない。
『そうかい。だったらなぜ首輪を送り返して来ない。昔のあんたならそうしただろ。バイク便なら一時間で俺に届くぜ』
 婚約指輪のことを言っているのか。
「ちょうど大型犬を飼おうと思っていたところなのよ」
 番犬用にね、と付け加えた。
『俺は空き巣か。まあいい。奴隷秘書になっておけば良かったと後悔するんじゃねぇぞ』
「それはどうかしらね」
 と言うより、夕子が辱めを受ける可能性は、限りなくゼロに近い。
『覚悟を決めるんだな。どうせ逃げられないんだから』
「あなた、本気で言っているの」
『当たり前だろ。そのために準備して来たんだからなぁ』
 その自信はどこから来るのだろうか。手形は落せるし、最後の砦も今のところ健在だ。郷原の思い通りになる余地はない筈だ。
「それで、その準備とやらは完了したのかしら」
 夕子の知らない何かがあると言うのだろうか。
『ああ、万全だ。あんたの望みを叶えてやるぜ』
 夕子を無一文の素っ裸して放り出すことが望みを叶えることだと、郷原は本気で考えているらしい。是非はともかく、夕子のために行動しているという訳だ。
「それはありがとう」
 皮肉と本気の入り混じった返答だった。
『なんだ。今日は随分と機嫌が良いようだな』
(そうかもしれないわね)
 郷原が親の仇であることに違いはないが、性生活において退屈な日々を過ごしている夕子は、郷原との会話にギリギリのスリルを求めていたのかもしれない。
「そうね。今日は気分が良いの。教えてあげましょうか。私、今、素っ裸なのよ」
 夕子はガラス戸に映った自分の姿を見遣る。電話とは言え、郷原と全裸で話をしている自分がおかしかった。
『ほお。それはそれは』
 夕子にイタズラ心が芽生えた。
「いいわ。今なら、一つだけ言うことを聞いてあげる」
『珍しいこともあるものだな』
「ハダカの私に、何をさせたい?」
 自分でも、何を言っているのかわからなかった。
 郷原は何を求めるのだろう。ハダカのまま庭に出て歩き回れと言うのか。それとも近所を一周して来いとでも言うのか。夕子のヌードを自撮りしてメールで送れと言われたらどうしよう。そんなことを考えていた夕子に、
『それじゃあ、俺と結婚して貰おうか』
 予想だにしない郷原の言葉に、夕子の大脳はフリーズした。
 緊急脱出装置が働くまでに五秒。
「な、何言ってるの。このバカっ!」
 夕子は一方的に電話を切った。
 全裸のまま、寝室のベッドに飛び込む夕子。スマホは握り締めたままだった。

 オルガンの音が流れる中、夕子は、章雄の腕を取って歩いていた。
 左側の席には会社の皆がいた。右側には章雄のご両親や親戚の方々、市役所の職員たちがいた。夕子と章雄、それぞれの友人たちも集っていた。
(そうか。今日は結婚式だったんだ)
 花嫁に視線が集中しているのがわかる。どうにも照れ臭いものだ。ベールで顔を隠くのはこのためだったのかと痛感しつつ、祭壇に上がった。
 女性として生まれたからには、誰もが夢見る瞬間だ。これからの結婚生活に夢を馳せ、人生で最も幸福な時間と言って良いだろう。
 神父様の問いかけに「はい。誓います」と答えた。
「それでは、誓いのキスを」
 章雄と向き合った。
 ベールを持ち上げる章雄。こんなに大勢に見守られて、ちゃんとキスができるのかしら。
 夕子は、ゆっくりと顔を上げる。
 そこにはある筈の顔ではなく、郷原のそれがあった。
「初めて見せて貰ったが、きれいなものだな」
 郷原の視線は、夕子の顔には向いていなかった。
 夕子は気づいた。
 視線を集める筈だ。
 夕子は、ベールの他には、何も身に着けていなかった。

 夕子は、ベッドの上で飛び起きた。
 外は白み始めていたが、出社時間にはまだ少しあるようだ。夕子は、全裸の身に掛布団を巻き付けた。

 ――それじゃあ、俺と結婚して貰おうか

 夕べのあれは何だったのか。
 とてもではないが、章雄がしてくれたプロポーズと同種の物には思えない。「何を言ってるの」と電話を切ってしまった夕子だが、今にして思えば、真剣な求婚でないことは明らかだ。
 夕子が結婚≠ニ言う言葉に微妙な年頃だからだろうか。
 だとしたら、この胸のときめきは何なのか。少なくとも、章雄にプロポーズされた際には覚えなかった感情だ。まるで、初めて男の子に告白された時のような……
 そんなバカなと、夕子は頭を左右に振った。
 郷原の口から出たことが、それだけ意外だったと言うだけだ。そうに違いない。郷原は親の仇。郷原の運転する車で両親は命を落とした。その事実は変えようもない。
 だが、もしあの事故がなかったら。

 ――あの事故がなければ何度でも贈るつもりだったんだ

 その言葉が本当なら、郷原と共に過ごす人生が存在していたかもしれない。
 そもそも、どうして夕子は郷原を挑発するような言葉を口にしたのか。あの子が命令して来そうな内容を郷原に期待していたとしか思えない。
 十数年ぶりに会った憎むべき相手に、一体何を望もうと言うのか。
 何が何だか分からなくなっていた。
 郷原は、夕子を無一文の素っ裸にして会社から放り出そうとしている男だ。
 夕子に首輪を着け、奴隷秘書にしようと企んでいる男だ。
(そんな男の花嫁になんてなれないわ)
 ようやくその結論に達した夕子は、スマホを取り出して章雄に電話を掛けた。
 呼び出し中の時間が長かった。やっと出た章雄。
『どうしたんだい。こんなに早く』
 寝ぼけ声で言われて気づいた。普段なら、まだ、寝ている時間だった。
「ゴメンね、章雄さん。どうしても話がしたかったの」
『夕子さんにもそんなところがあるんだな。ちょっと驚いた』
 普段の夕子を知っている者なら当然の反応だった。
「章雄さん、真面目に聞いてね。この間のお話、お受けします」
『この間のって、プロポーズのこと?』
「そうよ、章雄さん。私をお嫁さんにしてください」
 夕子は驚いていた。自分の口から、こんなにもしおらしい言葉が出たことに。
『なんだ。それで電話したの』
「なんだとは何よ。大切なことだわ」
『だって、もうとっくにOKして貰えたものと思っていたから』
「そうだっけ」
 確かにその通りだ。あの日、それをはっきりと口にしなかっただけで、話の流れは明らかにOKだった。
『そうだよ。酷いなあ。今まで迷っていたってこと?』
「そうじゃないけど」
『まあ、いいさ。どっちにしても俺たち、結婚するんだよな』
 実感の籠った言葉に胸が熱くなった。
「ええ、そうよ。幸せにしてね」
『がんばるよ』
 夕子は、今の仕事が一段落したら社長の任から離れるつもりであること、その旨を役員会でも報告済みであることを告げた。
 章雄が喜んだのは言うまでもない。
『そうだ。婚約指輪を買いに行かなきゃ』
「そんなのいつでもいいわよ」
『ダメだよ。こういうのはケジメだから』
 いかにも、真面目な章雄らしい。
「そうね。ありがとう」
 結納や結婚式の日取りなどは、章雄の両親とも相談してと言う話になり、
『結婚式は和式と様式、どっちがいい?』
「そうね。やっぱり様式かな」
『夕子さんのウェディングドレス姿、きれいだろうなぁ』
 章雄のデレデレになる姿が、夕子の目に浮かんだ。
 これでいい。
 これが普通の恋人同士。これが普通の結婚なんだから。
 夕子は胸の中で何度も唱えた。

 出社すると、細井にだけ、章雄との結婚の話を告げた。本当なら緊急役員会を開きたいところだったが、このところ立て続けだったこともあり、また夕子のプライベートでもあるため、こうした形を取った。
「おめでとうございます」と恭しく頭を下げる細井。これで先代社長にも顔向けができると、そんなところだろうか。
「あと一つ、お願いがあります」
 夕子が勇退するに当たり、密かに考えているもう一つの懸案事項があった。そのために、細井にはどうしても調べておいて欲しい事項があったのだ。
「承知しました」と細井。「夕子ちゃんも、成長なさいましたな」
 どこか遠い空を眺めているような細井。夕子ちゃん≠ニ呼ばれるのも久しぶりだった。
 細井が去り、社長室のデスクで大きなため息を漏らしていると、
「社長もいよいよ結婚かぁ」
 あの子の言い方は残念そうにしか聞こえなった。
「失礼な子ね」
「だってぇ、私の楽しみがぁ……」
 あの子の場合、どこまでが本気なのかわからないところがある。
「本当に失礼だわ」
 夕子は、デスクの上で両手を合わせた。
「また、機嫌が悪くなっちゃいましたね」
 あの子は言うが、
「あら、機嫌はいいわよ。婚約したばかりだもの。悪い訳ないじゃない」
 その筈だと思う。
「そうですかぁ」あの子は訝しげな目を向けた後、「あっ、そう言えば、心療クリニックからは返信がありましたか」
 夕子は、今の今まで忘れていた。早速、タブレットでメールをソフトを立ち上げる。受信トイレに溜まっていたメールの中から米倉クリニックの物を見つけるのに時間は掛からなかったが、
「もう、どうでも良くなって来たかも」
 正直なところだった。
「ダメですよ。ちゃんと受診しましょ」
 これではまるで夕子が、病院に行きたいないと駄々をこねている子供のようだ。
 クリニックからのメールでは、問診票の範囲では露出症の所見は見られないものの、気になる点はあるとのこと。実際に話をし、検査を受けて貰ってから診断を下したいとのことだった。
(所見は無し、か。まあ、当たり前よね)
 あの問診票で何がわかると言うのか。本当のところ、夕子が露出症か否かには興味がなくなっていた。それよりもむしろ、後追いで添付した《契約自由化法》に関するレポートの方が気になっていた。
「しょーがない。行ってくるわ」
 予約は今週の金曜日、午前十時となっていた。

 その日の仕事もそろそろ終わりと言う頃になり、夕子は社内を巡回していた。仕事の進捗状況の確認、社員とのコミュニケーション、単なる気分転換、色々な意味で定期的に行っている行事の一つだ。
 どこの部署に行っても、夕子の姿を見るだけで社員たちに緊張が走った。それだけでも社内巡回をする意味があると細井は言っていた。
 廊下を歩いていると、若手社員の芦田弘治に呼び止められた。仕事上での接点はなく、すれ違えば会釈くらいはするが、宴席以外で話をするのは稀だった。
「社長、会社を辞めちゃうんですか」
 どこから知れたのだろうか。夕子は役員会の面々を思い浮かべた。
「ええ。考えているわ」
 正直に答えた。社長交代が社員にとって重要なのはわかる。他にも聞き耳を立てている者がいるだろう。おかしな風に伝わるのは避けなければならない。
「やっぱ本当なんだぁ。俺、どうしようっかなぁ」
 弘治は、大げさに頭を抱えた。
「あら、プロポーズでもしてくれるのかしら」
 夕子は、そんな弘治の胸に指先を触れ、科を作って見せた。
「からかわないでくださいよ」
 慌てて後ずさり弘治。
「残念だわ。私がいなくなっても、お仕事頑張って頂戴ね」
 将来の星崎工業所を担っていく若手たちだ。プロポーズはもちろんだが、「社長が辞めるなら、一緒に辞めます」などと言われても困る。
 が、その言葉は弘治の口から出た。
「社長がいなくなったら、俺、困ります」
 いよいよ冗談ではなくなりそうだ。周囲の視線も気になる。これ以上は拙いと判断した夕子は、口元に手を当て、
「私がいなくなったら、引き回し≠ナきなくなってしまうものね」
 いつかの宴席での仕返しとばかりに、いたずらっ子の目を向けた。
「勘弁してくださいよぉ。そんなの覚えていたんですかぁ」
 弘治が逃げ出した。十メートル程走ってから振り向き、思い出したように「失礼しました」と頭を下げた。


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