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第18話 秘策

「心療内科医って、尾行もするんですか」
 夕子は皮肉交じりに言った。
「するわよ。気になったら尾行でも張り込みでも。でも、今回の場合は待ち伏せかしら。私の方が先に着いていたもの」
 真知子が右手の親指で停車中の車を示した。
 なるほど。夕子の負けのようだ。
「それで、どうしてここだと?」
 真知子はやっぱり≠ニ言った。夕子がここに来ると予想した根拠を知りたかった。
「簡単よ。夕子ちゃんは、ここでヌード写メ撮っていたんだから」
「そんな言い方しなくたって!」
 夕子は身体を捻り、両手で頬を覆った。覚えはなくとも写真はあるのだ。ヌード写メを自撮りしていた事実は否定できない。
 確かに公園内に入ってしまえば、人の通りからは離れられる。まして深夜なら、誰にも気づかれずに撮影ができるだろう。
 夕子は身体を起こし、もう一度、公園の噴水に目を向けた。
「背景を見て、ここだってすぐにわかったわ」
 気が付くと、真知子も同じ方を見ていた。
「何か?」
 真知子の言い回しも、視線も、意味ありげ過ぎだった。
「余程、思い入れがあったのでしょうね。何か思い出さない?」
「思い入れって言われても……」
 当時の夕子は大学を卒業したばかりで職にも就かず、花嫁修業の真似事は強制されていたものの、総じて退屈していた。
 だからと言って、セルフヌードに走るとは思えない。
 公園の場所は繁華街からそれほど離れてはいないが、飲み会の立ち寄るような場所ではない。まして女一人で深夜に足を踏み入れようとは思わないだろう。
「この奥、昔は不良のたまり場だったのよ」
 真知子は、噴水の先に造形された小山を指差していた。
 なんてことだ。夕子は近くに不良たちがいるとも知らず、ヌード写メを撮っていたのか。それを見つかった追いかけられた。服を着る余裕もなかったのだろう。手元に携帯電話があったのがせめてもの救いだった、と言うことか。
 夕子は、今さらながらに震えが来た。
「でも、私、どうして」
 ここでハダカになったのか。問題は何も解決していなかったのだが、
「行くわよ。目的はこっちでしょ」
 真知子が踵を返し、歩き出した。
 何もかもお見通しらしい。夕子は、あの事故の真相が知りたくてここに来たのだ。あの日と同じルートを歩いたら、何か思い出すのではないか。
 真知子は車を駐車させたまま、夕子が歩いて来た道を戻っていた。
 あの公園から逃げ出すなら、確かにこの方向だろうか。当てがあったとも思えない。とにかく人のいる方へ。いや、そんな思考すら浮かばなかっただろう。ただひたすら、追いかけてくる不良たちから逃げることだけを考えていたに違いない。夕子は全裸だったのだ。捕まればどうなるか。火を見るより明らかだった。
 夕子がタクシーを降りた通りに出た。
 事故現場である交差点が見えた。
 あの日、夕子はあの場所に向かって走ったに違いない。その景色が近づいて来るに連れ、おぼろげながら記憶を動かす物があった。
 深夜の通りには、人も車もいなかった。
 背後の足音を気にしながら逃げる夕子。いよいよ交差点と言う時になって、
「そうだわ。道の向こうに車が見えて……」
 先行していた真知子が振り返る。足を止めようとはしなかった。
「思い出したのね」
「はい。正面から近づいて来る車があって、私はきっと、その車に助けを求めようとしたんだわ。それで道路に飛び出して……」
 交差点に辿り着いた。赤信号を無視して飛び出そうとする夕子。
 日中の今は交通量も激しい。真知子が抱き付いて止めていなかったら大参事になっているところだった。
「夕子ちゃん、落ち着いて。誰も追いかけては来ないわ」
「えっ!? 私、どうして」
 真知子の腕の中で、顔を上げる夕子。
「事故の時をの様子を思い出していたのよ。でも、もう大丈夫ね」
 赤信号だったのかと、夕子は得心した。
 だが、はっきりと覚えている。あの日の信号は間違いなく青だった。素足のまま歩道からアスファルトに飛び出す自分が甦る。
 その時、予想外の方向からヘッドライトに照らされた。横切っていた幹線道路の左側からトラックが突っ込んで来たのだ。
 恐怖が全身を硬直させた。
 次の瞬間、何もできずにいる夕子の前に、見覚えのある車両が突っ込んで来た。
 父親のベンツ……?
 直感的にそうかもしれないと思えた後、意識は途切れた。
「後は、細井さんの言う通りなのね」
 時々、大脳に忍びこんでいた記憶は、後から補てんされたものなのだろう。あの瞬間、あの暗さが運転席の郷原が見える筈もない。いわんや後部座席の両親をや、だ。
 夕子は歩いて来た方向を振り返る。
 こちらからでは幹線道路の通行は見えない。だが、郷原の側からならばすべてが見えていただろう。
 道路に飛び出す夕子も。
 夕子に向かって突き進むトラックも。
「そんなことって……」
 夕子は頭を抱え、歩道に蹲った。
「どうしたの、夕子ちゃん。何を思い出したの」
 必死に夕子の肩を揺する真知子だが、夕子は何も答えない。自分の思い付いた発想を認められかったからだ。
「すみません。一人にしてください」
 夕子はやっとそれだけ絞り出すと、自己の貝殻に閉じこもった。

        ◇

 車で送ると言う真知子の申し出を断り、夕子はタクシーを拾った。
 背もたれに身体を傾ける。
 後部座席の重苦しい空気を物ともせずに、
「きれいな公園でしたよねぇ」
 だからどうだと言うのだ。今の夕子に景色を愛でる余裕がないことくらい、わかっているだろうに。
「ちょっと大人しくしていてくれる」
 社長としての指示だったのだが、
「社長の気持ち、わかりますよ。あんな場所だったら、私だって噴水をバックにヌードを撮りたいとか思うかも」
「話を合わせなくていいのよ」
「私が、そんなことをする玉ですか」
 夕子は、上体を起こした。確かにそうだ。あの子に限って、安っぽい同情などはしないだろう。夕子の前だけという可能性もあるが。
「興味があるわけ」
 あの子なら、本当にやるかもしれないと思えて来た。
「そりゃあ、ありますよぉ。女の子なら誰だって、きれいな内に自分のヌードを残しておきたいと言う思いはあるものです」
 夕子の場合、そんなに可愛いものではないと思うが。
「何なら、今から引き返す? 私が撮ってあげるわよ」
 あの子の弱みを握れるかもしれないと期待したのだが、
「撮りたいと思うのと、実際に撮るのは違いますよ。その点、社長は尊敬します。実際にセルフヌードを撮っているんですものねぇ」
 やはり、あの子の方が上手のようだ。
 それにしても、さっきから胸の奥に詰まっていたものが軽くなった。あの子がこれを狙っていたとしたら……そんな筈はないか。
 まあ一応、心の中だけでも、お礼を言っておこうかと思った矢先だった。
「良かったじゃないですか。郷原さんが親の仇だと確認できて」
 今から、その話へ持っていくのか。
「それはそうだけど」
「でも微妙な立場になってしまいましたね。親の仇には違いないけど、社長にとっては命の恩人でもある訳で」
 やはりそういうことになってしまうのだろう。郷原はトラックに轢かれそうな夕子を見つけ、咄嗟の判断でトラックに突っ込んだ。わが身の危険も顧みずに。
 その結果、両親は命を落し、郷原自身も生死の垣根を行き来した。
 夕子だけが五体満足。
「言わないで頂戴」
 夕子は両手で顔を覆った。
 真知子にはわかっていたのだろう。だからこそ郷原さんが可哀想≠ニなる訳だ。
 夕子は命の恩人である郷原を一方的に憎み、会社を解雇した。真知子がそうした治療をしたせいでもあるが、郷原も、その話は聞いていたのだろう。真実を明るみにはできなかったに違いない。
 恐らく郷原も、全裸の夕子を目にしていたのだろうから。
「どうするんですか、社長」
 言わないでいてくれるあの子ではなかった。
「どうするって言われても……」
 返事のしようがない。
「郷原さん、恨んでますよぉ。自分の命を投げ出してまで社長を助けたのに、お礼どころか、散々の仕打ちを受けたんですからねぇ」
「どうしろって言うのよ」
「こうなったらもう復讐させてあげるしかないんじゃないですか」
 それが言いたかったのか。
 夕子は急に肩の力が抜けた。シリアスな話と思って真剣に聞いていたら、いつもの煽りだったなんて。

 ――社長が素っ裸で追い出されるところ、見てみたいじゃないですか

 あの子の頭には、それしかないらしい。
「そうね。それもいいかも」
 話を合わせる夕子。
「でしょ。でしょ。やっぱ、それしかないですよ」
「それで、私にどうしろと言うの」
 あの子の言う通りにしていたら、敵に塩を送るどころではなくなりそうだが、
「郷原さんに電話するんですよぉ。手形が落とせなくなったから、代位弁済契約の方を実行して欲しいって。郷原さん、喜びますよぉ」
 と言われても、郷原の破顔した様子を想像するのは難しかった。
「喜んでるのはあなたでしょ」
「えへっ。バレました?」
「バレましたじゃないわよ。あなた、そんなに私をハダカにしたいの」
 タクシーの後部座席だ。さすがに後半部分は声を潜めた。
 あの子は夕子の耳元で手を翳し、
「正確には、社長を無一文の素っ裸で会社から放り出したいんです」
 その一言で耳元まで熱くなる夕子。
「そ、それがどういうことか、わかって言っているの」
「もちろんですよ。だから社長、郷原さんにはちゃんと言っておいてくださいね。詰めの甘いのはなしだって」
 いつだったか、あの子に話した覚えがある。郷原は詰めが甘い≠ニ。
「それを私からお願いするの?」
 代位弁済契約が実行されたところで、公序良俗違反の問題が残っている。美倉医師の診断書もある。会社を乗っ取られることはあっても、夕子がそれ以上、ひどい目に遭うことはない。
「そうですよ。郷原さんって、案外ヘタレだったりするじゃないですか。どうせやるならパンツ一枚許さないでって。社長もその方が良いでしょ」
 
 ――下着一枚許さねぇ。素っ裸にして表通りに放り出してやる

 郷原は、確かにそう言った。
「そうね。ヘタレかもしれないわ」
 現実問題として、あの電話以来、何も言って来ない。奴隷秘書にストリーキングさせたり、社員に変な噂を流したりはしたが、だからどうと言うことにはなっていない。むしろ、夕子にとっては盤石さが増したくらいだ。
「だから恩返しですよ。恩返し。楽しみだなあ。社長が羞恥に震えるとこ」
 あの子は、本当に楽しみのようだ。
「絶対ですよ」、「今夜の内に電話しておいてくださいね」などと念を押しつつ、「私なら○○もさせるのに」などと妄想を膨らませていた。
 そんなあの子に目を細める。おかげで落ち着きを取り戻した夕子は、
「その前に細井さんと相談しなきゃ」
 以前に思い付いた秘策とリンクさせていた。
(恩返しねぇ)
 もうすぐ嫁入りする身の夕子だ。会社にとっても、それが最も良い方法だと思えた。

        ◇

 会社に戻った夕子は、早速、細井を社長室に呼んだ。
「代位弁済契約を実行したら、どうなると思いますか」
 躊躇うことなく言い切った。
「具体的には、どのようになさるおつもりでしょうか」
 細井の反応は、夕子の考えていたものではなかった。
「驚かないのね」
「はい。予想はしていましたので」
 先日、郷原の人となりについて話した時から、夕子の様子の変化に気付いていたのだと言う。真知子からも連絡が入っていたのだろう。
「預手の二十億は、これからの星崎工業所にとって必要なお金だわ」
 夕子の考えの基本はこうだった。
 郷原が持ち込んだ十億の手形の決済を夕子の個人資産を以って代位弁済することにより、特許の売却代金二十億円をそっくりそのまま会社の資金として残す。
 会社にとっては良いことづくめだが、問題は二つある。
 一つは、オーナーが夕子から郷原に代わること。もう一つは、夕子がすべてを失い、郷原の辱めを受けることだった。
 前者については、先日の細井の調査でクリアされていると言って良いだろう。血の繋がりによって経営の責務を押し付けられた夕子より、役員たちから才能を認められ、実績も残し、資金力もある郷原の方がオーナーにふさわしい。
 問題は後者だ。
 祖父の代から住み続けた家を明け渡すのは申し訳ない思いだが、星崎工業所の発展を見積もればお釣りが来ると思いたい。どのみち夕子自身は、いつかは結婚してあの家を出ようと思っていた。思い入れはなかったのだが、
「それでは会社で買い上げましょう」
 細井からの提案だった。会社の資産にしてしまえば、郷原に取られることはない。ありがたい提案だったが、家の代わりに、夕子に払ったお金を取られてしまう。それでは何にもならないではないか。
「そうだわ。いいことがある」
 夕子は思い付いた。自宅の売却代金は、会社から夕子の口座に支払われると同時に章雄の口座へと振り返る。花嫁の持参金と言う訳だ。
「なるほど。では、そのように手配致しましょう」
 売却代金は五千万円に決まった。時価からすれば少ない金額だが、社長が会社に売却する金額と考えるなら多過ぎるかもしれない。
「ご先祖様の墓前で土下座してくるわ」
 一人息を吐く夕子だった。
「先代は許してくださいますでしょうが」細井は重い口で続けた。「社長は、本当にそれでよろしいのですか」
 言いたいことは充分に伝わった。
 これを実行すれば、夕子はすべてを失うことになる。もちろん、それだけでも人生の一大事に違いないが、一歩間違えれば女性としての一生も失う結果になりかねない。細井もその可能性を案じての質問だったのだろう。
「細井さんは、何を心配しているのかしら」
 少しいじわるな質問だったかもしれないと思ったのだが、
「契約の趣旨に沿って実行されれば、社長が辱めを受けることになります」
 大事なことだ。やはり、言うべきことは言う男だったかと、夕子は頼もしげに細井を見つめた。
「その可能性は限りなく小さいと思っています」
 郷原は役員たちの前ではっきりと口にしていた。夕子を素っ裸にして表通りに放り出してやる≠ニ。現実に郷原は、自分の奴隷秘書を全裸で行動に放り出し、次はあなたの番よ≠ニ言わしめて見せた。
 それでも尚、夕子には最後の砦があった。
 仮にそれがなくでも、郷原の人となりや命の恩人であることを合わせて考えれば、夕子をひどい目に遭わせるとは思えない。
「本当にそれでよろしいのですか」
 細井は繰り返した。
 夕子は「ええ」と首を縦にした後「と言っても、私だって簡単には無一文になんかならないわよ」
 全財産を失うのだ。生半可な覚悟ではない。
「それが当たり前でしたね」
 細井も思い出したようだ。普通に手形を落し、残った資金で星崎工業所を運営して行く、それが本来の姿であり、それができるだけの資金もある。夕子が無一文にならなければならない理由はなかった。
「それに、落せるものを落とさずに代位弁済なんかしたら社員の皆が何て思うかしら」
 夕子は弘治の、さらには晴夏の顔を思い浮かべた。
(それこそ変な噂≠肯定することになってしまうわ)

 ――星崎夕子は、無一文の素っ裸で会社から放り出されたいと望んでいる。

 夕子としても、それだけは避けたいと思っていた。
「それではなぜ……」
 怪訝な表情を浮かべる細井に、
「あの子がうるさいのよ。敵に塩を送りなさいって。今夜にでも電話しておくわ。チャンスを生かせるかどうかは、郷原さん次第ですけど」
 夕子は、送る塩の意味を告げた。


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