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第21話 代位弁済

 一夜が明け、代位弁済契約実行の当日を迎えた。
 郷原が手形を取り立てに回したと聞いた時は絶望感も味わった夕子だったが、今は不思議と落ち着いていた。
 マリナのおかげだと思う。
 昨日の面談で、夕子の一番弱い部分を曝け出した。郷原が夕子に、本気で復讐の趣旨に沿った代位弁済契約の実行を迫ろうとしたら、この日のやり取りは避けて通れない。その部分をマリナに預けられたことは僥倖だった。

 ――大丈夫です。任せておいてください

 時間が経つにつれ、マリナを信じて良いように思えて来た。女性の弁護士なのだ。同じ女性である自分を、決して悪いようにはしない。細井から、夕子の秘策の趣旨も聞いている筈だ。十億の負債を最小限の費用で帳消しにし、夕子を郷原の魔の手から救う、それができる人物なのだと考えていた。
 そうでもなければ、昨夜は一睡もできなかったところだろう。
 夕子は、いつものように朝を迎え、いつものように出社し、いつものように社長室に入った。いつもと違うのは、下着を選ぶのに時間を掛けたことくらいか。スーツはグレイ、ブラウスは白と無難なコーディネイトだった。
「いよいよですねぇ」
 いつもと違うのはもう一つ、あの子が期待に満ちた笑みを浮かべていた。
「何がいよいよ≠諱Bあなたの思い通りになんかならないんだから」
「だと、いいですねぇ」
「そうなる前提で話さないでくれる」
 夕子は、あくまで強気だった。
 マリナだけではない。最後の砦は未だ健在の筈だ。当の郷原でさえ、夕子にとって命の恩人であり、悪しからぬ心証を持っている。復讐だなんだと言っても、言葉の通り実行するとは思えない。
 細井がいる。真知子がいる。
(だから、きっと大丈夫だわ)
 この自信は、そうそう揺らぎそうになかった。
「さあ、お客様を出迎える準備よ」
 夕子は、会議室に向かうべく、社長室を出た。
 その出たところで芦田弘治と出会った。と言うより、夕子に話が有って待っていたのかもしれない。そんな雰囲気だった。
「どうしたの。こんなところで」
「社長、それがそのぅ……」
 言いづらそうにする弘治。それほど時間がある訳ではない。こうしている間にも、郷原が来るかもしれないのだが、先日も貴重な情報を持って来てくれた弘治だ。「後で」と言う訳にもいかないだろう。
「はっきりしなさい」
 少しだけ、強い口調になった。
「はい。昨日の弁護士さんなんですけど……俺、弁護士だとは知らなくて、余計なことをしゃべってしまったかもしれません」
 マリナのことか。
「どういうことかしら」
 弘治によれば、マリナは探偵と名乗り、何日か前から会社の近くをウロウロしていたらしい。星崎工業所の社員を呼び止めては質問責めにしていた。名前は教えられないが縁談があって、社内に変な噂がないが調べているとだと言っていた。
「あの人、すっごくきれいで、俺、つい社長の噂とか話してしまったんです」
「私の噂って……」

 ――社長は、無一文の素っ裸で会社から放り出されたいと望んでいる

(あの件か。だが、なぜマリナが?)
 夕子はすぐに思い直した。恐らく昨日の質疑応答と同じなのだ。夕子のウイークポイントを抑えておくことは、弁護士として必要な作業なのだと。
「大丈夫よ。気にしなくていいわ」
「で、でも社長。俺の他にも聞かれていたやつがいるみたいなんです」
「わかったわ。ありがとう」
「それで、俺……」
 まだ言い足りないのか、その場に立ち尽くす弘治だったが、
「もう行きなさい。始業時間は、とっくに過ぎているわよ」
「は、はい。すみません」
 駆け去る弘治の背中を追いながら夕子は思った。できれば郷原が来る前に、マリナと打ち合わせをしておきたいと。

        ◇

 会議室には、すでに星崎工業所の役員全員が集まっていた。
 昨日の打合せ以降にあった変化はマリナの訪問くらいか。だが、それ自体は新たな情報という訳ではない。また、夕子とマリナのやり取りは、ここにいる者にとって、事実関係の確認に過ぎなかった。
 楕円形のテーブルの片側に並んで座った。郷原たちと対峙するためだ。
 社員には十二時に、玄関前の広場で昼礼を行うと言ってあった。郷原と法的な手続きやその他の詳細を詰め、社長の交代を発表する手筈になっていた。 
 こうして役員たちの真ん中に座るのもこれが最後かもしれない。ふとそんな思いが湧き、自然と言葉が漏れた。
「皆さん、今まで本当にありがとうございました」
 夕子は立ち上がり、上体を深々と折った。
「社長がそんなこと……」
「勿体ないことです」
「まだ、これで終わりと言う訳では」
 口々に言うが、本音はどうであったか。世襲と言うだけで社長に就任した小娘に対し、面白くない思いをして来たことも多かったに違いない。
 それでも一緒にここまでやって来た。
 かなり歳は離れているが、夕子にとって最高の仕事仲間だった。
 誰からともなく、昔話が始まった。あの時は危なかったとか、今後こそダメかと思ったとか、苦労話ばかりが先行したが、決してそれだけではない。星崎工業所が偉業を達成した例も少なくない。水素吸蔵合金の新技術の開発に成功した時などは、一躍、時の人の仲間入りもした。
 設備もある。技術力もある。有能な人材も揃っている。潤沢な資金さえあれば、星崎工業所はこれからいくらでも新技術に取り組んでいける。
 夕子には、確かな手応えと自信があった。
 ずっと以前からそうだった。郷原の持ち込んだ手形のせいで――いや、その前からだったかもしれない。資金繰りに追われ続けていたせいで忘れていただけなのだ。
 財務担当役員からも報告があった。
 特許の売買代金二十億円に手を付けることなく、郷原の持ち込んだ手形を処理することができれば、星崎工業所の財務は安定する。そうなれば金融機関から開発費の融資を受けることもできる、と。
 確実な未来が、すぐ手の届くところに見えていた。
 細井も、同じ思いを抱いていたようだ。
「これからの星崎工業所があるのは、星崎夕子社長の献身的なご尽力に寄るものです。どうかそのことをお忘れなく、我々にできる最後の仕事を務めましょうぞ」
 そうだ、そうとも、と威勢の良い声が聞こえた。誰もがわかっているのだ。
「皆さん、ありがとうございます」
 夕子は、そう言って一人ずつ手に握り締めた。自分よりごつい手を、年季の入った皺だらけの手を、両手で、思い切り強く。
 今日でこの会社を去るのが、急に惜しまれてならなくなった。
 そうした中、ノックの音。
「郷原様がお着きのようです」
 女子社員の一言で、現実に引き戻された。
「お迎えに行って来ます」と細井が会議室を出て行った。
 それぞれの席の前に立つ夕子と役員たち。緊張は、誰の面にも明らかだった。
「お見えになりました」
 細井に伴われ、郷原が会議室に入って来た。夕子は、一瞬の身震いを抑え、
「おはようございます、郷原さん。お世話になります」
 立ったまま、深々と頭を下げた。他の役員たちもこれに倣う。
「ああ、星崎社長。今日もおきれいで」
 郷原は余裕の返答だった。「どうぞ」の声も待たず席に着くと、背もたれに大きく身体を預けた。連れて来た秘書は一人だけだった。
「手形の件では大変ご迷惑をお掛けしました。また、本日はわざわざご足労頂き……」
 型どおりの挨拶をする夕子だったが、
「まあ、堅い話は抜きにしようや」
 言葉を遮る郷原。細井からの電話で手形が決済が不可能になった旨は伝えてあった。郷原は、最初から「予定通りですよ」と答えたと言う。
 早速、代位弁済を実行しようと言うのか。
「では、こちらが私の資産目録です。動産・不動産の他に株式譲渡の書類と取締役会議事録もできています。お確かめください」
 言いながら、夕子は思った。
 これで本当に、星崎工業所は自分の手元から離れてしまう。
 胸の奥が苦しくなった。が、すでに決まったことだ。後戻りはできない。今更どうしようもない。夕子は、それ以上考えないようにした。
「星崎工業所は良い会社だ」
 出された書類に手も付けず、郷原は言い出した。
「恐れ入ります」
「そして、あんたは良い社長だった。二十代そこそこの若さで、よく会社を切り盛りして来た。これでも俺は、あんたの経営手腕を認めているんだぜ。唯一の失敗は、俺を解雇したことくらいだ」
 ここに来て何の話かと思ったが、総じて悪い気はしなかった。郷原なりに、夕子の仕事を評価してくれていたのだから。
「その件は、申し訳なく思っています」
 今だから言える言葉だった。
「水素吸蔵合金はもちろん、他にも可能性を感じさせる開発がたくさんある。中小企業のレベルじゃない。この技術力は世界レベルだ。十億では安いくらいだよ」
 郷原が、書類に手を出した。
「会社もですが、残された社員のこともよろしくお願い致します」
 ここしかないと思った。今まで自分を支えて来てくれた仲間たちだ。夕子が社長を退いても、今まで通りであって欲しかった。
「ああ、俺にとっても顔なじみは多いからな」
 ここにいる役員たちは、郷原にとっても、新人の頃に世話になった先輩社員であることの間違いない。以前に郷原の人となりは聞いていた。だから夕子も、それほど不安に思っていた訳ではなかったのだが、
「心配するな、と言いたいところだが、それは、これからのあんた次第かもな」
 郷原の表情が変わった。俺の解雇≠ニ言葉にした時も冗談めいた響きがあったが、今のそれは復讐者の声に聞こえた。
「何を……」言っているのですか、と続けることはできなかった。
「星崎工業所は確かに将来性のある良い会社だが、今の俺にとっては二の次だ。あんたの個人資産にも興味はない。前にも言った筈だ。俺の目的は、あんたからすべてを取り上げることだってな」
 前回、郷原が来社した時、この席で同じことを口走っていた。
 二週間以上が経っていたが、その目的は変っていなかった。むしろ現実になった喜びを頬に浮かべ、今にも夕子に迫ろうとしているようだ。
「郷原さん、一体、何が言いたいのですか」
 役員の一人が、夕子の気持ちを代弁した。
「そうですとも。社長はこの通り個人資産も会社の株式も手放した。これ以上何を求めると言うのですか」
「あなたも経営者でしょ。社長の思いがわからない訳がない」
 役員たちは、皆、郷原に次の言葉を言わせまいとしていた。先日も同席していた面々だ。何を言いたいか、充分にわかっていたからだ。
「家屋敷を売却しておいて、か」
 郷原の低い声に、役員たちが怯んだ。言われるまでもなく、夕子の自宅買取は好意的に態度とは言い難かった。
「郷原社長に損をさせていないと思われますが」
 細井だった。自宅の資産価値は二億弱。それを五千万円で買い取ったのだから、数字的には問題ない。
「その金はどうした。この資産目録には載っていないようだが」
「それは……」
 すでにそこまで目を通していたか。あるいは、ある程度予想していたのかもしれない。いずれにてしも、役員たちも次の言葉が出せなくなった。
「大方、嫁入りの持参金にでもしたのだろ。まあいい。そんなはした金、元々意味がないからな。わかっているだろ。俺の目的はあんたの社長に恥を掻かせてやることだって」
 とうとう言い出してしまった。
「あんたらが社長想いだってことはわかったよ。だったら社長を守って心中するか。全社員を路頭に迷わせるか」
 郷原が取り立てに出した手形はまだ何の処理もしていない。代位弁済契約を実行し、負債を帳消しにできなければ、不渡りを出すことは確実だった。
 つまり、郷原の言う通りにしなければ、星崎工業所は今日中に倒産する。
 わかり切っていたことだ。
 郷原のドヤ顔の前に役員たちは沈黙した。
「お話はわかりました」
 一同の視線が夕子に集まった。
「さすがは星崎社長。話が早い」
 郷原が、身を乗り出した。
「ですが郷原さん。ここにいる者たちが心中することは、全社員が路頭に迷うことも、郷原さんが望むところではございませんよね」
「まあ、そうだな」
「ご不満もございましょうが、私もこれで無一文です。星崎工業所の将来性と合わせて、どうかご勘弁頂けませんでしょうか」
 夕子とて、ここ十数年、代表取締役として会社を守って来た身だ。こうした修羅場を何度も潜り抜けていた。
「大したものだな。感心したよ。だが、俺の目的は達成させて貰うぜ」
 逃がすものかと、凄みのある視線と言葉で夕子を責めた。
 郷原の目的を達成するためには、夕子はこの場で衣服を脱がなければならない。丸裸になって、会社から出て行かなければならないのだ。
「残念ながら、郷原さんの希望には副いかねます。代位弁済契約書には、そうした記述はなかったと記憶しておりますが」
「だが、趣旨はここにいる全員が聞いていた。違うか」
 郷原は役員たちを見回すと「あんたらも女社長のハダカ、見たいだろ」と下衆な笑みを振りまいた。
「女をハダカにして外に出す契約が通ると、本気でお考えですか」
 ここが勝負だ。引く訳にはいかない。
「あんたも承知していただろ。下着一枚許さない。素っ裸で放り出されるんだ」
 あの時の郷原のセリフが、夕子の下腹部に突き刺さった。通常の商談では、決してあり得ないプレッシャーだった。
「そ、そんなことをすれば、実行させたあなたもただでは済みませんよ」
「どうなると言うんだ」
「通報されて、私は警察に保護されるでしょうね。あなたは逮捕かしら」
 ハダカで街を歩く。それは、今日ここに至っても、現実にはあり得ない行為だった。
「保護も逮捕もされないと思うがね」
 郷原は自信満々だった。
「警察にコネでもあると言うの」
「そんなものはないが、俺ん所の奴隷秘書には、誰も手出しできなかったぜ」
 夕子は、いつかの動画を思い出した。先日、ここに来た女性秘書が全裸で首輪を着け、街中を歩いていた。

 ――次はあなたの番よ

 その順番が来たと言うのか。
 だが、彼女の場合は、
「《契約自由化法》の適用を受けていた筈だわ」
 報道でも、ネットでも、間違いなくそうなっていた。詳細はわからないが、彼女には露出行為を是とする事情が認められ、郷原との間に、同法に基づいた契約が結ばれていた筈だ。
「ああ。確かにな」
 郷原は、連れて来た秘書に目で指示をすると、鞄から一枚の書類を取り出した。
「これがあいつとの契約書だ」
 表題は露出奴隷契約書となっていた。甲欄に郷原、乙欄には女性の名前が署名・捺印され、《契約自由化法》に基づく法律家の確認欄にも専門家の承認欄にも、それぞれ名前が記されていた。
(こんな紙一枚で……)
 女性をハダカにして外に出すことができるのか。それも合法的に。
 夕子は憤りを覚えずにはいられなかった。
「それで、こっちがあんたのだ」
 郷原がもう一枚の契約書をテーブルの上に置いた。それはまさしく、夕子が手形の期限延長の担保として差し入れた代位弁済契約書だった。
 同契約書には明らかに加筆がされていた。たった今見たばかりの《契約自由化法》に基づく文言が。
 夕子を驚かせたのは、その署名欄だった。

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 本契約書は、契約の自由を促進するための法律に基づいて作成されたものである。

 法律家の確認 来栖マリナ
 専門家の承認 澤田真知子
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