露出小説




   『心に犬を飼う女』

                              作;ベンジー

第1章:人間の皮、犬の魂

 ウェブメディアでペット記事を執筆している葉月の仕事は、皮肉と安息の間にあった。
 皮肉なのは、彼女がその記事を書く時、いつも「人間」の視点から、愛情深い「飼い主」として振る舞わなければならないことだ。
 安息なのは、仕事を通じて常に犬という存在に触れられること。
 画面の中の彼らの写真や動画は、彼女の心の奥底に棲む渇望を一時的に潤す点滴のようなものだった。

 その日もまた、人間社会の重い鎧をまとって一日を過ごした。
 通勤のために選んだタイトな膝丈のスカートは、彼女の「心」を殺すための拘束具だった。靴は、土の匂いを嗅ぎ分け、四つ足で大地を蹴りたいという本能を封じ込めるための重い石の器。
 職場では、上司のタナカのオヤジギャグにも笑い、クライアントの無理な要求にも「はい、承知いたしました」と従順に答えた。
 それは、群れのリーダーに従う犬の如く、人間社会という名の巨大な群れの中で無用な摩擦を避けるための、葉月流のサバイバル術だった。
 これは、彼女にとって最も簡単で、最も苦痛な人間としての演技だった。

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 午後八時過ぎ、オートロックのマンションの玄関に辿り着いた瞬間、葉月の呼吸は変わった。
 ドアノブを握る手に力がこもり、瞳孔がわずかに開く。この扉の向こうは、彼女にとっての聖域であり、「人間の皮」を脱ぎ捨てられる唯一の場所だ。

「カチリ」と鍵が開く音。

 葉月は、玄関に滑り込むや否や、背後のドアが完全に閉まり切るのを待たずして、動作を始めた。

 まず、ブラウスのボタンに指をかける時間すら惜しいとばかりに、勢いよくそれを引き剥がす。
 スカートのファスナーを乱暴に下ろし、腰を振って床に落とす。
 ストッキングや下着も、ただの「枷」でしかなかった。それらは、葉月の身体から引き剥がされた瞬間、人間社会の残骸として、乱雑に床に広がる。

 彼女は何も纏わない状態になり、壁際によろめいた。
 深く息を吸い込む。

「あぁ……」

 服という人間社会のフィルターが消えたことで、部屋の匂い、自分の皮膚の匂い、昨日淹れたコーヒーの残り香、微かな埃の匂い。すべてが鮮明に嗅覚に流れ込んでくる。
 葉月は膝を床につけ、四つ足で這うような体勢を取る。
 その姿勢こそ、彼女にとっての犬は四つ足という魂の真の居場所だった。

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 洗面所に向かい、葉月はそのままの体勢で頭を洗面台に突っ込んだ。
 コップを使わず、手のひらで水を受けることもせず、ただ、冷たい水を口に含み、喉の奥に流し込む。水は生命そのものだ。手を使うという「人間の知恵」を介さない直接的な行為が、身体の奥底に眠る「犬」の記憶を呼び覚ます。

 今夜の夕食は、冷蔵庫に残っていた無糖のプレーンヨーグルトだ。
 葉月は、ヨーグルトの容器を低いダイニングテーブルの上に置き、自分は床に座る。スプーンやフォークは、彼女にとって「人間を演じるための道具」でしかない。
 犬は手を使って食事をしない。
 葉月は、躊躇なく身体をテーブルに近づけ、顔を容器に寄せた。容器の縁に舌を這わせる。
 ひんやりとした舌触りと、口いっぱいに広がる酸味が、五感を刺激する。
 周りを気にせず、ただただ本能の赴くままに、ヨーグルトを平らげていく。時折、容器の底を舐め尽くすように頭を動かし、低い喉を鳴らす。

「フン……、ウゥ……」

 それは、言葉にならない、満足感と安堵の唸り声だった。
 食器を手に持って食べるという行為が、いかに彼女の心を抑圧していたかを改めて知る。この時間は、彼女の魂が、身体という借り物の檻の中で一時的に自由になる瞬間だった。

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 食事が終わり、葉月はフローリングの床の上を、這うように、しかし軽快に移動する。
 その動きは、人間が四つん這いになるぎこちなさではなく、大地を信頼して体重を預ける、動物特有のしなやかさを帯びていた。

 リビングの隅にあるお気に入りのクッションに辿り着くと、葉月は身体を丸め、鼻をクッションに埋めた。彼女は、目を閉じ、深く呼吸する。

 人間としての名前は、葉月。
 人間としての年齢は、二十八歳。
 人間としての職業は、ウェブライター。

 しかし、心臓が脈打つ度に聞こえる声は、「お前は犬だ」と囁く。

 この身体は檻。服は枷。言葉は偽り。
 葉月のすべては、この小さな部屋の中で、本能にのみ許される。
 しかし、どれだけ自宅で解放されても、夜明けと共に、彼女は再び「人間の皮」を被らなければならない。

 この孤独な儀式は、一時的な安息を与える一方で、彼女の心の奥底に、「本物の群れ」と「永遠の解放」への激しい渇望を生み出していた。
 そして、その渇望こそが、彼女を人間社会から切り離す決定的な行動へと駆り立てていくことになる。



第2章:檻の破壊者

 自宅という名の檻の中での一時的な解放は、葉月の心を完全に満たすには不十分になっていた。
 解放の儀式の時間が長くなるにつれて、人間としての「葉月」は消耗し、現実世界でのミスが増えていった。記事の締め切りは遅れがちになり、上司のタナカから受ける注意も増えた。

「葉月くん、キミ、最近どうした? 集中力が散漫じゃないか。ちゃんと地に足つけて仕事をしてくれ。ここは動物園じゃないんだぞ。」

 タナカの言葉は、まるで彼女の核心を直接掴んで嘲笑うかのようだった。
 葉月は「申し訳ございません」と頭を下げたが、その心の中では、低い唸り声が響いていた。人間の演技が、限界に達しつつあった。

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 週末。葉月はいつものように、近所の大きな総合公園へと足を運んだ。
 もちろん、人間としての「葉月」の姿で。ベンチに座り、公園の奥にあるドッグランを遠巻きに眺める。
 柵の中で、雑種犬やゴールデン・レトリーバーたちが、身体をぶつけ合い、大地を蹴って駆けている。彼らの躍動する姿は、葉月の内臓を直接掴むような、激しい渇望を生んだ。

 そのとき、一匹の老犬が、飼い主の若い女性からリードを外された。
 老犬は、少しよろめきながらも、芝生の上を力強く駆け出し、勢いよく方向転換をして、他の犬とじゃれつき始めた。

 葉月の理性は、その瞬間、音を立てて崩壊した。

「走りたい……! 芝生を踏みしめたい!」

 彼女の魂が叫んだ。この身体は、硬いフローリングの上を這うためだけにあるのではない。この身体は、大地を蹴り、風を切り裂くためにあるのだ。

 葉月は立ち上がり、ドッグランとは逆方向、広々とした中央の芝生広場に向かって歩き出した。人気のない木立の影に入る。

 犬は四つ足。その衝動は、彼女の人間としての羞恥心を凌駕した。

 葉月は周囲に人がいないことを確認すると、まずブラウスを脱ぎ、そして、彼女の心の中で「制約の象徴」となっていたスカートのホックとファスナーを一気に下ろした。
 彼女の脚は、走るために解放されるべきだった。

「邪魔だわ……!」

 スカートを足元に落とし、葉月は肌着とブラだけで、低い四つ足の姿勢を取った。
 両手を前に、膝を曲げ、重心を低くする。その姿勢は、猫背で重苦しい人間のそれとは違い、いつでも飛び出せる、躍動感に満ちた獣の構えだった。

 そして、彼女は走り出した。

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 地面に四つの接地面が触れるたびに、芝生の感触が掌と膝を通して脳に直結する。
 風が剥き出しの肌を打ち付け、その冷たさが感覚を研ぎ澄ませた。
 前屈みになったことで、彼女の嗅覚は地面の匂い、草の匂い、遠くでバーベキューをしている匂いまで、すべてを詳細に分析し始めた。

 その走りは、決して速くも優雅でもなかった。
 人間が四つ足で走るという行為は、滑稽で、無様で、どこか痛ましい。だが、葉月にとって、それは至福だった。魂と身体が、生まれて初めて完璧に調和した瞬間だった。

「アオゥ……ッ!」

 彼女の口から漏れたのは、言葉ではない、吠え声とも、泣き声ともつかない、感情の塊のような音だった。

 しかし、その至福の時間は、人間社会の視線によって、無残に引き裂かれた。

「おい、あれ、何やってんだ?」
「ちょっと、警察呼んだほうがいいんじゃない?」

 木立の向こうから、犬の散歩に来たカップルが、肌着姿で四つ足で走り、奇妙な声を上げている葉月を凝視していた。
 彼らの目には、驚愕、嫌悪、そして明らかに恐怖の色が浮かんでいた。

 葉月の身体に、急激な寒気が走った。「人間」の羞恥心が、本能的な解放感を瞬時に上書きしたのだ。
 彼女は這うような姿勢から飛び起き、落ちていた服を乱暴に掴むと、全力でその場から逃げ去った。その姿は、まるで人間に追われる獣のようだった。

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 自宅に逃げ戻った葉月は、身体中の熱が冷めず、震えが止まらなかった。鏡に映る自分を見る。混乱し、恐怖し、そして興奮している目。

(もう、私は人間に戻れない……)

 自宅という聖域も、服を脱ぐ儀式も、もはや彼女の衝動を抑える安全弁にはならない。人間社会で「葉月」として生きることは、魂の死を意味する。

 彼女は震える手でスマートフォンを握り、闇雲に検索ワードを打ち込んだ。

「身体は人間 心は犬」
「私は犬 苦しい」

 数多くの検索結果の中に、一つの異質なキーワードが光った。

「Otherkin(アザーキン) Zoo ID」

 そこは、自身を人間以外の種族の魂を持つと信じる人々のコミュニティだった。葉月は、縋るようにそのコミュニティの入り口を叩いた。

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 掲示板を読み進めるうち、葉月は自分が抱えていた孤独な苦悩が、多くの人間によって共有されていることを知った。
 自分と同じように「犬」のアイデンティティを持つ者、猫、狼、鳥、さらには架空の獣まで。彼らは、人間としての生活の苦痛、身体と心の不一致を、真剣な言葉で語り合っていた。

 そして、葉月は、コミュニティ内の特殊な交流システムに誘われた。

「アバター・グラウンド」。

 それは、ユーザーが自分のイメージする身体、つまり魂が宿るべき姿を投影したアバターで交流する、クローズドな仮想空間だった。

 葉月は、自分のアバターを作成した。
 ハンドル名は「ハスキー」。
 それは、彼女の生身の身体に酷似した、黒い毛並みのシベリアン・ハスキーの姿だった。

 しかし、葉月は、他の参加者たちのご要望に従い、交流用のアバターは、彼女の魂の純粋さを表現するため、肌の色や身体のラインを隠さない、人間そっくりの裸のアバターを選択し、その四肢を犬のように変形させた。
 当然、恥ずかしさはある。アバターだからこその選択だった。

 アバター・グラウンドに入ると、四つ足で移動し、人間的な言葉をほとんど使わない、独特な空間が広がっていた。
 アバターたちは、地面の匂いを嗅ぐように鼻を動かし、優しく相手の身体を舐めるような動作(グルーミング)、低い唸り声といった、非言語的な行動で交流していた。

 そこで葉月は、一匹の狼のアバターと出会う。
 ハンドル名は「ウルフ」。その人物は、葉月の身体的な衝動、人間社会への嫌悪、そして真の解放への渇望を、文字通り「嗅ぎ取った」かのように理解した。

「ハスキー。君の魂は、この世界に束縛されている。その借り物の身体に惑わされるな。君が求めているのは、服を脱ぐことじゃない。魂の故郷に忠実であることだ」

 ウルフの言葉は、葉月にとっての絶対的な真理のように響いた。初めて得た共感と承認。葉月は、自分は決して孤独ではないと確信した。

 しかし、ウルフとの交流は、彼女を人間社会からますます引き離し、最終的な決断へと導いていくことになる。



第3章:魂の群れ、身体の解放

 ウルフとの仮想空間での交流は、葉月(ハスキー)にとって、精神的な酸素そのものだった。
 アバター・グラウンドの中では、衣服も言語も人間の理性も必要ない。ただ本能が指し示すまま、四つ足で駆け、匂いを嗅ぎ、感情を純粋な動作で表現すればよかった。
 しかし、仮想の解放感は、現実の身体的な渇望をさらに増幅させた。

「君は、もっと解放されるべきだ、ハスキー。借り物の身体に、もう遠慮はいらない。」

 ある夜、ウルフから、オフラインでの集会、リアルな「群れ」への招待が届いた。場所は都市から離れた、廃墟となった小さな倉庫。完全に外部から遮断された空間だという。

 葉月の内部で、激しい葛藤が起こった。
 人間の羞恥心、社会的な規範、そして生物としての本能。すべてが身体を捻じ曲げ、引き裂こうとする。しかし、公園での解放感と、その後に続いた孤独な絶望を思い出すと、もう人間として生きる道を選ぶことはできなかった。

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 指定された日の深夜。葉月は、ウルフに言われた通り、最小限の荷物と「人間の皮」たる服を身に着けて、廃倉庫へと向かった。

 倉庫の分厚い鉄の扉の向こうに、生身の「群れ」がいた。

 ウルフを含め、十数人の男女。
 彼らは皆、最低限の肌着や、あるいは首輪やハーネスだけを身につけた姿で、床に敷かれた毛布やクッションの上を四つ足で移動している。
 彼らの間には、静かで、しかし熱を帯びた、動物的な親密感が漂っていた。

 葉月は、入口で立ち尽くした。極度の羞恥が、彼女の身体を硬直させる。
 アバターではない生身の裸体。社会常識や倫理観の問題ではない、純粋に人間の女性としての恥じらい。それがまだ葉月にはあった。

 そのとき、ウルフが低い唸り声を上げながら、四つ足で葉月に近づいてきた。
 視線を逸らす葉月。
 ウルフの瞳は、優しく、同時に葉月の深層を覗き込むように鋭かった。
 
 ウルフは葉月の顔の横に自分の頭を寄せ、鼻を鳴らす。

「来たか、ハスキー。お前の身体は震えている。だが、その瞳は、故郷の土を求めている。」

 ウルフは、人間の言葉を発さず、葉月の手首から鎖骨にかけて、舌で優しく舐める仕草(グルーミング)をした。アバターではない。生身の肉体で。それは、親愛と安心感を示す、犬の群れのコミュニケーションだった。

 葉月の羞恥心が、一瞬にして温かい安堵感に溶かされていく。

「ア……ウゥ……」

 葉月は、ウルフの行為に身を任せ、魂の自由を得た。

 葉月もまた四つ足の姿勢を取り、ウルフに頭を寄せて、身体を擦りつけた。それは性的衝動ではなく、群れの一員として受け入れられた安息を意味していた。
 彼らは互いの身体を、人間の理性や言葉を介さずに、ただただ本能的な信頼感を持って受け入れ合った。
 その夜、葉月は、この場所こそが自分の「故郷」なのだと確信した。

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 このオフ会以降、葉月は人間としての生活を完全に破綻させ始めた。

 自宅ではほとんど服を着なくなり、四つ足での生活がデフォルトになった。
 会社に出勤しても、身体は重く、脳は人間的な思考を拒否した。上司や同僚の顔を見るたび、彼らの「皮」を被った偽りの姿に吐き気を覚えた。

 決定的な出来事は、週明けの会議で起こった。

 タナカは、締切が遅れた葉月を、全員の前で厳しく非難した。

「葉月くん、キミの仕事はプロとしてありえない。何度も言っているが、君は社会人だ。甘えるな!まるで躾のなってない犬だぞ!」

「躾のなってない犬」――その言葉が、葉月の心の奥底に宿る「犬の魂」に火をつけた。

 葉月は、これまで保っていた人間の仮面を、激しく叩き割った。

 彼女は突然、椅子から立ち上がり、タナカを睨みつけた。人間の言葉で反論する代わりに、彼女の口から出たのは、低く、威嚇的な、獣の唸り声だった。

「グアァアア……!」

 その唸り声は、理性的な人間の声ではなかった。
 恐怖と怒り、そして本能的な警告に満ちた、野生の音だった。周囲の同僚たちは悲鳴を上げ、椅子から飛び退いた。

 タナカは顔面蒼白になり、「き、君は一体……」と言葉を失った。

 葉月は、その場に留まることができなかった。
 彼女は鞄も持たず、服も乱れたまま、四つ足に近い、半端な体勢で会社を飛び出した。もう、この「人間の群れ」に戻ることはないだろう。

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 葉月は、行き場を失い、あてもなく彷徨った。彼女の心は、人間社会の冷たい視線と、内なる解放の衝動の間で、完全に分裂していた。

 その夜、ウルフから連絡が入った。

「ハスキー。人間の群れは、お前を許さない。だが、心配するな。もう、人間を演じる必要はない。私は、君の魂が安心して眠れる場所を見つけた。」

 ウルフが紹介したのは、都市から遥かに離れた山間の静かな場所にある、「特殊なアイデンティティを持つ人々」を受け入れる専門の施設だった。
 医療と心理学的サポートが提供されるという建前だが、その実態は、人間社会の規範から逃れ、魂のアイデンティティを完全に解放することを許された、「魂の故郷」だった。

 葉月には、もう選択肢などなかった。人間として生きることは、彼女にとっての地獄だった。彼女は、コウの差し伸べた手を掴んだ。

「ウルフ……、連れて行って。私の、故郷へ……」

 それは、人間「葉月」の、社会的な死の宣告であり、魂「ハスキー」の、永遠の解放への旅立ちの決意だった。



第4章:魂の故郷へ

 葉月を乗せた車は、都市の喧騒から離れ、深く切り込んだ山道を長時間走り続けた。
 運転していたのはウルフだった。
 人間としての彼は、地味な身なりをし、目立たない存在を演じていたが、その横顔には、葉月と同じく抑えきれない野生の力が宿っていた。

「ここだ、ハスキー」

 車が止まったのは、深い森に囲まれた、古いが手入れの行き届いた施設の前だった。
 ウルフが「サナトリウム」と呼んだその場所は、社会の視線から完全に隠され、その存在を外界に知られることはなかった。

 施設の中には、葉月と同じように人間社会で生きることに苦痛を感じ、自らの魂のアイデンティティ(Zoo ID)に忠実に生きることを選んだ人々が暮らしていた。
 彼らは、人間としての名前や肩書きを捨て、魂の種族名で呼び合っていた。

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 入所手続きは、形式的なものだった。
 葉月は、人間としての戸籍、人間社会のルール、すべてをこの扉の外に置いてきた。

 施設内での生活は、簡素だった。
 ここでは、人間としての「常識」は通用しない。朝起きれば、四つ足で共同のリビングへと移動し、匂いを嗅ぎ合うことで挨拶を交わす。
 食事も、手を使って食事をしないというルールに従い、器に顔を近づけて摂る。

 葉月は、自らに課していた最後の「人間としての制約」も解き放った。

 犬は服を着ない。

 彼女が身につけるのは、人間社会の目を気にせず、運動の邪魔にならない、最低限の布切れ(ペチコートやキャミソールのような肌着)、あるいは、ウルフから贈られたシンプルな本革の首輪とリードだけだった。
 それは、彼女にとっての隷属ではなく、群れの一員としての誇りを象徴していた。
 羞恥心は、この場所には存在しなかった。彼らは、互いの身体を、ただ魂を宿す「器」として認識し合っていた。

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 施設の中には、広大な敷地があり、一部が自然に近い形で残されていた。

 葉月は、ウルフや他の犬のアイデンティティを持つメンバー(ビーグル、ドーベルマンなど)と共に、その敷地を走った。

 犬は四つ足。

 地面を蹴り、身体を低くして走る。
 硬い舗装路ではなく、土と草の柔らかい感触が、掌と膝から全身に伝わる。風を切る音、仲間の息遣い、そして自分の心臓が力強く脈打つリズム。これこそが、彼女が人間として生きている間に感じていた「生命の欠落」を埋める、本物の体験だった。

 ある日、葉月はウルフと二人きりで、森の奥深くへと入った。
 葉月は、人間として生きてきた過去の苦痛を、ウルフにすべて打ち明けた。人間として振る舞おうとした時の孤独、公園で走り出したときの恐怖、そして会社での屈辱。

 ウルフは言葉を使わず、葉月の身体に自分の頭を寄せ、低い声で「クゥン」と鳴いた。それは、慰めであり、深い共感の音だった。

「ハスキー。君の魂は、ずっとここに帰りたがっていた。君は、人間として生きることを『間違えた』のではない。人間という身体の中に、『別の種』として『生まれた』だけだ。」

 葉月は、ウルフの言葉に涙を流した。
 しかし、それは悲しみの涙ではなかった。「自分は間違っていなかった」という、魂の根幹からの解放の涙だった。

 葉月は、人間社会の基準から見れば、職も地位も家も捨て、「狂気の施設」に入ったことになるだろう。上司のタナカや同僚たちは、葉月を「精神を病んだ気の毒な女」として記憶するに違いない。

 それはもうどうでも良かった。葉月にとって、この施設での生活こそが、真の人間としての、あるいは真の生物としての、生だった。

 葉月は、人間としての知識や理性は保ちつつも、その身体の振る舞い、心の反応は、完全に「犬」のものとなっていた。
 ここで葉月は、人間の言葉を話しつつも、「犬の視点」で思考し、感情を表現するようになった。

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 穏やかな午後の光が、施設の広い庭に降り注いでいる。

 葉月はもう、首輪以外、身に着けることはなくなった。毎日を、ウルフや他のメンバーたちと共に、柔らかい芝生の上で戯れている。
 彼らは、優しく噛みつき合い、じゃれ合い、互いの身体をグルーミングし合っている。
 その動きは、犬は人間に従順というルールから解放され、群れの仲間としての純粋な愛情と信頼に満ちていた。

 葉月が、地面に鼻を押し付け、満足そうにフンフンと匂いを嗅いだ後、顔を上げる。

 彼女の瞳は、かつて人間社会で抱えていた怯えや羞恥の色を完全に失い、ただただ、純粋な生への喜びに満ちていた。

 彼女の心臓が打つたびに、低い唸りが喉の奥から響く。

「……アオ」

 それは、彼女が人間としての身体を持ちながら、「犬」としてのアイデンティティと心の安息を手に入れたことを象徴する、短く、しかし力強い、魂の鳴き声だった。

(了)





 今月号はいかがでしたでしょうか。
 こちらにアンケートを設けさせて頂きました。ご回答、よろしくお願いします。

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期待していたほどではなかった
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