投稿小説

『本当に欲しいもの』

                作;吉井 葉蘭

        ―1―

 木曜の午後1時、百合香はホテル街の中にある「ロマンスヒーリングサロン・風雅」に入って行った。ロマンスヒーリングサロンなどという掴みどころのない名前は、この地区の条例で性感マッサージの看板が上げられないからだ。
 元はラブホテルで、そこが潰れたか何かの後に営業を始めたのだろう、と思わせる外観の建物。両端にある自動ドアの右側から入ると、すぐ左横が受付のカウンターだった。洒落ているつもりなのか、ロビーにはいつもバッハの『トッカータとフーガ』がBGMとして流れている。
「予約しました百合香です」
「ようこそいらっしゃいました。当店のコンシェルジュ、キクチと申します。どうぞこちらへ」
 本当にホテルのコンシェルジュのような格好をしたキクチは、そう言って百合香を案内する。エレベーターを使って通されたのはラブホテルそのままの部屋だった。
 百合香が椅子に腰を下ろすと、キクチはその横で膝まずいた。
「本日のご利用まことにありがとうございます。本日ご希望のサービス内容はこちらに相違ございませんでしょうか」
 そう言ってキクチが差し出したバインダーは、革張りの、まるで高級レストランのワインリストのようにも見えた。開いてみると百合香があらかじめメールで予約を取った時の内容がプリントアウトされた紙が挟んである。

マッサージ師の指名:シン
希望内容:普通のマッサージの後、性感に移ってください。その後、拘束されてのプレイ。拘束の仕方はお任せ。跡が残らないように。
希望時間:3時間。ラスト30分は1人で余韻に浸っていたいので、サービスは2時間半で切り上げてください。
ここでのお客様のお名前:僕の可愛いわんこちゃん

 改めて読んでみると恥ずかしいような気もする。ある意味羞恥プレイかもしれない、と百合香は思った。
「はい、これでいいです。それから、時間の5分前になったら教えてください」
「他にご希望やご確認したい事は」
「あ、そうだ。これ」
 百合香はプレイと書かれた部分を指差した。
(わたしはここにセックスって書いたはずなのに)
キクチは用意していたような答えを言った。
「当店はあくまでもヒーリングサロンでございます。マッサージ以外のサービスは基本的に行っておりません。ですが、お客様のご要望にはいかようにも対応させていただいております」
 表立って本番行為ができるとは言えない、大人の事情というやつだ。
(女が男を買っても売春禁止法違反になるのかな)
 疑問を表情には出さず
「じゃあ、このプレイはできるって事ね」
 百合香はプレイを少しゆっくりと言い、キクチは大きくうなずいた。
「分かりました。じゃあ、これでお願いします」
 百合香は料金をそのバインダーに挟み込んで手渡した。
「かしこまりました。それではお時間は只今より3時間となります。入れ違いにシンが参ります。どうぞごゆっくり」
 キクチは、百合香の希望通り部屋の明かりを落とすとドアを開けた。言葉通り入れ違いにシンが入ってきたのでドアの開閉は1回だけだった。
 シンは薄暗い部屋で百合香の手を取る。丁寧に百合香の服を脱がしたシンの大きな手は、まず彼女にシャワーを浴びるよう促した。両肩に手を置かれそっと押し出されるようにシャワールームに入る。
(この時だけは日本語で、シャワーを浴びておいでって言われるのもいいかもな)
 ちょっと浮かんだその考えを百合香はすぐに打ち消した。自分は言葉のやり取りをしたくなくて、ルーマニア語を喋るシンを指名したのだ。
 シャワールームから出ると、シンがテーブルの上にマッサージの時に使うローションやその後で使う色々な物を並べていた。
 百合香は黙ってベッドにうつ伏せになった。シンの手が百合香のどこが凝っているのかを確かめるように全身を撫で回す。それから肩と背中をメインに腰やふくらはぎ、足の裏や手の指の一本一本まで揉みほぐしてゆく。
 実際にシンはマッサージ師の資格を持っているらしい。全身を丁寧に揉みほぐされるとそれだけでも満足できるくらいだった。

 気持ちよくてうつらうつらしていると、シンが百合香の左頬を軽く叩いた。
 百合香を浅い眠りから覚ますと、シンは百合香をベッドサイドに立たせる。タオルを使って猿ぐつわを噛ませ、それから気をつけの姿勢を取らせてボンテージテープで百合香の体を拘束し始める。右の二の腕から胸の上で2回半。その後、背中の方から前に回して、百合香の胸を持ち上げながら、ブラを買う時にサイズを測るあの位置より少し上でぐるぐる巻きにする。最後に、体と肘をくっつけてテープを巻いた。これでもう腕は動かせない。上下から圧迫されて搾り出された胸の先端が尖っているのは見なくても分かった。
 上半身の拘束が完成すると、シンがポンと百合香の肩を押す。百合香はそのままベッドの上に仰向けに倒れこむ。聞き慣れない外国語を喋りながら、シンはまるで赤ん坊のオムツ換えをする時のように百合香の脚を開かせて開脚用足枷を手にした。限界まで開かせた脚の膝裏に棒を挟み込み、その両端に付いているベルトで膝頭を留めると脚を閉じたくても閉じられなくなる。そこから、シンの舌がいきなり百合香の耳を舐めまわす。
「んうっ」
 思わず声が出てしまう。シンが耳元で囁いた。ルーマニア語など百合香には本当に分からない、ただ百合香にはまるで「さっきのマッサージでどこが感じるかちゃんとチェックしておきましたよ」そんな風に聞こえた。
 シンがひとしきり百合香の体を撫で回してクンニリングスをした後、百合香の口元にペニスを持ってくる。多分口が自由になっていればフェラチオをさせられただろうし、百合香からしていたかもしれない。だが彼はペニスの根元を持ち、百合香の目の前でゆらゆらと揺らしてつぶやいた。「さ、これからこのおチンチンが中に入るからね」そんな事を言っているのかもしれない。
 シンは百合香の秘所が十分に潤っているのを確認すると、ペニスを挿入した。シンの呻き声と、やっぱり何を言っているのか分からない外国語が聞こえる。薄暗い部屋で、眼鏡を外した百合香の視界にシンの顔はボンヤリとしか見えない。
(そう、これよ、この感じ……)
 百合香の心はこれ以上ないくらい満足だった。

        ―2―

「っていうか、どうしてそういう事してるわけ?」
 目の前の麻美が、サラダをつつきながら遠慮なしに聞いてきた。
 短大を卒業して入った会社の、麻美は同期だった。その後、百合香は結婚、麻美は転職と、それぞれ進む道は分かれたがメールのやり取りは今でも続けていて、今日みたいにランチを共にする事もよくあった。
「どうしてって言われてもねえ」
「お金? わたしみたいに? あ、違うか、百合香はお客として性感行くんだもん。お金使う方だよね」
 そう言う麻美は、もう少し自由に使えるお金が欲しいと簡単に風俗店でのバイトを始め、そっちの方が性に合うと言って、あっさりと退社の道を選んだ。
 社内には"あくまでも噂だけど"の前フリがついたが、バイトの話は知れ渡っていた。    
 最後の出勤日に、微妙な空気の中、蛍の光を歌いながら会社を去ってゆく麻美の背中を百合香は4年たった今でも覚えている。
「んー、なんて言えばいいんだろ」
 大昔からの親友のように、なんでも話せる。しかも麻美は風俗嬢だ、ただ面と向かって言われると困る事もある。
「別に性感じゃなくてもいいんだけど。でも、なんで麻美はそんな事聞きたがるの?」
 答えたくない質問には、質問で返すのが得策だと百合香は思っている。
「実は、最近ウチの店にも百合香みたいなお客が来るんだよね」
 麻美は自らが現在置かれている状況を話しだした。
「わたしが今いるのは普通のSMクラブなんだけど」
「じゃあ異常なSMクラブとかあるんだ」
「茶化すな。でね、自分でも何をしたいのか分からない感じの人が時々来るんだ。SとMを取り違えてるくらいならまだいいけど、理解してMコース選んだくせに、わたしが責めてる途中で急に素になって、なんでこんな事されなきゃいけないんだって怒り出す豚とか」
 話の中で既に豚と言っているのが彼女らしい。
「そういうプレイかなって、一旦逆らってそのあと余計にハードな責め? とか思うんだけどどうも違うし、あと希望どおりのプレイをしてもなんか違う、みたいな顔して帰って2度と来ない奴隷とかね。何が不満だったのかなあって、なんか色々考えちゃうよ」
「わたしはMじゃないし、何をするかちゃんと決めて行ってるし。それに豚さんなんてただいじめてればいいんじゃないの?」
「違うよお。女王様と奴隷とか言うけど、奴隷も豚もお客様なんだもん、お客様に満足していただいて、また来てもらえるように色々考えてやらなきゃいけないの。だから百合香みたいな、お客様って立場の人の気持ちを知りたかったの」
「まじめだね、麻美は」
 百合香は思ったままを口にした。
「でも多分そういう人って、テレビとかで、なんかSMって面白そうとか思って来るだけじゃない? だからたとえ麻美がどんなに一生懸命サービスしても、ああSMってこういうものか、よし体験した、みたいな感じでそれでおしまいって事なんじゃないの? あ、SってサービスのSかもね」
「だから茶化すなって」
「ごめん。じゃあ答えが浮かんだらまたメールするね」
「うん、頼む」
 麻美は店内の時計を見て、バックから財布を取り出すと
「わたしもうそろそろ。わたしの分、ここに置いとくね」
 そう言って立ち上がり、椅子に掛けていた上着を羽織った。
「うん分かった、一緒に払っとく。わたしはまだ30分あるから、もうちょっといるね」
「ああ、今日も行くんだ。ねえ、風雅でなんて呼ばれてるの? メス豚とかの卑語系?」
「百合香ちゃん」
「本名か、チャレンジャーだね」
「いや、逆にまさか本名とは思われないかなと思って」
(ごめんね、ホントの事言わなくて)
 麻美を見送りながら百合香は声を出さずに謝った。

        ―3―

 ランチを取った店の化粧室で歯磨きをしてメイクを直すと、その足で百合香は風雅へ向かう。1ヶ月ぶりだった。
 いつものようにキクチが
「本日のご利用まことにありがとうございます。本日ご希望のサービス内容はこちらに相違ございませんでしょうか」
 そう言ってバインダーを差し出す。
 何回行っても初めての時のような接客態度。普通の飲食店やブティックではありえない事だ。
(これが風俗店の礼儀? それともこの店が特別? 今度麻美に聞いてみようかな)
「はい。この通りで、っていうかまるっきり前回と同じでいいです」
「かしこまりました。それではお時間はただいまより3時間となります、入れ違いにシンが参ります、どうぞごゆっくり」
 薄暗くなる部屋。1回限りのドアの開閉。既視感という言葉が百合香の頭に浮かんだ。

「どうしてって言われてもねえ」
 百合香のつぶやきにシンは少し反応したが、百合香が無視をすると手の動きを再開した。
きっとハーフか何かで実際は日本語も理解できるのだろう。だからこそ百合香の言葉に反応したのだろうし、でなければこんな分かりづらい要望に応えてくれるわけはない。
(まあ、そんな事どうでもいいや)
 シンの本格的なマッサージに身を委ねながら、麻美の言葉を思い返す。半分眠りそうになりながら、百合香は頭の中の麻美に話しかける。
(直接の引き金は夫の浮気かな。それまでもホステスやヘルス嬢に入れ揚げるって事は珍しくなかったんだけど、商売女との火遊びって感じで割り切る事ができた。でもあの時はさすがにヘコんだなあ、シロートさん、っていうか会社の部下だってさ。なんとか穏便に縁を切らせて、わたしが頑張ったのよ。でも本当にヘコんだのはその後。わたしが「許してあげる。その代わりもし将来わたしが浮気しても怒らない?」って聞いたの、そうしたら「それは仕方ない」ってさ。バカかこの人って思ったよ。わたしは「仕方ないとは思う、でも俺はお前が他の男に抱かれるのは嫌なんだ」って言って欲しかったのに。それと、その頃からレスにもなっちゃってさ。だからこういう事をしてるのは当てつけかな。別に性感じゃなくてもいいんだけど、ここは麻美が紹介してくれたとこじゃん。安全な店だし、建前は性感マッサージだけど他のサービスもあるって。要するにわたしはお金で安心を買った。快楽もね)
 もちろん、麻美の言っている"どうして"はそんな意味ではない。そして百合香は麻美の意味する"どうして"には答えたくない。
 左頬を叩かれ百合香は物思いから覚めた。
(せっかく来てるんだから、時間いっぱい楽しまなくちゃ)
 百合香は頭の中から麻美を追い出した。
 プレイ中、何度か同じ言い回しの言葉を聞いた。多分それが「犬」とか「わんこ」という意味なのだろう。要望通りシンは百合香を「僕の可愛いわんこちゃん」と呼んでいる事になる。
(実際は、うざい客だなさっさとイッてとっとと帰れよ、って言ってるのかも。ああもういいやそんな事、なんにも考えたくない、ただこうしていたい)
「んんっ! ぐっ! あああっ!」
 猿ぐつわ越しのくぐもった悲鳴を上げながら、百合香は言葉にできない感覚をひたすら享受した。
 プレイが終わるとシンは優しくボンテージテープや拘束具を外し、ルーマニア語とともに最後のキスをして部屋を去って行った。百合香はしばらく快楽の余韻に浸り、その後思いついたように起き上がった。シャワーを浴びながら少しずつ普段の自分へとリセットするためだ。服を着て髪と顔をかまっていると部屋の電話が鳴り、まるでカラオケボックスの「あと10分です」を知らせるようにキクチが「そろそろお時間です」と伝えてきた。
 部屋に入る時はキクチが他の客と鉢合わせにならないように気を遣って案内してくれたが、帰りは一人で出なくてはいけない。知り合いに会ったところで同じ穴のムジナという気もするが、やはり周りをうかがいながら百合香は出口専用の階段を下りた。
 階段を下りると何故か受付の反対側のカウンターにたどり着く、要するに受付は風呂屋の番台のようになっていて、客は女湯から入って男湯から出てくるような仕組みになっているらしい。
「お疲れ様でした」
 それが客に対するどういう意味を持つ言葉なのかは分からない。ただそう掛けられた言葉に適当に会釈して、百合香は受付の前を通り過ぎた。
 
 風雅を出ると小走りでホテル街を抜け、昼間麻美と会っていたレストランの前からバスに乗る。家に帰り着くと、一息入れるという事もせず、百合香は普段着に着替え、エプロンを身に付け台所に立った。
(今こうして、チャーハンに入れるハムを刻んでるわたしが、少し前まで他の男に抱かれて嬌声を上げていたなんて、あの人は)
「きっと夢にも思わないんだろうな」
 百合香はつぶやいた。
 (夫がいるのにわたしったらなんて事)という罪悪感も、(先に浮気をしたのはそっちじゃない)という開き直りも、(なんにも知らないのねバカな人)みたいな優越感も何もない。本当になんとも思わなかった。夫に対しても自分のこの行為に対しても。諦観の果ての無感動。百合香は自分をそう分析した。

        ―4―

 今日で何回目なのか、いつまで通うつもりなのか、そんな事を漠然と考えながら百合香がプレイ後のシャワーを終えて部屋に戻ると、その日はベッドに男がいた。
「あ、あんただれ?」
 驚きがキツい言い方になった。一旦帰っていったはずのシンだという事は明白だが、明るい部屋でシンの顔を見るのは初めての事だった。
 シンは、はい僕はシンです、と言いたげな顔で百合香を見た。そして発せられた言葉は
「もうリセットできましたか」
 日本語だった。
 びっくりもしているし、どういう事かも分からない、でも残り時間も気になる。百合香はドレッサーの前に座り、備え付けのドライヤーで髪をざっと乾かしながら聞いた。
「日本語分かるんだ」
「本当はハーフだから」
 バカみたいな会話だ。
 レイヤーの入ったショートヘアはすぐ乾く。百合香はそのまま化粧を始めた。
「なんか用? 延長はしないわよ」
 鏡越しにシンの困ったような笑顔が見えた。
「なに笑ってんのよ」
 化粧水をコットンで叩き込むようにしながら、鏡の中のシンに言う。どうしてこんなにいちいち攻撃的になってしまうのか百合香にも分からない。
(恥ずかしいのかな、さっきまでエッチな格好でこの人にあれこれされてたって思うと。うん、そうだきっと。だからプレイが終わったら帰れって事にしておいたのに)
「お話し、しませんか」
 シンの言葉を咳払いでかき消して、百合香はコンパクトを開けた。
「話を聞かせてください」
(話なんかしたくないからこういう店でこういうプレイを望んでいるのに、何を言ってるんだろうこの人は)
 百合香は、ファンデーションを塗るのに必死なふりをしてシンの言葉を無視した。
「僕、もうじきここを辞めるんです」
 アイラインに取り掛かろうとしている時で良かった。実際に描き始めていたら、今の言葉の瞬間、ラインがガタッと崩れてしまっただろう。
「ちょ、ちょっと待って」
 百合香は大慌てで残りの化粧をすませた。眼鏡を掛けるとシンの方へ向き直る。
「辞めるの?」
「ルーマニアへ帰るんですよ」
「ホントにルーマニアの人だったんだ」
「父親が。母親がイギリスに住んでいる日本人だったんです」
「ああ、そうなんだ」
 他に言いようがなくて百合香は適当な相槌を打った。
「多分、あなたが次に僕を指名してくれるのは早くても来月の頭かなと思って、その頃もしかしてもう辞めてるかもしれないから」
 から、の後が続きそうな感じだったが、シンはそこで話をやめた。タイミングが良いのか悪いのかその時部屋の電話が鳴った。
 いくらリセットできていても場所がこのままでは雰囲気が悪い。シンが今日の仕事は百合香で終わりだと言ったので、百合香はシンをお持ち帰りする事にした。
 かといって街中の喫茶店ではどこで誰に見られるか分からない、主婦の行動範囲は意外に広くて、お互いにまさかこんなところで? というところで出くわしたりするのだ。行動の、範囲が広いというよりはパターンが同じという事かもしれないが。
 2人は一旦別々に出ると風雅の3軒隣にあるラブホテルの前で待ち合わせをし、すぐ中に入った。
 百合香がベッドに、シンは椅子に座る。
「じゃあここのホテル代は僕が持ちます」
「当たり前じゃない」
 シンは興味深そうに百合香の顔を見た。
「そうやってすぐ何か言い返したがるのは癖なんですか? だとしたら見た目よりも気が強いんですね」
 そう言われては、放っといてよと言い返す事もできない。
「ところで、から、の続きを言いたいんじゃないの? 確かにわたしは、今度来るのは来月のつもりでいたけど」
 3時間5万円という風雅のサービス料金が高いのか安いのかは分からない。ただ、専業主婦の百合香がそう簡単に出せる金額ではないし、そもそも夫に外出している事自体を隠し通すのは無理だ。友達と会う、美術展に行く、そういうもっともらしい理由を作り出す手間も考えると月に1度がせいぜいだった。
「はい。来月にはもう辞めてるかもしれないから、だから、その前にあなたとちゃんとお話をしたかったんです」
 シンはそう言って百合香を見つめた。
(長くなるのかな)
 百合香は帰りの事が気になったがすぐに大丈夫だと確認した。今日は、麻美やネットで知り合った平日休みの友人達とカラオケへ行った事になっている。もし夫の方が早く帰っていたら「盛り上がっちゃって、つい延長しちゃった」と謝ればいい。盛り上がってつい延長、シンとここにこうしている以上、それはある意味事実だ。
「お話、ねえ……」
「はい、どうして風雅に来て、僕を指名してああいうプレイを望むのかなって」
 先刻の指摘がなければ、百合香は間髪を入れず、大きなお世話だと言い返していたところだった。
 百合香は下を向いた。
(どうしてって言われても)
 この間、シンのマッサージを受けながら麻美へのメールの返事を考え、夜になって麻美にそれを送った。その時の文面そのままを言えば答えにはなる。だが、今の百合香にそれは嘘をつくのと同じ行為のように思えた。
「本当にあなたルーマニアへ帰るの?」
「はい。向こうで生きる事を決めました。時々は日本に来るかもしれません。でも風雅を辞めたらあなたと会う事はもう2度とないでしょうね」
(もう2度と……)
 次がある、この人とは今後も繋がりを持っておきたい、そういう人の前で本当の事は言いづらい。
(でも、もう2度と会う事もない人になら)
「身の上話からしてもいい?」
「はい。あなたの事を聞きたいですから」
「ありがとう」
 百合香は、深呼吸をしてから話しだした。
「わたし、小学校に上がった頃にはもうお母さんだったんだよね」
「お母さん的な役割を果たしていた。そういう事ですね」
「そうよ、子供なんて産めるわけないじゃない。でもね、両親が共働きでわたしは長女だったからなんか自然と。1年生の時には晩御飯作ってたもん、もっとも最初は電気ポットのお湯でカップラーメン作ったり、スーパーのお惣菜をレンジであっため直すだけとかだったけど、でも3年生の時には普通にカレーライス作ってた。レトルトじゃないよ」
 シンは黙ってうなずき、百合香に話の続きを促した。
「お父さんもお母さんも優しかったよ。百合香は本当にいい子だって」
(やだ、百合香が本名だってバレちゃった)
 言葉を詰まらせ一瞬冷や汗をかいた百合香だったが、シンは何の反応も見せない。
(どうせもう2度と……)
 同じ事を思い返し、百合香は話を続けた。
「いい子だって褒めてくれて、それはすごく嬉しかった。妹と弟がいて、みんな、家族みんなわたしを頼ってた。それはイヤじゃなかった。お小遣いも妹たちよりよっぽど沢山もらえたし、水曜日は好きなだけ遊んでいても良かったし。あ、お母さんはデパートで働いてて、休みが水曜日だったの」
「甘える事だけができなかったんですね」
 百合香は目を見張った。シンに心の中を見透かされたような気がした。
「え、ええ、そうよ。甘えたかった。だからさっさと結婚したのよ」
「ああ、結婚してたんですか」
 次々とボロが出て来ているような、無性に気恥ずかしい思いが百合香の中に生まれた。
「ごめん、ちょっと休憩させて。言いたい事がまとまらない」
 百合香は一旦立ち上がって冷蔵庫の前まで歩くとドアを開けた。ミネラルウォーターが入っていて、勝手に飲んでいい事になっている。
「あなたも飲む?」
 なんの気なしに聞いてしまった。シンは
「はい、いただきます」
 礼儀正しく返事をした。
 シンに1本渡すと百合香はベッドに座り直し、ペットボトルのフタを開けた。
(何を話そう)
 水を飲みながら今までの自分を振り返る。
 短大を卒業した後、就職先で7つ年上の和彦という男性と知り合った。2年間の交際の後、その年の百合香の誕生日に結婚式を挙げた。
(なんにも知らなかった)
 結婚前にセックスしない方がおかしい今時、それでも和彦とのセックスはクリスマスやバレンタインデーなどに、まるで儀式のようにしただけだった。怖いのと恥ずかしいのと痛いのとで毎回メソメソと泣き出す百合香に和彦は毎回優しく謝ってくれた。
 大事にされている。それが嬉しくて大喜びで結婚した。麻美の「セックスの相性って大事だよ、一生の問題なんだから」などという言葉も耳に入らなかった。結婚して3年たった今、その言葉がやたらと思い出される。
「セックスの事なんてどうでも良かったんだ。この人になら甘えられるってそう思ったの」
 唐突に再開された独白にシンは少しだけ面食らったようだった。
「でもね、結婚して分かった。結局、結婚によって甘えられるのは男だけなんだって」
「釣った魚に、ってタイプだったんですか? 旦那様は」
「ううん、結婚してからも優しかったよ。でも男の人が、まぁ女もだろうけど、外で仕事するって大変でしょ? 結婚してもやっぱりお母さんとしての役割をするようになってたんだよね、わたし」
「色々な事に気を遣って、平和に健やかな毎日を過ごせるようにって感じですか」
「そうそうそう。何もかもそう」
 百合香はヤケ気味な口調でそう言うと、ペットボトルをサイドテーブルに置き、ベッドにゴロンと倒れこんだ。
 結婚して半年、やっと体がこなれて、セックスというものを楽しめるようになってきた。すると今度は(クンニしてくれたんだからフェラしてあげなきゃ)(もっと大きな声出した方が喜んでくれるのかな)そんな事ばかり考えるようになっていた。終わった後も(さっさと立ち上がってお水飲みに行ったらプライドが傷つくのかな)そんな事を思って「もう動けない、お願いお水飲ませて」と言っている自分がいた。そうなる前の、ひたすら震えて怯えていれば良かった頃の方が幸せなセックスだったようにも思う。
(そんな事を言ったらシンは引くのかな。ああ、また人に気を遣ってる。もういいや、ぶっちゃけちゃえ)
「こんなはずじゃなかったのになあ」
 百合香は絶対に言わないでおこうと思っていた言葉を言ってしまった。同時に目の中が熱くなる。こんなはすじゃなかった、それは自分の判断が間違いであったと認める、百合香のプライドに賭けて言えない言葉のはずだった。
「甘えたかった……赤ちゃんみたいに……それで、安らぎたかったからよ」
 無意識にそんな発言が出て、百合香は自分の言葉に驚いた。だが唇が止まらない、涙も。
「顔も言葉も分からない、自分の意思では自分の体をどうする事もできない、でも相手が自分を可愛がってくれようとする事だけは分かる、それってまるで赤ん坊とか愛玩犬みたいじゃない? そんな状況でセックスをしたかったの。無力な存在になりたくて、何もできないそれゆえに保護されるべき存在、そうなれる時だけがわたしは安らげるの」
 シンは黙り込んでしまった。たちまち百合香の心に後悔の念が生まれる。
(なんで、こんな所でこんな人に)
 百合香は眼鏡を外してシンに背を向けた。そして枕に顔を埋めようとしたその時、シンがベッドに滑り込み百合香をその両腕で包み込んだ。片手で背中をごく軽く叩き、もう片方の手で頭を撫でる。百合香の涙がおさまった時、シンは思い切ったようにこう言った。
「百合香は、僕の可愛いわんこちゃんになれますか?」

        ―5―

(もう2週間になるのか)
 掃除を終えたリビングで、ソファを背もたれに床に座り込んで百合香は考えていた。
 あの日、シンは百合香をルーマニアに連れて行きたいと言った。そこで本当に百合香を赤ん坊か愛玩犬のように可愛がりたいと。

「僕としては、今までもわんこちゃんって呼んでましたから、犬として可愛がりたいです。一日中でも一生でもペットとして可愛いがってあげますよ。本当に首輪を付けるのもいいですよね、百合香は色が白いから赤や黒のものが似合いそうです。一緒に公園へお散歩に行きましょうか」
 シンの腕の中で聞かされる言葉は、百合香の思考能力を奪うほど魅力的な提案だった。
「考えさせて、それであなたが辞めるまでにわたしが次の予約を取らなかったら、それでおしまいって事にして」
 そう言って逃げるようにホテルの部屋を飛び出した自分の行動が理解できないくらいの。

(シンと一緒に……何もかも捨てて……)
 月に1度、お金や夫への言い訳を気にしながらしてきた事が、一生でも続くのだ。
(あの安らいだ気持ちにずっとずっと満たされていられる……。ひたすらシンの事を思って、その愛撫を待つ……それだけでいい、そんな毎日)
 百合香は首を振った。夫との時もそうだったのだ。ただ優しさに惹かれ、なんの根拠もなく自分の望んでいるものが得られると思い込んで結婚してしまった。同じ間違いを2度も繰り返したくはない。
(でも……それでも……今度こそ)
 どちらの決心もつかなかったのは、もう少しだけ夢を見ていたかったからだ。
 迷いと妄想の中を漂う百合香の気持ちを正気に戻すかのように、電話の音が響いた。
 受話器の向こうから聞こえてきたのは麻美の極端に焦っている声だった。
「あ、百合香? 良かった、こっちの電話に出るって事は家にいるんだね」
「それは、こっちは家の電話だからね。どうしたの?」
「えっと、何から話したらいいのかな、今日は風雅に行かないの?」
「うん、今日は予約も取ってないし」
「そっか、うん、それがいいよ。えっと、今メール送ろうと思ってたんだけど、あ、とにかく今からメール送ってその後ちょっとしたらもう1通届くから両方読んでね」
 電話は一方的に切れた。百合香があっけにとられていると、携帯に麻美からのメールを知らせる着信メロディが鳴った。1通目は以前にメールした、風雅の接客の仕方についての返信だった。

 何回行っても初めての時のような対応かどうかは、お店によって全然違うから別に風雅がおかしいとかって事はないと思うよ。それより3時間5万円でその接待はちょっと異常かなって思う。キクチさん? の態度も高級ホテルのボーイ並みに教育されてるし、わたしも紹介しといてアレだけど、女性向けサービスのある安心な店って事以外知らなかったんだよね。で、ちょっと調べたんだけど、風雅って要するにお偉いさんが出入りする店らしいの。政治家とかその奥さんとか、財界の大物にゲイが多いってのはこの業界じゃ公然の秘密なんだけどそういう人も顧客になってるんだって、だから百合香みたいな一般人を低料金で遊ばせるのはカムフラージュなんじゃないかな。

(そんなものかもしれない)
 百合香は素直にそう思った。読み終わった頃に次のメールが届く、百合香が衝撃を受けたのはその2通目の方だった。

 で、おとついくらいからニュースでやってる汚職事件の、容疑者だかその奥さんだかが風雅で接待受けてたらしくて、今から警察が捜査に入るって。捜査って言っても関係者から事情を聞いています、程度のものらしいけど料亭とかの接待とは種類が違うでしょ、ヤバそうっていうかなんか業界騒然? だからもう店の周りに取材の人もいると思うから、しばらくは風雅に行かないほうがいいよ、多分営業もしてないだろうし。

 気持ち悪いほど脈打つ胸を手で押さえ、百合香は風雅のサイトへ行ってみた。サイトそのものは見られるが予約フォームにアクセスできない。電話をかけてもずっと話し中だ。
(きっとシンは……)
 あの時、今日の事を予測できていたのだろう。風俗営業法や売春禁止法にまで話が及べば、シンのような外国人は問題が複雑になるのかもしれない、そうなる前に辞めてルーマニアへ帰ろうと思い、だからこそ百合香に言ったのだ。
(まさか、こんな形で……)
 行こうと決心できていたわけではない、だが、自分がぐずぐずと悩んでいる間に、チャンスを逃してしまったのだ。
(今度こそ、本当に欲しいものが手に入れられるチャンスだったかもしれないのに)
 百合香は涙を流していた。

        ―6―

 3年の月日が流れた。相変わらず麻美はSMクラブで働き、百合香と夫はセックスレスのままだ。風雅は看板を架け替えて、何事もなかったかのように営業を再開している。
 今日のランチも麻美と差し向かいで取っていた。麻美が百合香の顔をまじまじと見つめ
「だいぶ良くなっては来てるみたいだけど、まだまだか」
 まるで病状の診断を下すように言った。
「何が?」
「百合香が。ひところの、亡霊みたいな風じゃあなくなったけど、まだ元気ないね。もう3年になるんだよ。風雅での事なんかいい加減吹っ切ったら? あ、ごめん携帯鳴った。これ、出た方がいい人だから」
 百合香に反論する暇を与えず、麻美は一旦店の外へ出た。
 麻美は、風雅に百合香のお気に入りの男がいたという程度の事しか知らない。そんな麻美の目には、その男がいなくなったくらいで3年も落ち込んでいる百合香は、相当不可解に映ったようだ。
(亡霊って……上手い事言うなあ、麻美は)
 確かに、シンがルーマニアに帰ってからの百合香はただ生きているだけだった。麻美の指摘通り、見た目や雰囲気もひどいものだったに違いない。
 心の中は、なんで一緒に行かなかったんだろうという後悔でいっぱいだった。家事をしていても、麻美とのランチの時にも、急にその思いに囚われて胸が苦しくなった。
 ひたすら可愛がられ甘えられて安らげる、そんな愛玩犬としての生活。その機会は永遠に失われてしまったのだ。
 ただ、3年の月日の中で少しずつ分かった事もある。もし風雅のあの事件がなく、自分の気持ち一つでシンについて行ける、そんな状況であったとしても、きっと自分は行かなかったのではないか。そして、今になって思う。ルーマニアで百合香を犬として可愛がるあの話は、シンが最後に見せてくれた幻だと。最近になってようやくその事に気づいた。
 ルーマニアに行くだけなら簡単だろう。だが、生きるとなると話は別だ。毎日の生活や人の目というものもある。本当に首輪を付けられてのお散歩も、逆に一生家の中で誰の目にも触れられずに生きるのも、どちらも不可能な事だ。
(だから、あれはきっとシンが創ったおとぎ話。3年前のあの時、本当はもう心の底で気づいていた。だから必死になってシンを探すって事もしなかった)
 そう思うと百合香は、いつの間にかシンに感謝をしていた。シンは夢を見せてくれた。一時の幻だったにせよ、百合香はその夢の世界に浸る事ができた。
 シンだけが百合香の気持ちを分かってくれた。そして教えてくれた、自分が本当に欲しかったもの、それは安らげる場所ではなく、自分の事を分かってくれる人だったのだと。
 それはきっと、シンにも同じような思いがあったからなのだ。そう思うと、今でもシンと繋がっているような気がした。手足を拘束され、無抵抗のままアソコを貫かれた時の感覚が甦る。同じ気持ちを共有できる人がいる。そう思うだけで胸が暖かくなる。
 麻美が戻って来た。椅子に座り直しながら百合香に話しかける。
「それで、どこまで話したっけ」
「うん、吹っ切らなきゃいけないってとこまで」
「そうそう、また改めて風雅でお気に入りを見つけるんでもいいし、どっか別の店探してあげようか?」
 麻美の申し出に百合香は首を振った。
「その気持ちだけで十分。本当にありがとう。もう大丈夫、吹っ切れる」
 それは目の前の麻美に対する言葉だったのか、それとも遠い空の下にいるシンに向けてのものだったのか。百合香はそう言って微笑んだ。
(了)


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