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プロローグ

 全国中学水泳大会県大会の当日、私は、県営プールの飛び込み台に立っていた。三年生の六月だった。負けた時点で部活は引退、その後は高校受験が待っている。
「美雪、がんはってぇ」
 観客席から声援を送っているのは浦野志帆。クラスメイトで親友だ。
 私は「任せておいて」と手を大きく振った。
 志帆も私も、揃って身長が百五十センチに届かない。クラスでは、ミニマムコンビと呼ばれていた。
 小学校は別々だったが、お互い、身長のハンデには悩まされて来た。
 中学校でクラスメイトになり、意気投合した私たちは、卒業までの誓いを立てた。身体の弱い志帆は、勉強で一番を目指し、運動神経に恵まれた私は、スポーツで一番を目指すと。
 志帆はマジメな勤勉タイプで、元々成績は良いほうだった。目標に向かって真っ直ぐに進んでいった。
 苦戦したのは私のほうだ。身長が低いだけでなく、全体的に華奢なのだ。スポーツに向く体形ではない。
 バレーやバスケでは話にならない。唯一のアドバンテージは、幼い頃からスイミングスクールに通っていた経験くらいだった。
 志帆に言わせれば、私の最大の武器は負けず嫌いの性格らしい。
 たまたま水泳部の一年上に気に入らない先輩がいた。こいつにだけは負けるものかと練習したのが、今の成績に結びついているのかもしれない。
 今日のレースで一着を取れば県大会優勝。志帆との誓いを果たせる、と思っていた。
 選手紹介のアナウンスが始まる。
「第二のコース、大島紗英さん、成田第五中学」
 ライバルは、隣に立っているこの人だ。大柄で均整の取れた体形。高校の水泳部からもスカウトが来ている。おまけにカメラ小僧たちも狙っている。豊満なバストは誰にとっても魅力なのだろう。
 大島さんは、自信に満ちた表情をしていた。
 ライバルだと思っているは私だけかもしれない。「どうせ私は貧乳ですよ」と横目で見ながら、負けるものかと、密かに拳を握り締めた。
「第三のコース、華原美雪さん。安房之浜中学」
 名前を呼ばれた私は、飛び込み台の上からプールサイドへバック宙を決めた。着地も完璧。会場は大うけだったが、ホイッスルと共に、係員が飛び出して来た。
「こら、そこ。何やっているんだ」
 係員が駆け付けるよりも早く、顧問の里見教師が割り込んだ。
「申し訳ございません。悪気はないんです。本人は、この通り血気盛んで……」
 こういうのを平身低頭と言うのだろう。「今度やったら出場停止にしますよ」とか怒鳴られていたが、何とかうまく取りなしてくれた。
 毎度のことながら、顧問の先生って大変だと思う。
 係員が引っ込んだ後、里見先生は、私の頭に掌を乗せ、二三回揺すっただけで、何も言わなかった。中年の平凡な男性教師だけど、この人がいなかったら、水泳を続けられなかったかも。
 頭を下げて舌を出す私を、志帆は呆れ顔で見ていた。蒼い顔をしていたのは、娘の晴れ姿を見に来た両親のほうだった。
 両親と言っても、父親は本当のお父さんではない。お母さんは私を連れて、今のお父さんと再婚した――らしい。中学校の入学書類でわかったことだけど、両親は、まだ内緒にしておきたいようなので、知らないフリをしている。
 観客席には、もう一人、気になる顔が来ていた。
 島田健太、隣のクラスの男子だ。どちらか言えば奥手の志帆が、初めて好きになった男の子だった。
 私は、すぐに二人の仲を取り持つと言い出した。消極的な志帆を説得して、健太を呼び出し、私が代わりに志帆の気持ちを伝えた。
 ところが「僕が好きなのは華原さんなんだ」と、逆に告られた。男の子としては小柄で、マジメで、大人しくて、志帆とは似合いのタイプだと思っていた。こんな勇気があるなんて、思ってもみなかった。
 ありのままを正直に伝えるしかなかった。
 私は、親友を初めて泣かせた。こんなに辛い経験はなかった。志帆は私以上に辛い思いをしたに違いない。
 ――初めて美雪ちゃんを恨んじゃった。でも、もう大丈夫。
 翌日には、志帆の笑顔が待っていた。私のせいなのに、志帆は私を許してくれた。これからも親友でいようと言ってくれた。
「あんたのせいだからね」
 私は、健太を睨みつけた。気づいたかどうかはわからない。あんな奴、何とも思っていないはずなのに、水着姿を見られるのは恥ずかしかった。
 いよいよスタートが近づいた。
 会場が緊張に包まれる。私は、隣の大島さんを見上げた。
(表彰台では、私が見下ろしてあげるんだから)
 百メートル自由形の県大会決勝戦、スタートのホイッスルが鳴った。



 目が覚めると、いつもお母さんが側にいた。
 いくつの頃だったか、覚えていない。物心が付くか、付かないか。そんな頃だったと思う。お母さんの乳房に顔を埋め、出なくなったおっぱいを、いつまでもしゃぶっていた。
 お母さんの温もりが暖かかった。
 横になったお母さんの、真っ白な背中に乗るのが好きだった。柔らかくてスベスベのお尻に頬を押し付けるのが、気持ち良かった。
 背中から落ちて泣き出すと、お母さんの手が、痛いところを擦ってくれた。優しい目で「よしよし」と言われるだけで、泣いていた理由がわからなくなった。
 細い指先で涙をぬぐう優しいお母さん……
 一日中、肌と肌を合わせているだけ。
 他に何をするでもなく、それだけで幸せだった日々。

 あれは本当にあった出来事なのだろうか。


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