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第2話 檻


        1

 本格的な梅雨に入ったらしい。線を引いたような雨が、降り続いていた。
 7月になれば、期末テストもある。その前に三者面談だ。イヤなことばかり思い出すのは、どんよりとした雨雲のせいだろうか。
 その日、ペットショップに立ち寄ると、玲子さんの様子が変だった。
「美雪ちゃん、ゴメンね」
 玲子さんが、顔の前で両手を合わせた。何が起きたのかわからないまま、いつもの習慣でシベリアンハスキーの檻の前まで進んだ。小型犬が相変わらず、甲高い声で騒ぎ立てていた。
 一際大きな鉄格子の前に立ち、玲子さんと檻の中を見比べました。
「えっ……?」
 シベリアンハスキーがいなかった。いつもここに、横たわっていたのに。
「ちょっと前から決まっていたんだけど、言い出せなくて」
 玲子さんの顔が、悲しそうだった。
「飼い主が見つかったんですか」
「ならいいんだけど、あの子は大きくなりすぎて、もう……」
 玲子さんは、言葉を続けることができなかった。
 察しが付いた。もう、あの大きな背中を見ることはできないのだ。空っぽになった檻と、玲子さんの表情を見て、下目蓋が重くなった。
「美雪ちゃんも悲しんでくれるのね」
 目の下に指を当て「うん」と頷く。
「そうよね。毎日、通ってくれたんだもの」
 玲子さんが、両手で私の頭を包み込んでくれた。
 お店には他のお客さんもいたはずだけど、玲子さんがそうしているのだからと、気にしないことにした。
「あの子がいなくなっても、また来てね」
 私の肩が、微かに動いた。
 昨日までの私は、大好きなシベリアンハスキーに会うために通っていたのだ。明日からは、ここに来る理由がなくなってしまった。
「どうかしたの?」
 玲子さんが、何か気づいたみたいだ。
「い、いえ、別に」
「そう。美雪ちゃん、可愛いのね」
 一際強く、抱き締められた。子供の頃に抱っこされて以来だ。私は、両手を下ろし、されるがままにしていた。
 玲子さんは、いつもこうやってシーズやチワワを抱っこしている。
 横目で檻を見た。中は奇麗に掃除されていた。南京錠は扉に下がっていたけど、施錠はされていなかった。
「あっ」と、思わず声に出ていた。
「どうしたの?」
 玲子さんが、不思議そうに身体を離した。
 檻に付けてあった名札が外されていた。玲子さんも、私の視線を辿って、気づいたようだ。
「名札のことね。あのコ、とうとう名前を付けてもらえなかったわね」
 玲子さんは、目頭を押さえながら「ごめんなさい」と、背を向けた。
「そうだ。いいことがあるわ」
 何か思いついたようだ。玲子さんは、レジの奥の事務机からマジックを持って来くると、新しい名札に、私の目の前で書き込んだ。

『美雪 牝 十四歳』

 名札を赤い鉄格子の真ん中に付けると、南京錠の鍵を抜いて、私の右手に握らせた。
「これで明日からも来られるでしょうこの檻は美雪ちゃんの物よ」
 犬の檻。犬の名札。そこに私の名前が書かれていた。
 息が苦しくなった。鉄格子から目が離せない。私は怖くなった。すぐにでも、ここから逃げ出したいのに、身体が強張っていた。
「大丈夫よ。あの子の代わりに、美雪ちゃんを閉じ込めたりしないから」
「イヤっ」
 私は、首を横に振りながら、二歩三歩と遠ざかった。
「どうしたの」
 玲子さんは、びっくりしたような顔をしていた。
「私、檻に入るなんて……」
「だから、明日からも美雪ちゃんがここに来られるようにって、おまじないよ」
(おまじない……ホントにそれだけ?)
「でも、美雪ちゃんを入れておいたら、人気になるかもね」
「玲子さん……」
 本気ではないとわかっていた。玲子さんは、私の反応が面白くて、からかっているだけなのだと。それなのに、
「ハダカがいいわね。クラスの男の子たちが大勢押しかけるわよ」
「やめてください」
 私は、両手で顔を覆い、俯いた。

        2

「ごめん、ごめん。冗談だって」
 玲子さんが、困っていた。
 私の目から、涙が溢れ出したからだ。なんでそんなに悲しいのか、自分でもわからない。少なくともシベリアンハスキーがいなくなったからではないはずだ。
「想像しちゃったのね。でも」玲子さんは、私の右手を取り、こぶしの上から握った。「鍵だって、美雪ちゃんが持っているのよ」
 南京錠の鍵は、ここにある。
 仮に閉じ込められたとしても、自分で鍵を開けて逃げれば良い。
 玲子さんが「ねっ」と、笑って見せた。
 私をハダカにして、無理やり檻に入れるなんてことはあり得ない。一人で想像の世界に入り込んでいたようだ。
「ご機嫌が治ったら、ちょっと店番していてもらえるかなあ」
 玲子さんが、腕時計を見ていた。
「えっ、でも」
「美雪ちゃんなら大丈夫よ。お客さんに何か言われたら、十五分で戻るからって、待っていてもらってね」
 玲子さんは、お店のエプロンを外すと、私に渡した。
 セカンドバッグだけ持って、自動ドアから出て行った。一人になると不安だった。初めて任された店番だ。心の準備だってできていない。「お客さんが来たらどうしよう」と気になってならなかった。
 誰もいない店内。
 空になった檻に目を遣る。もしかして、今なら……
(檻に入れる)
 胸が高鳴った。こんなチャンスは、二度とないかもしれない。南京錠の鍵を握りしめた。鉄格子に向かって、足を踏み出した。
「時間がなかったんで、こんなものしか、なかったけど」
 きっちり十五分で、玲子さんは戻って来た。
「ひゃあっ」という声を飲み込む。玲子さんは「お土産よ」と、自販機の缶コーヒーを買ってきてくれた。

 家に戻ると、部屋に駆け上がってドアを閉めた。窓も閉めた。カバンから南京錠の鍵を取り出すと、机の引き出しの一番奥に隠した。
 お母さんが、私の机を開けることはない。
 万が一鍵を見つけたとしても、何の鍵かはわからないだろう。聞かれたら、学校のロッカーの予備鍵だと、答えるつもりだった。
 そこまで終えてから、やっと首輪の入った紙袋に気づいた。
 こっちの方が目立つし、見つかったら言い訳が難しい。今まで気にしていなかったことが不思議だった。
 エアコンのスイッチを入れると、いつものように、ハダカになって首輪をした。
 締め切った部屋の中で、冷房の風が汗ばんだ肌を冷やしていく。夜風のほうが、きっと心地よいとのだと思うけど、宵の内から窓を開けておくことわけにはいかない。
 いっそのこと、このまま外に飛び出すことができたらと思うこともある。今夜は特に興奮していた。
『美雪 牝 十四歳』
 鉄格子に掛けられた名札の文字を思い浮かべた。
 そこには間違いなく「牝」と表示されていた。檻に入れられる時、私は人間ではなく、犬として扱われるという意味だ。
 床で四つん這いになってみた。こんな格好で檻に入れられたら、どんなに切ないか、どんなに恥ずかしいか、そんな妄想に囚われてしまう。
 玲子さんが言っていたように、クラスの男の子たちが来たらどうなるか。
 逃げたくても逃げられない。狭い檻の中では隠れる場所もない。首輪をした惨めな姿を晒し続けるしかないのだ。
 ――檻の中に入ってみる?
 玲子さんの言葉が甦る。
 たった一回、言われただけなのに、毎日繰り返し、聞かされているような気持ちだった。
 私は多分、あの檻に入りたいと思っている。
 いえ、入るだけではない。鍵を掛けられて、自分では絶対に出られないように、閉じ込められてしまいたいと思っている。
 頭がおかしくなってしまったのだろうか。

        3

 翌日は、三者面談があった。
 お母さんと二人で、担任の先生と向かい合った。進学する高校は、あっけなく決まった。私の成績と、水泳部の強い高校が、恐ろしいくらい一致したのだ。
 担任の先生は、疑う様子もなかった。
 そのせいで面談が早く終ったのは良いが、ちょっと安易すぎる気もした。里見先生なら、何と言っただろう。 
 ペットショップの前を通り過ぎた。
 お母さんと一緒に、道草するわけにもいかない。今日は、パスするしかなかった。
 玲子さんは気にするだろうか。
 あのシベリアンハスキーがいなくなったから、もう来ないものと思うかもしれない。それとも、檻の話をしたからだと思うのだろうか。
 お店の意識が、背中に残った。
 川沿いの道に出た。いつかのおばさんが、河原で小犬を遊ばせていた。私が足を止めると、お母さんも付き合ってくれた。
 二歳くらいの女の子が、小犬の側に寄って来た。馴れているのだろう。自分のペットのように頭を撫でたり、抱き締めたりしている。
 犬のほうが、持て余しているようにも見えた。
「ねえ、お母さんは、犬を飼いたいと思ったことはないの」
 ふと頭に浮かんだ疑問を、口にしていた。
「そうねえ。ないと思うわ。多分……」
 曖昧な言い方だった。「あれ」って思っていると、先を越された。
「犬を飼いたくなったの」
「う、うん。そういうわけじゃないけど……」
 私は、小犬から目を離さなかった。お母さんも、それ以上突っ込むことなく、河原に目を落としていた。
 女の子が転んで、泣き出した。母親が抱き上げて「よしよし」と、あやす。足元で、小犬が心配そうに見上げていた。
「進学のことだけど、ムリすることはないのよ」
 お母さんが、口を開いた。
「ムリなんて……」
 してない、と言えるだろうか。お母さんは続けた。
「最近、帰りがどんどん遅くなってるでしょ。部活もないのに変だと思ってたのよ。学校の帰りに、何をやっているの」
「うん、そこのペットショップに寄ってたんだ」
 お母さんになら、話して良い気がした。
「やっぱりね。スカートに短い毛が付いていたもの。あれって、犬か猫の毛でしょ」
 身体を捻り、上半身をお母さんに向けた。やさしい顔が、そこに有った。
「なんだ。ばれてたんだ」
 ちょっとだけドキっとしたけど、まさか、首輪や檻のことまで、ばれているわけはない。お母さんの顔をじっと見るのは、久しぶりだった。
「ペット、飼いたいんだ?」
 お母さんに、もう一度、訊かれた。
「ううん、可愛いとは思うけど……」
 それ以上、なんて答えたら良いのだろう。
 シベリアンハスキーを飼いたいと思ったことは一度もない。他の小型犬だってそうだ。ケージの中にいる小犬たちは愛らしいと思うけど、それだけだった。
 私は、ペットショップでしていることを、お母さんに話して聞かせた。
 玲子さんに教えてもらった犬の蘊蓄、ケージのお掃除、店番を頼まれて緊張した経験など、思いつくままに口にした。
 いつもより早口になっていたと思う。
「美雪、もしかして……」
 黙って聞いていたお母さんが、口を挟んだ。
「えっ、何?」(まずいことを言っただろうか)
「ううん、いいの。まさか、そんなこと……」
 後半は、独り言になっていた。私が視線を外さずにいると、 
「行こうか」
 お母さんは、返事を待たずに歩き出した。
 私も、後を追った。
 河原では、笑顔に戻った女の子が、小犬と遊び出していた。

        4

 お母さんが、ベッドの脇に立ち、私の身体を揺すっていた。
「美雪、起きなさい」
 カーテンの向こう側が、明るくなっていた。
 私は、タオルケットにくるまった。夕べは、ハダカで首輪をしたまま寝てしまったらしい。お母さんには、とっくにばれていた。
「ほら、早くしなさい。ここはもうあなたのベッドじゃないのよ」
 お母さんが、鎖のリードを、首輪に嵌めた。
 ハダカのままベッドから下りると、玄関に変わっていた。
 お母さんが、さらにリードを曳く。私は、四つん這いでついて行く。玄関から外に出された。
 これは夢なんだと気づいた。
 そうでなければ、お母さんがこんなことをするわけがない。
「美雪は、今日から、ここで暮らすのよ」
 玄関を出ると、右側に犬小屋が置かれていた。赤い屋根の可愛い犬小屋だった。
 お母さんは、リードを杭に繋ぎ、「さあ、お入り」と掌で示した。
 私は、犬小屋に入り、入り口から頭だけ出した。お母さんが、エサ皿と水皿を持ってきて並べた。エサ皿には、半生のドッグフードが入っていた。
「良かったわね。望みが叶って」
 頭を撫でられた。
「これが、私の望みなの?」
 お母さんを見上げた。
「わかっているわよ。美雪は、犬になりたかったのでしょ」
 その問いには、返事ができなかった。
「ずっとハダカなの?」
「そうよ。犬は服を着ないでしょ」
 ここだけ、玲子さんの声に聞こえた。
 お母さんが、家に入っていった。一人で残された私は、犬小屋の中から道路を見ていた。誰かも来ませんようにと祈っていた。
 女の子が、敷地に入って来た。昨日、河原で小犬と遊んでいた女の子だ。
 私を見つけ、頬を擦りつけて来た。
「よしよし、いいコにしているんですよ」
 女の子にも、頭を撫でられた。
「あら、可愛いワンちゃんね」
 女の子の母親にも、ハダカの犬の姿を見られた。
 杭に繋がれた私は、どこに行くこともできない。ここで、飼い犬として過ごすしかないようだ。
 ものすごく恥ずかしいのに、何だか、これでいいような気がした。
「華原さん」
 顔を上げると、健太が立っていた。
 私は飛び起きた。
 ベッドの上だった。パジャマを着ていた。首輪も付けていなかった。
 寝汗で、全身がびっしょりになっていた。

 朝、玄関でお父さんと一緒になった。
 夢の中には、出て来なかったお父さんだけど、もしリードを曳かれていたらと思うと、顔を見るのが恥ずかしかった。
「今日は遅いのね」
 いつもなら、もうとっくに出かけている時間だった。
「ああ、ちょっとな」
 二人で一緒に玄関を出た。お父さんと並んで歩くのは、久しぶりだった。
 何となく照れくさい。
 前に二人で歩いたのはいつだったか。小学生の、それもかなり低学年の頃だと思う。その時は、手を繋いでいたのかな。
「高校でも、水泳を続けるんだな」
 お母さんから、昨日の三者面談の話を聞いたのだろう。お父さんから言い出した。
「うん……」
 正直なところ、あまり考えていなかった。
 県大会で準優勝。回りのみんなは、高校生になって身体が成長したら、今度こそ優勝できるって言ってくれた。
 ちょっと抵抗はあったけど、きっと水泳は続けるのだろうと、自分でも思っていた。
「また応援に行かなければ。でも、バック宙は勘弁してくれよ」
 私は、上目遣いで舌を出した。
「それじゃ今度は、水着を脱いじゃおうかな」
「おいおい……」
 本当にやりかねないと思ったのか、動揺が顔に出ていた。
「うっそ。あっ、お父さん、赤くなってるぅ」
 本当の親子ではないと知ってから、お父さんの前では、必要以上にはしゃいで見せる自分に気づいていた。
 一緒にいる時間は、必ずしも落ち着くものではなくなっていた。
 無理をしてでも明るく振る舞っていないと、息苦しかった。私は、ある意味で、お父さんを避けていたのだと思う。
 思春期の娘は、誰でもそうするものだと、お母さんは言っていたけど。
 お父さんとお風呂に入らなくなったのも、友だちより早かった。スキンシップも、殆どない。初潮のお祝いもなかったし、ブラを付けているのも内緒だった。
 お母さんは、気づいているのか。
 私は、お父さんに怒られた記憶がない。

        5

 ペットショップの入り口で足を止めた。
 ガラス戸越しに、小犬たちの様子が見えた。ここからでは、キャンキャンと甲高い声で鳴く小型犬ばかりが目立った。お客さんの姿も見えた。二十代から三十代の女性が多い。室内犬の需要が多いからだと、玲子さんが言っていた。
 いつもと変わらない光景だった。
 昨日一日来なかっただけなのに、何となく入りにくかった。
 学校からの帰り道。この時間でも太陽は高く、気温もまた下がっていない。首筋に流れる汗を、意識しながら立っていた。
「どうしたの。そんなところで」
 玲子さんに気づかれてしまった。「入っていらっしゃい」と目で呼んでいた。私は自動ドアを通り抜けた。すれ違うようにお客さんが出て行く。
 玲子さんは、レジに立っていた。目が合うと、
「あら、目が真っ赤よ」
「えっ」と、尻に指先を当てた。
「そんなに、あのコとお別れしたのが、悲しかったのかしら」
「いえ、そういうわけじゃ……」
 玲子さんは、私の顔を覗き込んだ。
 お気に入りのシベリアンハスキーがいなくなって、一晩中泣き明かしているとでも思ったのだろうか。
「それじゃ、どういうわけかしら」
 一人でニヤニヤしている。まるで、私の妄想や、夕べ見た夢を、全部わかっているかのようだ。
「ねえ、なんですぐに入って来なかったの?」
 急に矛先が変わった。
「なんでって……」
「今日ここに来たら、檻に入れられちゃうとでも、思ったのかしら」
 一昨日の話の続きだった。
「そ、そういうわけじゃ」
「ふーん、でも入りたいって思ったことはあるでしょう」
 胸の奥で、大きな脈を打った。
「ありませんよ。犬じゃあるまいし、檻だなんて」
 ウソだった。
 私は、お店に奥に目にやる。棚の合間に、赤い鉄格子の一部が見えていた。
「ほら、やっぱり見てる」
 玲子さんに、ばれてしまった。
「違いますよう。そんなんじゃないです」
 顔の前で、思いっきり手を振る。
「あっ、そうそう。慶子さんがね、ほら、この前美雪ちゃんを店員と間違えた彼女よ。美雪ちゃんを、私の妹だと思っていたんだって。それで、たまにお店の手伝いをしているのだろうって」
 また、話題が変わった。
「あっ、そ、そうだったんですか」
 檻の話でなくなったのは幸いだった。あのまま続けていたら、私は、檻が気になってペットショップに通っていたと、白状させられてしまうかもしれなかった。
「慶子さん、美雪ちゃんのこと、とっても可愛いって、気に入ったみたいよ」
「そんな……」
 女の人に、可愛いって言われるのは、照れくさかった。
「また赤くなった。美雪ちゃんってわかりやすいわね」
「もう、そ、それで慶子さん、ですか。ペットを探しているんですか」
 今日は、私をからかう日と決めていたのだろうか。どんな話でも、結局、顔を熱くしてしまう。
 それからの話題は、慶子さんにはどんなペットが似合うかになった。
 鳴き声がうるさい小型犬は好きではないそうだ。室内犬で、大きくて可愛い犬というのだから、注文が難しい。
 コリー犬みたいな種類が良いのだろうか。
 お客さんがレジに来て、会話が途切れた。ペットシーツを大量に抱えていた。
「家のチワワが、決まった場所でオシッコしてくれなくて」
 初めて室内犬を飼ったのは良いが、部屋中でオシッコされて困っているらしい。
「躾ができていなかったのですね。良かったら、こちらで調教しましょうか」
 玲子さんが応えていた。この店で売った犬ではないけど、お客さんとは、以前から顔見知りのようだ。
「今からでも、間に合うものでしょうか」
 お客さんも、遠慮がちに話していた。
「やってみなければわかりませんが、できるだけのことはさせて頂きます」
 言葉の割に、自信がありそうだった。
 お客さんは、ペットシーツの半分を棚に戻していた。近い内に、ワンちゃんを連れて来るつもりなのだろう。
 玲子さんが、手招きした。
「レジの打ち方、教えてあげるわ」
 一人でも店番ができるようにと、前から話だけはあった。顔見知りのお客さんなら、少しくらい待たせても大丈夫かなと、レジの前に立った。
「ほら、このバーコードにスキャナを当てて……」
 アルバイトをしているようで、新鮮だった。それ以上に、やさしいお姉さんができてみたいで、うれしかった。

        6

 学校での昼休み、志帆と二人で廊下を歩いていた。向かうは購買部。急にリンゴジュースが飲みたくなったのだ。
「もう、美雪ちゃんは、いつもなんだから」
 志帆が口を尖らせた。お弁当を広げようとしているところを、無理やり付き合わせたのだから、そんな顔をなるのも仕方がない。
「ごめん、ごめん。志帆の分も買ってあげるから」
 私は、手を合わせた。
「なんでそうなのかなあ。美雪ちゃんは、我慢ってものを知らないの」
「えっ、我慢? それって日本語?」
 志帆が「もう、いいよ」と顔を背けた。なんだかんだ言っても、一緒に来てくれるのが志帆だった。私は、心の中でもう一度、手を合わせた。
 購買部の前に、ちょっとした人だかりができていた。三年生の男子が数人で、一年生の男子二人を囲んでいるようだ。
 体格差は明らかだった。側を通る下級生は避けて通っていた。
「どうしたんですか?」
 私は、一年生二人を背にして立ち、三年生に話しかけた。
「ちょっと、止めなよ」
 志帆がブラウスの端を引っ張った。見ようによっては、イジメにも見える場面だ。黙って通り過ぎるわけにはいかない。
「口を挟むんじゃねぇよ」
 一番前にいた男子が、凄んで見せた。
「こ、こいつ、二年の華原じゃないか」
「なあ、まずいよ」
 三年生たちが、口々に話し始めた。先日、北校生相手に一歩も引かなかった私だ。噂は、学校中に広まっているのだろう。
 凄んでいた男子も、眉間の皺をほどいた。
「なんでもねえよ」
 一歩引いたようでも、腕組みをしたまま、動かない。私は向き直って、一年生の男子に、同じ質問をしてみた。
「先輩たちが、落とした百円玉を取ったって言うんだ」
 こちらも口が重かったが、思わぬ助け船に、乗ってみる気になったようだ。
 どうやら、三年生が百円玉を落とし、すぐに探したが見つからない。その場所に一年生がいた、ということらしい。
「拾ったの?」
 私が訊くと、一年生二人は、首を横に振った。
「先輩方、そういうことみたいですけど……」
 今度は、三年生に向き直って、出方をみた。志帆が側で、心配そうに見ていた。
「ならいいんだよ。百円くらい、どうでもいいんだ」
 さっきまでの雰囲気とは、明らかに違っていた。三年生たちは、そのまま通り過ぎようと、歩き出した。
「先輩、ちょっと待ってください」
 私の言葉に、三年生たちが足を止めた。今更何だと言わんばかりに、不機嫌そうな顔を向けた。
「もしかして、ここじゃないですか」
 最初に凄んでいた三年生の足下に駆け寄り、ズボンの折り返しをさらった。思った通り、百円玉が出てきた。
「良かったですね」と、百円玉を差し出す。
「おお、サンキューな」
 バツが悪そうに受け取る三年生。今度こそ立ち去ろうとする背中を、私は、もう一度呼び止めた。
「疑いが晴れたのなら、こっちの一年生二人に謝ってください」
 少しだけ怖い顔をしたのは、お互い様だった。
 三年生は「悪かったな」と言い捨て、逃げ出すように去って行った。
 一年生二人が、「ありがとうございます」と、頭を下げた。志帆が「無鉄砲なんだから」と、恨めしげな目を向けた。
 私は、リンゴジュースを買う列に並んだ。

        7

 ペットショップの脇に、見慣れないトラックが止まっていた。何だろうと思いながらお店に入ると、玲子さんが忙しそうだった。
 小犬が売れたようだ。
 よく吠えていたミニチュアロングダックスだ。レジの脇で、キャリーバッグから頭を出していた。雰囲気が違うことに気づいたのか、大人しくしていた。
(このコとも、お別れなんだ)
 吠えていたのは、このコだけではない。それでも、お店が急に寂しくなるような気がした。玲子さんは、もっと寂しいに違いない。
「支払いは、小切手でいいかしら」
 いかにも、セレブそうなお客さんだった。
「はい、どうぞ」
 玲子さんが、私に気づいて手招きした。
 この前、レジの打ち方を教わったばかりだ。実際にやってみろという意味なのだろう。小切手は、現金と同じだと聞いていた。
「領収証は、どうしますか」
 玲子さんが、お客さんに訊いた。
「宛名は、会社名でお願いするわ」と、名詞を出された。領収証の綴りを取り出すと、玲子さんは、レジの引き出しを指さした。
「印紙を一枚取ってくれる」
「い、印紙……あ、はい。印紙ですね」
 三万円以上の領収証には、二百円の印紙を貼るのだった。この前、教えてもらっていたのに、ピンとこなかった。
 あのコは、十二万円で売られていった。その値段が高いのか、安いのか。私には、判断が付かなかった。
 レジの打ち込みが済み、お客さんを見送れば一段落だ。
「ちゃんとできたじゃない。もう店番、大丈夫ね」
 玲子さんが、褒めてくれた。
「はい」と、つい返事してしまった。まだまだ、わからないことはたくさんあるのに。
「頼もしいわ」と、玲子さんが笑っていた。
 ちょっとだけ、大人になった気がした。照れ臭くって、視線を逸らした。
 レジの引き出しには、二百円の印紙の他に四百円、六百円、千円と、三枚の印紙が入っていたのを思い出した。
「こっちの印紙はなんですか」
 大人ぶって、聞いてみた。
「二百円の印紙で良いのは百万円までなの。金額が高くなると、貼る印紙の金額も上がるのよ。二百万円までは四百円、三百万円までは六百円って具合に」
 そういうものなのかと納得した。でも、
「そんなに高い犬がいるんですか」
 私は、店内を見回した。プライスカードに七桁の数字を見た覚えはなかった。
「いるわよ。もうすぐ売れるかもね」
 玲子さんが、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
 それからもうしばらく、お仕事の話をして過ごした。夏休みになったら、本格的にアルバイトしようかと思い始めていた。
「そうだ。美雪ちゃんの檻だけど……」
 そろそろ帰ろうかという頃になって、玲子さんが言い出した。
「やっぱり邪魔なんで、片付けることになりそうなの。来週には引き取ってもらって小型犬用のケージを置くことになると思うわ」
「ええっ!」
 私は、その後の言葉を続けることができなかった。
「表にトラックが止めてあったでしょう。後ろにリフトが付いていて、これくらいの檻なら犬を入れたままでも持ち上げられるの。明日にでも処分……」
 言い終わらない内に、お店の電話が鳴り出した。玲子さんは、右手の掌を見せながら、受話器を取った。
 私は、それどころではなかった。
 あの檻が無くなってしまう。理由もわからずに、毎日通い続けたシベリアンハスキーの檻だ。ようやく正体に気づいた頃になって、その檻がなくなってしまうなんて。
「処分するくらいなら私にください」と、喉まで出かかった。
 もらえたところで、家に持って帰るわけにもいかない。あんなに大きな物を隠しておく場所なんてない。両親にも説明できない。
 どうしよう。そこから先の考えが、全然、浮かばなかった。
「美雪ちゃん、美雪ちゃんってば」
「は、はい」
 何度か、繰り返し呼ばれていたようだ。
「急用ができたの。今日はこれでお店を閉めるから、戸締りを、お願いできるかしら」
 もう、それくらいなら大丈夫だ。
「いいですけど……」
「ごめんね。ちょっと急ぐのよ。シャッターを下ろせば、このコたちがどんなに騒いでも、外には聞こえないから。最後に、あのドアから出てね。私は大丈夫だから」
 玲子さんは、私にドアの鍵を渡した。
「それじゃ、お願いね」
 玲子さんは、バッグを一つ肩から提げて、お店を出て行った。さっきの電話で、何かの知らせがあったらしい。
 私は、お店に一人で残された。
 外はまだ明るかったけど、お客さんはいない。玲子さんに言われた通り、戸締りをして帰ることにした。
 正面のガラス戸には内側から鍵を掛け、シャッターを下ろした。玲子さんの言っていたドアから外に出て、渡された鍵で施錠した。
 帰り道、ずっと考えていた。
 今なら、お店には誰もいない。今なら、檻に入ることができる。

        8

 家に着いてからも、ずっとお店のことが気になっていた。
 いつものように、ハダカにはならず、Tシャツとミニスカートを着ていた。首輪と檻の鍵を持って、お店に戻りたいと思っていた。
 迷っている内に、中学生が、外を出歩く時間ではなくなっていた。
 今夜を逃したら、今度は、いつチャンスがあるかわからない。もう二度とないかもしれないのだ。
 ――檻の中に入ってみる?
 玲子さんの声が聞こえた。私は、ポーチに首輪と鍵と携帯電話を詰め込んで、部屋を飛び出した。素足にサンダルをひっかけて玄関を出た。
 背中で、お母さんが何か言っていた。帰って来たらなんて言い訳しよう。そんな思いも、鉄格子の魅力には勝てなかった。
 夜の住宅街をひた走る。こんな時間に出歩くなんて、家族と出かけて帰りが遅くなった時くらいだ。
 夜の闇は怖くなった。
 感じる余裕がなかったのかもしれない。自分が、これからしようとしていることのほうが、何倍も怖かったから。
 お店に着いた。鍵を開けてドアノブを回す。何だか、泥棒みたいだ。
 ドアを開けた途端、小犬たちが騒ぎ出した。すばやく中に入ってドアを閉める。こんな時間に、泣き声が漏れるのはマズいと思った。
「みんな、静かにしていてね」
 内側から鍵を掛けた。これでもう誰も入って来ない。お店の中は暗かったけど、照明のスイッチを入れるわけにはいかない。
 緑色の非常灯が唯一の明かりだった。
 ここから先は闇の中での作業だ。ホッと息を吐くと、私は、檻の前まで進んだ。赤い鉄格子には『美雪 牝 十四歳』と書かれた名札が付いていた。
 何時間か前に、お店を出た時のままだ。
 南京錠を外して、檻の扉を開けてみた。鉄格子の扉は、思ったより重かった。入り口から中を覗きこむ。私が入るには、十分だった。
(美雪、本当に、この中に入るの)
(そうよ。誰もいないし、ドアには鍵が掛かっているわ)
(でも……)
(大丈夫。少しだけだから)
 家を出てからここに来るまで、何度となく繰り返してきた問答だった。
 私は、檻の脇に立って、店内を見渡した。シャッターも閉っているし、他に素通しのガラス戸はない。外から覗かれる心配がないことを確認すると、ポーチから首輪と南京錠の鍵を取り出した。
 暗さにも目が慣れてきた。
 自分を辱める道具を持って、レジカウンターの奥まで進む。
 今から、ここで、ハダカになるのだ。
 いくら誰もいないからと言って、お店の真ん中で、服を脱ぐのは躊躇われた。レジカウンターの陰にしゃがんで、ゆっくりとティシャツを脱いた。
 事務机の上に、ティシャツを畳んで置くと、次はスカートだ。心臓の鼓動が喉を駆け上がってくるようだ。
 下着姿になった。
 急に不安が募る。こんなことは、もう止めにしなければ。今ならまだ間に合う、そう思って立ち上がると、カウンターの上の首輪に目が留まった。
(こんなチャンス、もう無いかもしれないのよ)
 もう一度、思い直し、ブラのホックを外した。一気にショーツも脱いだ。今度、躊躇したら、二度と脱げなくなってしまいそうな気がした。
 ブラとショーツを綺麗に畳んでスカートとティシャツの間に隠す。カウンターの影に膝を抱えて蹲った。
 私は、ハダカ。何も身につけていない。お風呂でも、自分の部屋でもないのに。
 喉が渇いた。呼吸も浅くなっていた。こんなに緊張したのは、いつ以来だろうか。胸の奥で暴れる何かを抑えられない。
 お店の中が、暗くて良かったと思う。喉の奥に溜まった重い空気を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
 見慣れたペットショップの店内だ。
 誰もいない。
 ケージの中のシーズと目が合った。真ん丸な目が、肌に痛かった。このコが、私のハダカなんて意識しているわけないのに。
「待っててね。もうすぐ、あんたと同じになるから」
 カウンターの上の首輪を手に取った。
 部屋では、毎日のように付けている首輪なのに、なかなかうまくできない。いつもの三倍くらい時間を掛けて、やっと金具を止めることができた。
 後は檻に入るだけだ。
 南京錠の鍵を手に、レジカウンターの影から店内に出た。昼間は、制服を着て、立っていた場所だ。お客さんも、普通に歩いていた。
 お店の中だと言うのに、野外を歩いているような感じだった。
(今から、この檻に閉じ込められるのね)
 自ら望んだことなのに、いざとなると怖くてたまらない。
 施錠用の金具も、南京錠も、頑丈そうだ。
 右手を開いて南京錠の鍵を見つめた。南京錠は外れたままになっていたので、入る時に、鍵は必要ない。
 でも、これがないと檻から出られなくなってしまう。
 本当は、ポケットにでもしまっておきたいところなのだが、今の私は丸ハダカ。鍵をしまうところなんてない。
 落とさないように、しっかりと握っているしかなかった。

        9

 檻の扉を開けた。サンダルを履いていることに気づき、素足になってから、檻の中に身体を入れていく。板敷きは綺麗に掃いてあったけど、ペット特有の臭いは、消えていなかった。
 身体が全部、檻の中に納まった。四つん這いなら、天井に背中が当たることもない。足は伸ばせなくとも、背中を丸めなければならないほど、狭くもなかった。檻の中で、向きを変えるくらいの余裕は、十分にあった。
 私には、まだやることが残っていた。
 身体を反転させて、檻の扉を閉めた。金属音にドキッとした。
 鉄格子の隙間から手を伸ばして、南京錠をはずした。閂をスライドさせて扉を開け閉めできなくする。留め金を南京錠で固定すれば、もう扉は開かない。
 もう一度、南京錠の鍵が手元にあることを確認してから、留め金に南京錠を通した。
 後は、手に力を入れるだけだ。
 思ったより堅かったけど、うまく施錠できないのは、迷いのせいだ。
(本当にいいの?)
 これが最後の自問自答。
 施錠してしまえば、ここに来た目的は達成できる。それがわかっているのに、指先が動かない。
 でも、ここまで来て止めたら一生後悔するだろう。深呼吸を繰り返し、息を止めた瞬間、両手の指先に力を込めた。
 カチンと、冷たい金属音が響く。心臓に刺さるようだった。
 もうこの扉は開かない。私は檻に閉じ込められてしまったのだ。それも、衣服を一切着けず、首輪のみをした犬の姿で。
 鉄格子というものは、こんなにも人を不安にさせるのか。
 この狭い空間から出られないという状況が、私を苦しめる。あのシベリアンハスキーもこんな気持ちだったのか。あのコにとっては、ここが全生活空間だった。
 檻の中で起き、檻の中で眠る。
 それが、すべてだったはずだ。大きな身体を、この板敷きの上に横たえていた姿が思い出された。そう言えば、あまり起きていたところを、見た覚えがない。
 横になってみた。
(あのコは、こんな風に寝ていたっけ)
 少しだけ、落ち着いてきた。
 素肌が直接床に触れる感覚は、自分の部屋でも経験済みだったけど、ここには絨毯もなければ、コーティングもしていない。ザラザラとした感触が、わき腹を刺激した。顔を近づければ、獣の臭いが強くなり、少しでも足を伸ばそうとすれば、鉄格子に阻まれた。
 何もしていなくても汗ばむ季節だ。ハダカでいても、寒くはない。それでも、いつもとは全く違う感覚の一つ一つが、私に、檻の中を意識させた。
(私は牝犬。明日になったら、どこの誰ともわからない人に売られていくの。一生、犬として飼われるの)
 そんな妄想を、浮かべていた。
 檻の外からだと、私は、どのように見えているのだろう。ふと、そんな風に感じた。
 鉄格子に顔を寄せてみた。
 右も左も、通路の向こう側も、ペットのケージばかりだ。ここには犬や猫しかいない。私も、今やその一人、いや、一匹だ。このままペットになり切れたらいいのにと、不思議な気持ちになった。
 床のサンダルが目に入った。
 檻に入る前に脱いだものだ。私が人間だった証拠のように思えた。一度気になると、どうにもならなかった。着てきた服は、わざと見えない場所に置いてきたのに、サンダルだけが、そこに残っていた。
(これじゃ犬になれない)
 せっかくの気分を壊したくなかった。
 時間は、まだ、たっぷりある。迷いはしたけど、檻から出て、サンダルを片付けることにした。サンダルを咥えて、四つ足で店内を這うのも良いかと、自分の姿を思い浮かべた。
 南京錠を施錠した時と同じように、鉄格子の間から手を伸ばして鍵を差し込んだ。
 すんなりと鍵穴に収まった。ちょっと残念だけど、また、すぐに戻れるのだと、鍵を回した。
 うまく回らない。
 と言うより、全く動かない。逆に回しても同じことだ。
 一度鍵穴から抜いて挿し直した。でも、やはり結果は同じだ。首筋に汗が流れた。どんなに力を込めても、南京錠の鍵はビクともしない。この状況は、

 鍵が違う……

 それは、認めたくない事実だった。
 耳を峙てた。人の動く気配はない。
(どこまで降りられるかしら)
 階段に身を乗り出し、一つだけ下の段に手を伸ばした。
 一階の廊下で陰が揺れた。  
 息が止まりそうだった。二本足で立ち上がり、慌てて部屋に駆け戻る。ドアが大きな音を立てた。
 ベッドの下に蹲った。喉の奥に溜まった空気を吐き出す。口の中が乾いていた。胸が大きく上下した。鼓動が耳に届いた。
 今、ドアをノックされたら、心臓が止まってしまうかもしれない。
 気持ちが落ち着くのに、どれくらいかかっただろう。
 私のお散歩は、階段の上までが限界らしい。部屋の外に出るだけで、こんなにも興奮するなんて。
(このまま、お外に出ることができたら、気持ちがいいのかなあ)
 そんな想いが、頭に浮かんだ。
 誰かにリードを曳いてもらって道路に出る。河原まで連れて行ってもらい、そこで投げたボールを拾いに行ったり、他の小犬とじゃれあったり……そんなことをしている自分を思い浮かべた。
 ハダカで外に出るなんて、そんな恥ずかしいこと、絶対にできるわけがないのに。


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