お白洲に晒す柔肌
作:ベンジー
お白州には、その名の通り白い小石が敷き詰められていた。お雪の脛にごろごろとした感触が伝わってくる。薄い筵一枚では小石の痛みを和らげる役目も十分とは言えなかった。
お雪は家に残してきたお糸のことが気になっていた。お糸は一つ違いの妹で、幼い頃から体が弱かった。体の調子が良い時でさえ、お雪が外で遊んでいる姿を障子の陰から見ているのが精々だった。今朝方も原因不明の発作を起こしたばかりである。早くに母を亡くした姉妹にとって、父親が働きに出ている日中にお糸の世話ができるのは十八歳になったばかりのお雪だけだった。
両手を付き、頭を低く下げて奉行のご出座を待つよう下級役人の指示があった。その中には岡引の源蔵もいた。背丈が低く、いつも背を丸くしているので余計に小さく見える。窪んだ目が向けられる度に、お雪は背筋を凍らせてきた。にやにやと笑みを浮かべるだけで何も言ってこないことが却って不気味に思えてならなかった。
「これよりお雪かどわかしの一件について吟味を致す。一同の者、表を上げい」
裃に固めた奉行の声で白州に伏した者達が頭を上げる。
二間ほど離れた場所に新一郎が座っていた。その後ろには同年代の若者が数人いた。いずれも顔だけは見知っていた。新一郎はお雪の住む長屋の大家であり三つ程年長である。町の豪商の若旦那で、金に糸目をつけぬ方法で多くの女をはべらせる生活をしてきた。その新一郎の訴えでお雪はこの場に連れて来られることとなった。
「お雪に問う。訴えによれば、その方は昼日中から庭先にて行水に営み、その姿態にて町の男衆を誘惑しそれぞれの仕事から遠ざけたとあるが、これに相違ないか」
奉行は真顔で問いかけてくる。
お雪はここに来るまで半信半疑だった。お糸をやっと寝かしつけて落ち着いたところへ源蔵が踏み込んできた。いつものように低い姿勢から見上げる視線にお雪は尻込みをした。罪状を聞かされてもお雪には全く身に覚えがない。それどころか、何でそのようなことで奉行所に呼ばれなければならないのかわからなかった。唐丸籠に乗せられたお雪にもう少し冷静さがあれば、事の異常さに気づいたかもしれない。お調べはまず番屋で行われるものだ。なぜいきなりお奉行所なのだろうと。
お雪は口篭もった。奉行に「相違ないか」と尋ねられたのはわかる。身に覚えのないことと否定しなけばと思うのだが、あまりに急な状況に声が出なかった。誰かに頼ろうにも知った顔は源蔵と新一郎だけである。
「話してみよ。奉行とて鬼ではない。その方の言い分も聞こうぞ」
お雪は初めて奉行と目を合わせた。源蔵の不気味なにやけ顔とは全く別のものに見えた。
「お、恐れながら申し上げます。わたしには全く身に覚えのないことでございます。どうかお許しくださいませ」
お雪は一息で言った。言い終わったのに息がいつまでも整わない。額を筵にこすりつけるほどに下げ、目は閉じていた。表情をつくらない奉行の顔だけがお雪の脳裏にあった。
「しかしなあお雪、訴えによれば皆その方の裸身に目がくらみ仕事が手につかなくなったとあるぞ」
「それは何かの間違いでございます。わたしは行水などしておりませぬ」
お雪は顔を上げて奉行を真っ直ぐに見た。
お雪の住む長屋の裏は深い薮だった。体が弱く他の子供たちと遊ぶことのできないお糸のために、父親が薮を刈り込んでわずかばかりの庭を作っていた。行水しようとすればできないこともない。
「そうか。それでは新一郎に聞こう。その方が見たのはまことこのお雪に違いないか」
奉行の視線が新一郎に向くのに合わせて一同のそれも動いた。お雪もまた例外ではない。新一郎と目が合う。だがそれも一瞬のことだった。
「ま、間違いございません」
「新一郎さん、なんでそんな嘘を」
お雪は問い詰めた。新一郎にはわかっているはずだ。
「これこれ、勝手な発言は控えよ」
奉行に叱責され、お雪は慌てて正面を向き頭を下げた。お雪には新一郎の真意がわからなかった。確かにこれまでにも言い寄られたことはある。連れ立った若者達と無理やり連れ去られそうになったこともあった。おなじ長屋の人達のおかげで大事にはいたらなかったが、新一郎はそれからもお雪の近辺をうろうろすることが多かった。
「余のものにも問う。その方らが心を奪われたのは、間違いなくこのお雪の裸身だと申すのだな」
奉行は新一郎の後ろに控えている若者たちに尋ねた。
「間違いございません」
「新一郎さんのおっしゃる通りでして……」
「はい、私も見ました」
若者たちは口を揃えた。
「そうであるか」
奉行は若者たちから目を離すと、わずかに空を見上げ目を閉じた。短い時間だったが、お雪の胸に冷たいものが流れ込んだ。
「お雪よ」
奉行の声がお雪に戻ってきた。お雪は膝の前に置いた両手に額を押し付けた。
「奉行にはこの者たちが嘘を言っているようには思えぬ。これだけの証人がいても尚その方は身に覚えが無いと申すか」
「は、はい。本当に覚えがないのでございます。どうかお許しくださいませ」
お雪は、自分にとって不利な証言をする新一郎とその取り巻きたちに怒りを向ける気も起こらなかった。余裕が無かったと言うのが正しいところだろう。
「すると、誰か別のものがその方の庭先で行水をしたと申すのだな」
「それは……」
「新一郎、その方はお雪の顔を確認したのであろうな」
奉行の矛先が再び新一郎に向けられた。
「えっ、は、はい。私は……」
「はっきりと物を申せ。裁きはその方の証言ひとつであるぞ」
お雪は身を中ほどまで起こし、新一郎を見た。新一郎は頭を低く下げたまま、何か言おうと口を動かしたが言葉にはならなかった。首筋が汗で光っているのが見えた。
「どうした、新一郎。もし間違いであったのならそのように申せ。今ならば咎めはせぬ」
「お、恐れ入りました」
新一郎が頭をさらに低くした。
「正直に申し上げます。言われてみれば、私は裸身にのみ目がくらみ、顔を見ておりませんでした」
「余のものもそうか」
「お奉行様のおっしゃる通りでございます」
新一郎たちは、表から行ったのでは長屋の人たちの邪魔が入るので、裏の薮から直接お雪の部屋に近づこうした。その時若い女が行水している姿を見つけ、見入ってしまったのだと事の詳細を述べた。その女がお雪だと決め付け度々覗きに行ったが、気づかれるのを恐れて遠くからしか見ていないと言う。
「それではお雪だと断定できないではないか」
奉行の言葉に新一郎たちは平伏した。
お雪は行水をしたことがない。狭い長屋には、湯を使いたくてもタライを出す場所もなく、沸かし湯に布を浸けて体を拭くのが精いっぱいだった。
(お糸、待っててね。もう少しで帰れそうよ)
お雪が胸の息を少しだけ吐き出したその時だった。
「お雪には、確か妹がいたな」
奉行は源蔵の方を向いていた。
「は、はい。ひとつ違いで、お糸と申します」
「ひとつ違いか。それでは新一郎たちが見間違えたとしても無理はあるまい」
お雪は顔を起こした。
「お奉行様、お糸は、お糸は病弱でとても行水などは……」
自分の嫌疑が晴れたかと安心した矢先、今度はその矛先が妹のお糸に向けられようとは思いも寄らなかった。奉行の言葉を待つこともなく、お雪は体を捻って新一郎を見た。新一郎もすぐに気づいたが、首を横に振るだけだった。
「新一郎、どうじゃ。その方らが見たのはお糸ではないのか」
奉行の言葉はお雪の頭上を通り過ぎた。
「いえ、そんな……しかし……」
新一郎もお糸の病状は知っている。庭先で行水など考えられないことはわかっている筈だ。なんで一言で否定しないのかと、お雪は新一郎を見つめた。
「どうなのじゃ」
奉行はさらに問い詰めたが、新一郎は頭を低くするばかりである。
「お雪をよく見よ。その方が見た行水の主がこのお雪か、そうではないかだけのことではないか」
「そ、そうはおっしゃられても……」
「なんじゃ、はっきりと申せ」
奉行は肩膝を立て、今にも白州に降りて来るかに見えた。
「は、はい。申し上げにくいのですが、私が見たのは、そ、その、はだかでして、お雪は、いえ、私が見た者は、な、何も身につけていませんでしたから……」
「それでは着物があったのでは判別できないと言うのだな」
新一郎はそのまま頭を下げてしまった。
お雪は胸の痞えが戻ってくるのを感じつつ体を戻した。奉行は肩膝を元に戻し、袴の裾を正していた。その視線がまっすぐにお雪を捉えていた。
「吟味のためである」
今までない静かな物言いに、お雪の右手が胸元に動いた。
「この場で着物を脱いで見せよ」
信じられない一言だった。お雪は目を見開いて奉行の口元を見つめた。この場で着物を脱ぐ。行水していた女がお雪自身であるかどうか確かめるためにはだかになれというのだ。新一郎やその取り巻きたち、源蔵や奉行所の役人たち、その大勢の男たちに囲まれた場所で肌を晒せと。
「婦女子にとって辛い仕打ちであることは心得ておる」
奉行の声には優しい響きがあった。お雪は襟元を強く握り締めたまま無言で首を振るばかりだった。
「これもお役目。わかってくれ。真実が明らかにならねば、いつになっても家に戻れぬぞ」
お雪の脳裏に家に残してきたお糸の姿が浮かんだ。
(そうよ。わたしが早く帰らなければお糸が……)
乙女にとって辛い選択だった。お雪がこの場で肌を晒せば、新一郎たちが見た女が自分でないことは証明できる。そうすれば家に帰ることができる。お糸の側に戻れる。これは吟味なんだ、恥ずかしいなんて言ってはいられないのだと、自分に強く言い聞かせるお雪だったが、現実に帯を解く指先に意思を伝達すことができなかった。
「お役目により、この者たちに命ずることもできるのだぞ」
奉行は手にしていた扇子の先で役人たちを指し示した。お雪が自分で脱がないのなら、力づくで脱がせることになるというのだ。
「あるいは、お糸にこの場に来て貰うか……」
お雪の襟元の手が離れた。腰を浮かし、両手を奉行に向かって乗り出す。
「お糸をここに呼ぶなんてあんまりです。お糸は体が弱いんです。だから」
「これこれ、吟味の途中であるぞ」
お雪は浮かした腰を元に戻し、頭を低くした。お糸を呼べば、自分に代わってこの場ではだかにされるのだろう。そんなかわいそうなことはできない。それだけでは何としても食い止めなければと、お雪は混乱する頭の中で考えた。そして、そのためには自分が今この場で肌を晒す羞恥に耐えるしかないのだと結論づけた。
「わたしが脱ぎます」
お雪は筵の上に立ち上がった。足にわずかの痺れを感じながら帯に手をやる。後は一連の動作だった。新一郎たちに背を向けてはいるものの奉行からは真正面である。奉行の言葉に感じた優しい響きを確認したいとは思ったが、目を合わせることはこれから脱衣する少女には恥ずかし過ぎた。帯が足元に落ち、前を押さえて肩袖を抜き、そしてまたもう一方の袖に手をかけた。途中で躊躇してしまったら余計につらい思いをするだけだ。動作はゆっくりだったが、決してその流れを止めようとはしなかった。
お雪の白い肩が現れ、そのまま一枚の布が白洲に落ちた。
身につけているものはわずかに腰巻一枚という心細さだった。お雪は両方の肩を抱き、少女の熟しきっていない乳房を覆った。その場にいる者たちすべての視線が自分に注がれている。雪のように真っ白な肌が、好奇のまなざしに焼かれている。いくら忘れようとしても、その事実から逃れることはできなかった。
「これでよろしいでしょうか」
誰も口を開かなかった。それは一瞬の間だったのだろう。お雪には何日、何十日にも感じるほどの長さだった。お雪には後ろを振り向く余裕はない。奉行の言葉だけを待っていた。だが、奉行の口から出たものは、期待してこのとは遠くかけ離れていた。
「お雪よ。その方は腰のものをして行水するのか」
奉行はまじめな顔で言った。言っていることに間違いはないが、今やっと思いで着物を脱ぎ去ったばかりの少女にはあまりに過酷な言葉だった。
「どうか、腰のものだけはお許しください」
「いやならぬ。現場を忠実に再現することが奉行所の勤めである。腰のものも取るが良いぞ」
こんなに大勢の目の前で腰のものまで脱がされることの恥ずかしさは予想していたものの比ではなかった。腰巻の結び目を解くには胸の覆いをほどかなければならない。いくら覚悟を決めての脱衣とは言え、一度止まってしまった手を再び動かすことはできなかった。
「こんなに大勢の人たちの前で……」
お雪の言葉を奉行が遮る。
「後一息ではないか。これまでの辛抱を無駄にするものではない」
奉行の言葉はあくまでも優しかったが、逆らいがたい圧力を感じさせた。お雪はもう一度全身の勇気を振り絞らなければならなかった。
「お雪は丸裸にならなければならないのですね」
お雪は両肩をすぼめ、脇をくっつけて二の腕で乳房を少しでも覆うように、背中も丸くした。誰に見られずに腰巻をはずすなんてことはできるわけがない。しかも、これをとってしまえば臀部を隠す術はなくなってしまう。腰巻の紐をほどこうとする意思に指が逆らう。子供の着替えを見るようなもどかしさであったが、誰一人文句を言わない。じっと指先の動きを見守っている。それがわかっているからこそ、お雪は辛かった。
腰巻の結び目が力を無くしていく。膝頭が大きく揺れ、腰の周りの肌触りが緩くなっていく。そしてついに腰巻はその本来の機能を果たさなくなった。お雪がはっと伸ばす指先より速く、一枚の布着れがお白洲に落ちた。
陽の光の下、一糸まとわぬ姿を晒すお雪。
人の息遣いが聞こえた。新一郎がいる。取り巻きの若者達がいる。岡引の源蔵も見ているに違いない。正面の奉行はもちろん、大勢のお役人もきっと自分の肌に視線を集めているんだ。気を失しそうな羞恥にお雪の全身を硬くした。いやむしろ気を失ってしまいたいとさえ思った。この恥ずかしさから逃れられるのであれば、その方法はどのようなものでも良かった。だが、そんな現実逃避が叶えられる筈もなく現実に引き戻されていく。
「うむ、では新一郎よ。とくと見るが良い。その方たちが目にした女子はこのお雪であったかどうか」
情け容赦の無い奉行の言葉だった。普段であれば婦女子のはだかでいる時は目を伏せよというべきところであろう。だが、この時ばかりは見ることを命じられる。お雪の裸身を堂々を見聞し体の隅々まで堂々と観察することができるのである。
「どうした、新一郎。何も申さぬのではわからないではないか」
「それが、その……」
「どうしたというのだ」
奉行が再び方膝を立てた。
「はい、お雪もあまりの美しさに言葉を無くしてしまいました」
新一郎は一息で言い切った。これを嘘だと思った者はひとりもいなかったに違いない。
「うーん」
奉行は扇子の先を額に当てうなった。お雪は自分の身の恥ずかしさのあまり、何も考えることができずにいた。まして、奉行が何を考えているのか、次にどんな言葉を発するのかなど、思うゆとりなどなかった。
「それではやはり、行水の女子はお雪では無かったということか」
(お奉行様がわたしを無罪と認めたの……)
お雪にとって喜ぶべき言葉であった筈である。だが、そのどこかに不安が隠れているような気がしてならない。どうして自分はこの場ではだかにならなければならなかったのか。
「お雪よ。さぞ恥ずかしかったであろう。着物を着るが良いぞ」
不安が消えたわけでは無かった。が、とりあえず肌を晒す羞恥からは解放されるのはありがたかった。お雪は太ももをしっかりと合わせたまま膝を折り、脱いだばかりの着物に手が触れた、その時である。
「やはりお糸に来て貰うしかないか」
お雪は拾い上げた着物を胸元に当て奉行を睨んだ。
「どうしてお糸が」
「今の新一郎の態度を見たであろう。以前にその方の裸身を見ていたのなら、これ程までに取り乱したりはしないではないかな」
「それは……でもどうして」
「新一郎たちが見た者はその方ではないということだ。ならば妹のお糸であろうと疑うのは当然であろう」
お雪は着物に指が食い込ませて叫んだ。
「お糸は病気なんです。行水なんて出来なんです。どうしてわかってくれないのですか」
そして大事なことを思い出した。自分がこの場ではだかになったのは自分の無実を証明するためではない。妹のお糸につらい思いをさせないためだったのだと。
「お雪でもない、お糸でもないでは吟味が進まないのだ。お糸にはかわいそうだが、こらえてくれ」
お糸がお白洲に連れてこられてはだかにされる。自分だってこんなつらい思いをしたのに。お糸は病気で友達とも遊べず、ずっと薄暗い家の中で暮らしていたのに。今までずっと良いことなんて無かったのに。
お雪はお白洲の筵に正座し、両手を膝の前に付いた。
「お奉行様、わたしは嘘をついていました」
「これ、何を申すか」
「いえ、新一郎さんの言う通りでございます。わたしが行水なんてことをしたばかりに新一郎さんたちの心を惑わしてしまいました。けっしてそのつもりでやったわけではありませんが、庭先で行水していたのは間違いなくわたしでございます」
お雪は頭を低くした。自分がはだかであることも忘れていた。全裸で土下座をすれば、その分お尻が高くなる。何も身に着けていない臀部は、後ろにいる新一郎たちに少女の部分を見せ付けているということに気づく由も無かった。
「その方の妹想いはわかるが」
「いえ、わたしでございます。お糸は関係ありません。どうかわたしにお裁きを与えてくざいませ」
お雪は突然立ち上がったかと思うと、手元に絡み付いていた着物を遠くに投げた。そして両手を大きく広げて新一郎の前に立った。
「新一郎さん、わたしよね。わたしのはだか、奇麗だと言ってくれたわよね。あなたが見たのはわたしだと言って。お願い」
全裸のお雪に迫られ、新一郎は何も言えなかった。
「みんなも見て。はだか。わたしのはだか。わたしがこの体で新一郎さんを誘惑したんです」
お雪は大きく広げた手を、全身を右に左にと見せて回り、その場いる面々に訴えた。だが、誰一人返答するものはいない。お雪はお白洲に崩れ落ち、両手に顔をうずめて大きな泣き声を上げた。その声は奉行所の外まで届いていたに違いない。
「どうしたものかな」
奉行はお白洲を見回した。役人たちは一様に目をそらす。奉行は源蔵のところでその動きを止めた。
「その方はどう思う。日ごろより近くで見ていたであろう」
源蔵がいつものように背中を丸めて前に出た。窪んだ目をお雪に向ける。お雪は近くに着物が無いことに気づいた。
「へい……」
(源蔵でも良い。お糸を助けて)
「あっしはお雪だと思いやす」
小さな声だったが、はっきりした口調だった。そうしている間も視線をお雪から離さない。お雪は胸元に合わせた両手に力がこもった。
奉行は暫し考え込む様子を見せた後、もう一度源蔵に目をやる。
「お奉行様のそのほうがよろしいのでは……」
(えっ、それってどういう意味?)
「うむ、よしわかった」
奉行は扇子の先で源蔵に元の位置に戻るように示すと、ご出座の際と同様に膝を正した。
「お雪も元の場所に戻れ」
お白洲の周りを囲んでいた役人の内ふたりが出て来て両側からお雪の二の腕を取った。お雪は左右に首を振る。着物は奉行が座る壇の下にあった。お雪は全裸のまま元の筵に座るしかなかった。
「お雪の罪。で、良いのだな」
奉行が小声で言う。お雪はうなづくのにためらいを感じたが、ここまできてはうなづくしかなかった。
「それでは裁きを申し渡す。お雪は誘惑及び証拠隠匿の罪により入牢。余の者はお咎めなしとする」
お雪は体が強張るのを感じた。自ら望んだお裁きには違いない。これでお糸をつらい目に合わせずに済む。自分がもう少しだけ我慢すれば良いのだから。そうやって自分を言い聞かせた。役人たちが立ち上がり、新一郎たちがお白洲から出ようとしているのに、お雪は筵の上を動かなかった。両手を胸に当て、背中を丸くしたままじっと一点を見つめていた。
「お雪を引き立てよ」
奉行が命に従い、役人が縄も手にお雪の背後に立った。
(縛られる)
自分はたった今罪人になったのだから、それも仕方が無いのだと思った。お雪は立ち上がり、壇の下の着物を取りに行こうとした。が、お雪の着物は別の役人の手に渡っていた。
「着物をお返しください」
着物を持った役人がお雪に歩み寄ろうとしてが、奉行がそれを止めた。
「ならぬ。その方はそのまま縛に付くのだ」
信じられない奉行の言葉に、みるみる血の気が引くお雪だった。
「わたし、はだかなんです。このままなんて……」
「先ほど裁きを申し渡したであろう。その方の罪は誘惑及び証拠隠匿の罪であると。今回の場合、唯一の証拠はその方の裸身であった。その証拠を奉行所が隠匿する訳にはいかないのでな」
「そんな、あんまりです。お慈悲を、お慈悲をお願いします」
こんなことがあるのだろうか。女をはだかのまま縛り上げるなんて奉行所のやることなのだろうかとお雪は首を大きく振った。そうしている間にも、役人が二人がかりでお雪の両手を背中にねじ上げようとする。
「はだかのまま縛られるのはつらいだろうが我慢するのだ」
役人の力は強く、少女の力では大した抵抗もできないまま縄が身にまとわりついてくる。背中の真ん中で手首が固定され、余った縄が二の腕から胸の隆起に向かって回された。まだ男を知らない白い肌は縄の後をまともに残してしまうだろう。見るからに痛々しげであったが、奉行はその様子に見入っていた。
「これでは恥ずかしすぎます。女の気持ち、わかってください」
とうとう身動きできなくなってしまったお雪を、ふたりの役人が両側から立ち上がらせた。
「奉行にも法は曲げられぬのだ。だがこれくらいで恥ずかしがっていてはこの先が持たぬぞ」
「この先って、まだ何か……」
今日は朝から思いもよらぬことばかりが起きる。得体の知れない恐怖に包まれるのも何度だろうか。だが、お雪は自分の不安の正体に気づき始めていた。
「その方はこれからそのままの姿で唐丸籠に乗せられ街中を牢屋敷まで引き立てられるのだ。長屋の者も心配して奉行所の外に集まっていることだろう。その方の姿を見れば直に町の衆にも知れ、牢屋敷までの道すがらは黒山のひとだかりとなるであろう。ここにいるのとでは恥ずかしさの度合いも違う。気を確かに持つのだぞ」
「唐丸籠だなんて、どうかそれだけはお許しくださいませ。この上わたしに恥を晒せと言うですか」
「これも御定法というものだ。情けはかけられぬ」
奉行は頑として聞かなかった。町中の人に全裸で縄がけされた恥ずかしい姿を晒すことになるのか。唐丸籠の中というのがせめてもの救いと思うしかないのか。お雪の意識が絶望に満たされようとしているその時だった。源蔵がお白洲に駆け込んできた。
「お奉行様、申し訳ございません。唐丸籠は修理中でして、牢屋敷までの護送は馬でお願い致します」
(おわり)
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