第３話　再現

　老婆は、快く引き受けてくれた。今夜は老婆の家に泊めて貰い、桜子は、この家に嫁いだ犬嫁として扱われる。
　昼食をご馳走になり、帰りの船や飛行機の手配を済ませると三時を過ぎていた。
「犬嫁は、外で飼うものじゃからの」
　檻は、玄関と納屋の間に設置された。洋太の記憶通りだ。かなりの重量だったが、キャスターが付いていたので、男手があれば何とかなった。
　犬小屋は、縁側の脇に置かれた。コンクリートの叩きができていたので、ぐらつくこともない。三角の屋根に、上部が半円形の入り口。木製でも、しっかりとした造りだった。叩きの脇には、小さな砂場が作られていた。
　玄関に向かって、右側に檻、左側に犬小屋の配置となった。
「次は、祝言じゃの」
　嫁入りすればこその「犬嫁」だと、老婆は客間に二人を案内した。床の間の前に座布団とお膳を並べられ、盃が置かれた。三三九度のまねごとらしい。
「これでお前は家の嫁じゃ。犬嫁の勤め、しかと果たして見せよ」
　桜子の前に座った老婆が、真顔で告げた。
「はい。よろしくお願い致します」
　桜子が、三つ指を付いた。相変わらずノリの良い奴だと、洋太は苦笑いを浮かべた。
「まあ、ええじゃろ。わしのことは、お母さんと呼んでや」
　何か違ったらしい。島の者なら、家を出る前に母親から作法を聞いて来るのだろうが、桜子は知る由もない。老婆の指示に従うしかなかった。
「犬嫁は、衣類を着せてはならない。そこに立って、着ている物を全部脱ぐのじゃ」
「はい、お母さん」
　返事はしたものの、桜子は膝をモジモジと擦り合わせるだけで、立とうとしない。覚悟はしていた積もりでも、いざとなって怖じ気付いたか。
「おい、どうした。どうせ俺とおばあさんしかいないんだ。ハダカになるくらい平気だって言ってたじゃないか。あれは強がりか」
　洋太は、ここぞとばかりに、からかってみた。桜子が恥じらいを見せるのは、初めてのセックスの時、以来かもしれない。
「わかってるわよ」
　桜子は、立ち上がった。こんなはずじゃなかったと顔に書いてあるようだ。
「わしの時は、親戚中の者が見とったで。女にとっちゃ、辛いしきたりじゃな」
　老婆の目に光る物が見えた。昔を思い出しているのだろう。桜子も同じように感じたのか、ワンピースの背中に手を回した。洋太の下腹部が暴れ出していた。
　一度脱ぎ始めたら、後は潔いものだった。下着まで一切を脱ぎ捨て、桜子は全裸になって座布団の上に立った。両手は、前を押さえたままだった。
「では、庭に出て貰おうかの」
　老婆の言葉に、桜子が身震いをした。日が傾き始めたとは言え、夏の日は長い。外はまだ明るかった。庭に出れば、道を通った村人に裸身を晒すことになる。桜子の口から「えっ」と言う声が漏れた。
「犬嫁は、家屋に入れてはならない。わかっとるの」
　老婆に見据えられ、桜子は「はい」と頷いた。本気かと思った洋太だが、桜子が玄関に向かって歩き出すと、半信半疑で着いていくしかなかった。
「そこからは四つん這いじゃ」
　桜子が土間に下りると、老婆が命じた。少しだけ躊躇をする様子を見せた桜子だが、ゆっくりと膝を付き、両手を土間に下ろした。
「犬嫁は、二足歩行をさせてはならない。決して立ってはならんぞ」
「はい、お母さん」
　老婆はサンダルを履いて土間に下りて行き「よしよし、ええ子じゃ」と、桜子の頭を撫でた。まるで、飼い犬にそうするような手つきだった。
「さて、洋太の出番じゃ」
　老婆に手招きされ、土間に下りる。老婆は、犬の首輪を手に取った。下駄箱の片隅には、リード用の鎖も用意してあった。
「付けてやるが良い。犬嫁の証じゃ」
　古い革製の首輪だった。洋太が見たお嫁さんが付けていた物なのだろう。プレートに『ベル』と刻んであった。
「嫁の名が美鈴じゃったからの。犬の時はベルと呼んでおった」
　洋太は、首輪を巻いてやりながら、桜子の耳元で囁いた。
「どこまでやる積もりなんだ」
　桜子は、きっぱりと言ってのけた。
「もちろん最後までやるわよ。私は洋太の犬嫁なんだから」
　自分から「犬嫁にして」と言った桜子だが、納屋の檻に閉じこめて貰う程度のことだろうと、洋太は思っていた。
「ええ心掛けじゃ。さあ、曳いておやりなされ」
　老婆から鎖を渡された。ホームセンターなどで見かけるような、ちゃちな品物ではない。洋太は、鎖のナスカンを首輪の金具に付けた。桜子が「うん」と頷く。犬嫁は家屋に入れてはならない。洋太が鎖を曳いて、外に出すのだ。
　洋太は、立ち上がる間も、桜子から目を離さない。ゆっくりと足を踏み出す。桜子は、四つん這いで着いて来た。
　引き戸の手前で手足が止まる。先に戸外へ踏み出した洋太も、無理に曳こうとはしない。「わかってるわ」と、桜子が見上げた。老婆も黙って見ていた。
　やがて四肢が歩を進め、オレンジ色の日差しが、桜子の身体を斜めに包み込む。
「外に……出ちゃった……」
　洋太の足元で、桜子が呟いた。
　真っ白な背中を見下ろす。膝を付いた四つん這いの桜子は、周囲が気になってならないようだ。どこから見られているか、わかったものではない。
　洋太は、異様な興奮を覚えた。ハダカの女を曳いて歩くのが、こんなにも気持ちがいいなんて、思った覚えはない。自分にそんな性癖が隠れていたのかと、驚かされた。
「ここに繋いでおくんじゃ」
　老婆は、縁側の柱を指さした。鎖の端にはＴ字型の金具が付いていた。洋太は、膝を折ると、柱に鎖を一巻きし、金具で留めた。鎖の長さは二メートル程度。犬小屋に入るには十分な長さだった。
　庭先に繋がれた飼い犬。それが今の桜子だ。
　洋太は「大丈夫か」と声を掛けた。「うん」と頷く桜子が、いつになくしおらしい。日常ではあり得ない状況に、頭の整理が追いつかないと言ったところか。頭を撫でてやると、ぎこちない笑みをこぼした。
「犬嫁のことは気にせんでええ。洋太は風呂に入ってしまえ」
　洋太は「ありがとうございます」と、下げた頭を桜子に向けた。
　犬嫁は、家の中に入れない。
　洋太は、老婆に手を引っ張られ、母屋に入った。もう日も暮れかかっていた。風呂に浸かっていても気になってならない。桜子は、どうしているのだろう。
　湯船に立ち上がり、自分の身体を見下ろす。この姿で外に出る勇気はない。洋太は、早々に風呂から上がった。
　老婆が用意してくれた浴衣に手を通す。桜子に悪い気がした。
　居間には、夕食の用意ができていた。焼き魚に野菜の煮付け、おしんこ、みそ汁に白いご飯が並んでいた。質素だが、おいしそうな臭いと湯気を立てていた。
「座りなされ」と、老婆に上座を奨められ、洋太は問うた。
「桜子は……？」
　老婆は、縁側に顔を向けた。網戸の向こうに桜子の白い肌が浮かんでいた。手足を折り畳み、犬が伏せをする格好で、一点を見ていた。
「犬嫁のエサは、食事の後でええ」
　島の風習では、そうなるのだろう。飼い犬が主と一緒に食事をすることはない。洋太は、掻き込むように食事を済ませた。
「エサ皿と水皿は、新しい物を用意したで」
　洋太は、桜子に残飯を食べさせるのかと心配したが、エサ皿には、洋太と同じ野菜の煮付けと白いご飯が盛られていた。
「少し冷ましてやらんとな。小骨のある魚もダメじゃ」
　老婆は、水皿に盛ったみそ汁を団扇で仰いでいたが、洋太には、意味がわからない。
　二つの皿を手に老婆が立ち上がる。「一緒に来るかえ」と洋太を見た。洋太は、黙って後を追った。
　玄関を出ると、庭はすっかり暗くなっていた。南国の風は、決して寒くはない。風呂上がりの洋太は、心地良い程度だった。
　老婆の姿を見つけ、桜子が身体を起こす。と言っても、四つん這いの姿勢だが。
「よしよし、エサを持って来てやったで」
　老婆は、犬小屋の前に皿を並べた。居間からの灯りが漏れていた。犬小屋の脇で、線香の束が煙を上げているのは、虫除けらしい。
「エサ皿を置かれても、ヨシと言われるまでは食うてはならぬ。犬嫁は、食事の時に手を使わせてならない。わかっとるの」
　桜子は、老婆の後ろに洋太の姿を見つけ、暫し見つめ合う。洋太は、地面に置かれたエサ皿に目を遣り、桜子に戻した。
　桜子は、コクリと頷いた。「ヨシ」の声と共に四肢を動かし、エサ皿に近づくと頭を下げていった。
　口より先に、鼻の頭が煮付けに触れた。顔を上げ、手の甲で拭う桜子。食べ始めると、またすぐに鼻が汚れた。
「顔は後で拭いてやるで、いちいち気にしてたら食えんで」
　桜子は老婆を見上げた。それしかないと感じたのだろう。思い切って、顔をエサ皿に突っ込む。食べるペースは上がったが、桜子の顔は、煮付けの汁とご飯粒にまみれた。
　水皿のみそ汁にも口を付ける。器を傾けることができないから、舌で掬って飲むしかない。ハダカのお尻を高く上げる姿は、どれほど屈辱的だったことだろう。
　ここまでくると、ノリが良いでは済まされない。桜子には、元々こうした素質があったのか。それとも、老婆の導き方が巧みなのか。
　立ち尽くす洋太の足下で、桜子が犬嫁の夕餉を終えた。
　老婆は、食器を重ねて持ち去ると、洗面器を持って戻って来た。湯気が立っていた。タオルを絞り、桜子の顔を丁寧に拭いた。
「ありがとうございます……あのぅ……」
　桜子が、腰をモジモジさせていた。
「食うたばかりで小便かえ」老婆は、わざと大きな声で言ったのかもしれない。桜子は、頭を下げて、今まで以上に、恥ずかしいという仕草を見せていた。
「犬嫁の厠はそこじゃ」
　老婆は、犬小屋の脇の砂場を指さした。
「用を足したら、砂を掛けておくんじゃぞ」
　老婆が立ち上がる。「見るものでねえ」と、洋太の手を引いた。