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   レイプクラブ〜美恵子編


 祐二との出会いは最低だった。
 美恵子は学生時代からの友人・聡子の紹介で祐二と会った。裕福な家庭に生まれ、厳格な父親に育てられた美恵子は、男性経験も少ない。大学を出てから二年間、就職もせずに退屈な日々を過ごしていた。そんな頃の話だ。今の日常から抜け出したいと願うのも無理はなかった。
 梅雨明けの待たれる季節だった。ホテルのレストランで祐二と差し向かえに座る。歳は美恵子よりいくつか上だろう。聡子からはまじめなスポーツマンタイプだと聞いていた。
「超美人のお嬢様ってのも、この程度かよ」
 祐二の第一声だった。美恵子はテーブルの上のグラスを取り、祐二の顔に氷ごとぶちまけて席を立った。帰りのタクシーに乗った途端、涙が溢れた。良家のお嬢様、美貌の令嬢、そうした形容詞で呼ばれてきた美恵子には屈辱以外の何物でもなかった。
 数日後、金曜日の夕方だった。美恵子は祐二に待ち伏せられ、車に押し込まれた。連れて行かれた場所は、一見して地下倉庫とわかるような場所だ。コンクリートが剥き出しになった壁に四方を囲まれていた。出入り口は鉄扉がひとつだけだった。天井は高く、背の届かない位置に明かり取りの小窓があった。床にはパイプベッドが置かれていた。その脇には段ボール箱。他には何もなかった。
「あんたにはこの部屋がお似合いだよ」
 祐二の欲望は果てしない。美恵子は一糸纏わぬ姿にされ、素肌という素肌を祐二の指と舌で嬲られた。肉欲の象徴はいつになっても衰えることなく、美恵子の中で自己主張を続けた。子宮を突き上げられる屈辱に心臓が涙を流した。
「この俺を愛していると言ってみろ」
 祐二は何度も繰り返した。
「バカなことはおっしゃらないで。誰があなたなんか……」
 言い終わらない内に平手が飛ぶ。勢い余ってパイプベッドから落ちる美恵子。馬乗りになって狂ったように殴りつける祐二。それは美恵子の抵抗がなくなるまで続いた。
 冷たいコンクリートに力無く横たわる裸体。それを力ずくで起こし、祐二が唇を合わせようとする。
「あぐぅ」
 祐二が口を押さえた。美恵子が祐二の舌を噛んだのだ。
「はははっ、いいぞ。それでこそ、俺が愛した女だ」
 血の混ざった唾液を吐きながら祐二は言った。大きな笑い声を立てたのもわずかな時間だった。祐二は立ち上がると美恵子の腹を蹴った。それが溝打ちに入り呼吸を絶たれた。咽せる暇もない。体をくの字にする美恵子を、祐二は蹴り続けた。
「愛していると言え。俺を愛していると言うんだ」
 返事をするどころではない。美恵子は意識を失った。
 一夜明けても解放されることはなく、食事も衣類も与えられないまま一方的なセックスに甘んじるだけの時を過ごした。祐二は体も大きく、胸板も厚い。一目で何かスポーツをやってきたそれと知れた。それにしても、どこにそれだけの体力があるのだろうか。ろくに休むこともなく美恵子を抱き続けた。メリハリもテクニックもあったものではない。時折体位を入れ替えるだけで、後はひたすら突きまくった。もちろん避妊を考慮することもない。身勝手な高揚に任せて精を放った。
 処女ではないというだけでセックスの経験も浅くその喜びも知らなかった美恵子は、祐二の暴力を暴力以上に受け止めることはなかった。気を確かに持ち、暴風雨が去るのを待ち続けることが唯一の抵抗だった。
「俺を愛していると言え」
 口を開けばそれだった。こんな方法で勝ち得た言葉に意味があるとも思えない。その言葉を言ってやれば満足したのかもしれないが、美恵子の口は呼吸以外の動きをしようとはしなかった。
 二日目の夜、祐二は段ボール箱から手錠を取り出すと、美恵子を後ろ手にして掛けた。綿ロープで足首を縛り、縄尻を手錠に繋いだ。膝を折らされていたから足を伸ばすこともできない。翌朝、祐二が目を覚ますまで、美恵子はベッドの上でその姿勢を崩すことができなかった。
「どうしてこんなことをするのですか。もう家に帰してください」
 男の目に裸身を晒す羞恥は消えることがない。手足を縛られたままの美恵子に祐二の視姦を避ける術はなかった。
「お前を愛しているからだ」
 美恵子はたじろぐ。祐二の目が真剣そのものに見えたからだ。
「だからお前も、俺を愛していると言え」
 三日目の陵辱が始まる。祐二は手錠を外し、足首のロープを解いた。美恵子を仰向けにして両足をMの字型に広げる。女の源泉を全開にされ、美恵子は羞恥にまみれた。祐二が股間に顔を埋めても、歯茎に力を込めることしかできなかった。
 祐二の舌先が秘肉を舐めあげる。美恵子の体に変化が生じ始めた。ただ荒々しいだけのセックスではなくなっていたからかもしれない。「お前を愛している」という言葉が耳に残っていた。祐二の行為は許せないし、一刻も早く止めて欲しいとも思う。それでも美恵子は、舌の這うその場所に得体の知れない疼きを感じていることも確かだった。
「やめてください。もうこんなことは」
「愛していると言え」
「だから、それは……」
 美恵子は唇を噛んだ。
 秘肉からにじみ出た液体が祐二の舌先に届く。それまで強引な挿入を果たしていた肉塊を、自らもその部分に受け入れようとする兆しだった。
「身体は正直になってきたようだな」
 美恵子は口を横に結び、顔を限界まで背けた。
 根本まで挿入を許した肉塊。その存在が美恵子の中で不快なものではなくなっていく。意志に反した行為を身体が求め始めている。
 祐二が動き出した。これまでにも増して激しく下半身を突き立てる。乳房を握りつぶし、乳首に歯を立てる。美恵子の性感帯をすべて壊してしまいそうな勢いだった。
「ああっ、イヤっ。ダメです。そんな……ああ、ダメぇ」
 拒絶の言葉にも甘さが加わる。大きな声を出しても無駄と悟ってからは声を出すことも拒んできた美恵子だが、今やその喘ぎは男女の愛の営みと変わるところがない。粘膜が肉塊に吸い付いていた。
「ああああ、お願いです。も、もう勘弁してください。お願い……」
 いつの間にか、両手を祐二の背中に回していた。性に関する知識の少ない美恵子でも、このまま責められたらどうなるか理解できた。
「正直になれよ。俺を愛していると言ってみろ」
「いやあーーー」
 好きでもない男の陵辱で気をやってしまうなど、あってはならない屈辱だ。それだけは避けねばと首を大きく振る。
 だが、それも長くは続かなかった。
「あひっ、ああ、イクっ。ダメっ、そんな。ダメっ、ダメっ、ああああ、いっ、イクっ。イクっ。イッちゃう。ああっ、いやあーーー。イッくうううぅぅぅーーー」
 祐二が体を開いた。
 美恵子はベッドの上に裸身を丸め、祐二に背を向けてすすり泣く。下腹部には肉塊から放出された白濁色の液体が逆流していた。自分がとても醜いものに思えた。
「嫌がっていたくせに、随分と派手にイッてくれたものだな」
 いきり立っていた肉塊がお尻に当たる。祐二が背中に抱きついたのだ。
(もうこんなになって……)
 美恵子は肩で祐二を避けた。
 祐二がそれを引き戻し、仰向けになった美恵子に覆い被さる。
「ああ、また……」
 その口を祐二が塞ごうとする。美恵子がそれを避ける。さらに追いかける祐二。気をやってしまった美恵子だが、この追い駆けっこだけは何としても逃げ切らなければならなかった。
 平手で頬を打たれた。両手に手錠を掛けられ、頭上でベッドのパイプに繋がれた。
「こんなものは使いたくなかったんだが」
 祐二が段ボール箱から取り出したものは直径が数センチ、幅が一センチ程度の筒にベルトが付いた品物だった。筒の部分を美恵子にくわえさせ、頭の後ろでベルトの金具を留める。閉じることのできなくなった口に、祐二は自らの口を押しつけた。美恵子の頭は両手でしっかりと押さえ付けられていた。
「あぐううう、うううう」
 異物に阻まれて声にはならない。足をばたつかせて抵抗を試みる美恵子だが、こうなってしまっては侵入を拒む手段がない。筒を通り抜け、祐二の舌が美恵子の口の中をなめ回す。舌と舌とが触れあい、狭い空間を逃げ回る。だがそれもたいした抵抗にはならない。祐二の舌は歯茎を舐め、歯の裏側にまで達し、美恵子の舌を絡め取る。唾液が混ざり合う。涙が止めどなく流れた。
「どうだ。愛していると言うか」
 美恵子は何の反応も示さなかった。
 祐二は舌打ちをすると、花芯に肉塊を突き立てた。口の中への侵入も再開した。大雑把な腰遣いだ。射精を寸前に迎えたような激しさで突き上げる。一度イッてしまった美恵子の身体は、瞬く間に臨界状態へと近づいていく。
 何の前触れもなく、肉塊が引き抜かれた。
 祐二の舌が美恵子の口を離れ、代わりに愛液でヌルヌルになった肉塊が筒をくぐった。その先端が喉の奥に達したかと思うと、熱く煮えたぎった液体を吐き出した。
「あがっ、ぐぐうぇ、うううううう」
 口の中に異臭が広がる。身体全体で拒否反応を示したが、祐二が馬乗りになって、美恵子の頭を膝の間に押さえ込んでいた。両手は手錠に繋がれたままだ。美恵子は咽せかえりながらも、その異臭の源を飲み込んでしまうしかなかった。
 精を出し切ってしまうと、祐二は美恵子の脇に身体を投げ出す。息がまだ荒かった。
 美恵子は天井を見ていた。飲み残したザーメンが口元からこぼれる。美恵子には、それを拭うこともできない。
 この男には何をしても無駄なのだと思った。どんなにがんばっても、結局は思うようにされてしまう。どうしてこんなひどいことができるのだろうか、そう思った時、美恵子の脳裏に祐二の真剣なまなざしが浮かんだ。
「お前を愛しているからだ」
 その言葉を信じてしまう方が楽なのかもしれない。
 祐二が身体を美恵子に向け、乳房に指を這わした。愛撫するというより、ただ悪戯しているだけのようだ。美恵子は抵抗しない。その様子は、愛し合った男女の戯れにも見えた。
「大人しくなったじゃないか」
 祐二は美恵子の口に嵌めた筒を外す。唾液とザーメンで汚れた口の回りをティッシュで拭うと手錠も外した。自由になった両手を力無く下ろしたままの美恵子。その裸身を祐二は横から抱きしめる。最愛の人を慈しむような仕草だった。
「ねえ、なんで?」
 美恵子は天井を向いたまま言った。
「だからお前を……」
「愛しているから。私のこと、何にも知らないくせに」
 美恵子は身体を祐二に向けた。
「一目惚れだよ。聡子にもそう言った筈だけどな」
「ひどい人……」
「信じないのか」
「信じるわ。いえ、信じさせて」
 美恵子は両手で祐二の頭を抱き、唇を重ねた。祐二がそれに応える。口と口がひとつになろうとした。舌と舌が絡み合った。誰に強制されたものでもない。恋人同士がする情熱的な口づけになっていた。
「愛してくれるのよね。ずっと愛してくれるのよね」
 美恵子が繰り返す。
「ああ、愛しているとも。俺はお前を愛している」
 再び交わるふたつの唇。長い口づけの後、二人は本当のセックスに流れていった。
「お前が受け入れてくれないなら、そのまま死んでやろうと思っていた」
 後になって祐二が言った。
 実際にそうなっていたかもしれない。地下倉庫に拉致された美恵子は、三日間飲まず食わずの状態だった。それは祐二も同じこと。祐二は聡子の卒業アルバムで美恵子に一目惚れをした。だが、良家の子女である美恵子は高嶺の花でしかない。祐二が射止めるには乱暴な手段に訴えるしかなかった。命がけだったのだと美恵子に告げた。
 美恵子はその言葉を信じた。聡子も喜んでくれた。ふたりの交際は順調だった。
 祐二の仕事の関係で会える日は限られていたが、週に一度は連絡が入り二人は愛情を確かめ合う、そういう生活が続いた。仕事をしていない美恵子は、毎日、祐二からの連絡を待った。それはいつ来るかわからない。美恵子から連絡することは禁じられていた。友だちからの誘いも断ることが多くなった。約束をすっぽかされることもあったが、穴埋めは必ずしてくれた。そのわずかな時間が美恵子に至福を与えた。
 それから二年が過ぎ、いつプロポーズしてくれるのだろうと気になり出した頃だった。聡子が思いがけないことを言い出した。
「祐二さんに奥さんがいるという噂があるの」
 美恵子が問いつめると、祐二はあっさりと認めた。もう少し都合の良い女でいてくれたら奥さんとは必ず別れる。そして美恵子を迎えに来ると約束した。
「俺は今でもお前を愛している」
 最後に言った言葉を美恵子は信じるしかなかった。
 聡子は泣いて謝った。その上で「別れた方が良い」と忠告した。
 だが、当時の美恵子にとって祐二はなくてはならない存在になっていた。祐二のいない人生は考えられなかった。
 美恵子と祐二の交際は、どこか旅行に行くでもなく、一緒に映画を見るでもない。祐二の都合で呼び出され、ホテルに行ってセックスをするだけの関係だった。仕事が忙しいのだから仕方がないと思っていた美恵子だが、土日に時間が取れないのも、クリスマス・イブに一緒にいられないのも、家族サービスのせいだと悟った。
 美恵子はこの頃から睡眠薬を服用するようになった。一日中、祐二からの連絡を待ち続けた。家から全く外に出ない日が続いた。身体は疲れていないが、不安は募るばかり。ベッドに入っても眠れない夜が多かった。
 そしてまた一年が経ち、祐二の海外勤務が決まった。出発は半年後。家族を伴っての赴任である。このまま日本に戻らない可能性もあると言う。その事実を知らされても尚、美恵子は祐二との関係に固執した。
 祐二の奥さんが美恵子の存在に気づいた。呼び出された美恵子は、祐二には他にも女がいると聞かされ、手切れ金だと言って小切手を渡された。奥さんは泣いていた。海外勤務になれば祐二の浮気癖も治るのではないかと祈っていた。
 自分の部屋に戻った美恵子は、枕元に有った睡眠薬をあるだけ口に入れた。量が多過ぎたため嘔吐して一命は取り留めたものの、それまでの無理が重なり、憔悴してやせ細った。何重にも裏切られたという思いが、美恵子を極度の人間不信へと追いやった。

 それからの美恵子は生かされていた。
 食事もろくに摂らず、栄養剤で補わなければ生を維持することすらできない。それでも足りない時は入院して点滴を受ける日々を送った。
 心療内科にも通った。
 美恵子の母親は、娘の世話でノイローゼになり実家に帰っていることが多くなった。
 父親が、自分の元部下である正岡に美恵子を紹介したのも、実は厄介払いだったのかもしれない。正岡はまじめさだけが取り柄のような男だった。美恵子の過去をすべて知った上で、嫁に欲しいと願い出た。
 婚約が決まると、美恵子は結婚式の打合せや衣装合わせで日々を過ごした。と言っても母親に連れ回されるだけ。招待状は父親の部下が出した。他人からは幸せな日々に写ったかもしれない。その実、美恵子を癒したものは時間でしかなかった。
 結婚式の当日、ウェディングドレスに身を包んだ時には、何かを期待させられもした。だが、それも式が終るまでのことだった。夫となった男は花嫁を放り出したまま、上司である父親や取引先のお偉いサンたちの間を走り回った。
 初夜の営みも美恵子の心を溶かしてはくれなかった。
 ただ「愛しています」と繰り返すだけの夫に身体を預けた。抵抗しないというだけで、美恵子にとっては、これもひとつのレイプだった。
 乳房を揉まれれば乳首が起った。乳首を摘まれれば花芯が疼いた。花芯を嬲られればその指を濡らした。祐二との性生活で開発された女の身体がせめてもの救いだった。快感とは言えないまでも、それなりの反応は示してくれた。少なくとも、夫の欲情を受け入れられるくらいには。
 夫が顔を近づけてくると、美恵子は首を横にした。結婚して以来、一度も口づけを交わしていなかった。子供を作ることも拒み続けた。夫は理由を聞こうともしなかった。
 元の上司の娘。夫にとって美恵子は、妻というより大切な預かり物、もっと言えば接待相手だったのかもしれない。美恵子にしたところで、この結婚は両親を気遣ってのものに過ぎなかった。
 姓は正岡に変わったものの住まいは元のまま。夫が妻の実家に居候していた。家事は家政婦がやっていた。美恵子がやることと言えば、食後のコーヒーを入れるくらいだ。昼間は友人と遊び歩いた。美恵子の両親は、家にいて鬱になるよりはと喜んでいた。夫婦生活と言っても、寝室に引き上げてからのわずかな時間だけだった。
 ベッドに入ると、夫は美恵子の身体を求めた。好きなように抱かせていた美恵子だが、口づけだけは許さなかった。あからさまに顔を背けて拒絶する美恵子。祐二なら、こんなことは許さなかった。力ずくで上を向かせ唇を奪った。夫にはそれがない。腫れ物に触るようなセックスが、夫婦仲を冷ややかなものにしていった。
 そのような中、父の異動が決まった。
 美恵子には詳しい事情が知らされていなかった。それでも、父の歳で東京本社を離れることがどういうことか、それを理解するくらいの分別はあった。「貧乏くじをひいた」と夫の陰口をいう人の噂も耳に届いた。
 出世の道が経たれた夫を、美恵子はますます拒絶するようになった。だが、夫に何の感情も持っていなかっただけで、憎かったわけではない。
「さっさと済ませて」
 口ではそう言っても、夫がきちんと愛してくれれば、それに応えるだけの気持ちはあった。美恵子に背を向けて、ひとりでコンドームを付けている夫が哀れだった。
(男なら、もっと強引に迫ってごらんなさいよ)
 何度、喉まで出かかったことか。夫の中途半端な愛撫と男の欲望を満たすためだけの挿入は、美恵子のフラストレーションを増長させるばかり……そしてとうとう濡れなくなった。

 美恵子はその日遅くまで飲み歩いていた。聡子に誘われ、夕方になってから出かけた。それぞれに家庭を持ち、五年の月日が流れていた。軽く食事を済ませた後、いつものクラブのカウンター席で、女ふたり、夫の愚痴をこぼし合った。ここはまだ父の付けが利く店だ。店員も顔見知りで気兼ねがいらなかった。
「ねえ、美恵子。ご主人と最後にしたのって、いつ」
 こういう露骨な質問ができるのは聡子だけだ。グラスの中の氷を目の高さまで持ち上げて、くるくると回した。
「さあ、私たちのはセックスっていうのかしら」
「感じないの」
「全然ってわけじゃないんだけど。ベッドの中でも上司の娘なんだもの。おっかなびっくりって感じかしら。私の過去も知っているから気を遣ってくれているのでしょうけど、いつも中途半端で困ってしまうわ。いっそのこと……」
「えっ、何」
「ううん、何でもないわ」
 美恵子はカウンターに両肘を付き、手のひらに額を載せた。その様子を見ながら、聡子は次の言葉を探しているようだ。
「ご主人が嫌いなの」
「そうでもないかも」
 美恵子は顔を上げ、自分のグラスを手に取って続けた。
「父とは全く違うタイプだし、最初は好きになれなかったけど、あれで会社の若い人とか取引先には人気があるのよ。少し、見直したかな」
 聡子が持っていたグラスを美恵子のそれに当てた。
「これ以上の出世は無理だろうけどね」
 美恵子はグラスを口に持って行った。
「でも、恨んでもいるかも」
「いい人じゃない。そんなこと言ったら罰が当たるわよ」
「わかっているんだけどねえ」
 美恵子はグラスから溶けかかった氷をひとつつまみ出し口の中で噛み砕く。
「死にたがっていた私に、あの人は生きる道を与えたの。それって罪じゃないかしら」
 返事は帰って来なかった。
 どちらからともなく腕時計を気にし始めた。店員が折りたたみ式のホルダーに伝票を挟んでカウンターに置く。美恵子はその上にクレジットカードを載せた。
 店を出る。タクシーを拾おうとしていると聡子が腕をとった。
「ねえ、もう一軒行かない」
 珍しいことだった。主婦が遊んでいられる時間はとうに過ぎていた。
「お願い。私がおごるから」
 何か事情がありそうだ。いつもの習慣で席を立ったが、美恵子にしたところで早く帰らなければならないというわけでもない。最近では夫の帰りも遅くなることが多かった。
「いいわよ」
 美恵子は、聡子に腕を絡めた。
 二十分後、ふたりは雑居ビルのエレベーターに乗っていた。風俗店に上下を挟まれた四階の小さなスナックは、およそセレブに似つかわしいとは思えない。美恵子がここに来るのは二度目だった。
「この前の話、覚えてる」
 聡子が声を潜めた。これから行くお店のマスターが運営している組織のことだ。一言で言えば人妻専用の交際クラブだが、その内容は、退屈したセレブの奥様を男性会員が本気でレイプするというものだった。
「ええ。でもやはり私には……」
 無理だわ、と言い切れない自分を美恵子は感じていた。聡子がもう一軒と言い出した時、ここに来ることを期待していなかったと言えばウソになる。
 それ以上会話が進まない内にエレベーターが止まった。
 廊下という程もない。下りたらすぐに店の入り口だった。「パンドラ」と書かれたドアを開ける。美恵子は、聡子と並んでカウンター席に付いた。他に客はいない。と、そう思ったのだが、
「それじゃマスター。今日はこれで」
 美恵子はその声の方向に顔を向けた。声の主はトイレから出て来ると、まっすぐにドアを開けて店を出て行った。
 横顔が見えた。身を伏せる美恵子。それは夫の正岡だった。

 「パンドラ」のマスターにはいろいろな噂があった。どれが本当だとしてもまともな話ではない。客のウケを狙ったリップサービスだという者もいた。いずれにしても、うさんくさい匂いは消せなかった。
「今日はもう閉めようと思っていたんですがね」
 マスターはふたりの前にチャームを出しながら言った。
「ねえ、今の誰」
 聡子が問いかける。美恵子はカウンターの下で聡子の服を引いた。
「ああ、正岡さんだね。お知り合いですか」
「い、いえ。そういうわけじゃ」
 美恵子が話しに割り込む。嘘は見え見えだったが、マスターはそれ以上追求しようとはしなかった。「水割りでいいですか」と聞きはしたが、答えを待たずにウイスキーグラスをふたつ、カウンターに並べた。
「ところで、レイプクラブの件は考えて頂けましたか」
 マスターが運営している組織の名前だ。聡子はすでに入会していた。美恵子もどうかと連れて来られたのが前回だった。マスターは一目で美恵子を気に入った。是非入会して欲しいと迫った。美恵子は、考えさせて欲しいと返事を保留した。
「ええ、まあ……」
「あなたなら間違いなく人気になりますよ。顔も身元もわからないんだ。心配することは無いし、ただ楽しめば良いだけなんですがねえ」
 マスターがカウンター越しに身を乗り出した。美恵子はその視線を避けようと首を捻る。店の出口に目が止まった。
「さっきのあの人も会員なんですか」
「それは困ったなあ。お客さんのプライバシーですからね」
 美恵子は顔を正面に戻した。
「あの人のこと、教えて頂けませんか。場合によっては私……」
 マスターは「うーん」と腕を組んだ。
「訳あり、ですか」
「教えちゃいなさいよ。美恵子を誘う最後のチャンスかもしれないわよ」
 聡子が援護した。マスターはカウンターの中を行き来していたが、美恵子の前に戻るとピンクの帯を差し出した。
「レイプクラブの女性は、これで目隠しをして男を待つことになっているのですよ」
 なるほど、これで顔を隠せば男に見られることもない。男の顔も見えない。他の女性ならそれで決断できることもあるのだろう。美恵子はそれを手にとってみようともしなかった。
「まあ、いいでしょう。何がお知りになりたいですか」
 美恵子は背筋を伸ばした。自分から言い出したことなのに、何から聞いた良いかわからない。聞きたくないことまで聞くことになるかもしれなかった。
「それじゃ、あの人はレイプクラブの会員なのね」
 聡子が先に口を開いた。
「そうです。まだ入会したばかりですが、女性からの評判も良いようです」
「へえ、どんな評判なの」
「かなり暴力的なレイプをするみたいですね。見た目ではわからないものです。二人目の方なんか、危うく殺されそうになったと言っていましたよ。正岡……いえ、あの人は危険かもしれませんね」
 さも驚いたというように話すマスターだが、美恵子の驚きはそれ以上だ。自分とのセックスでは気弱で何をするにも確認をとってからするような夫だ。それが、女性に暴力を振るいレイプする姿など想像できなかった。
「わからないものねえ。それで……」
 続きを聞こうとする聡子だったが、美恵子が割り込む。
「どんなっ、殺されそうって、どんな風にですか」
 その声の大きさにマスターも聡子もたじろぐ程だった。
「ああ、何でも首を絞められたとか……最初は女性の方から絞めてと言ったようですが、かなり本気でやられたそうです。でも、それが良かったってご満悦でしたよ。結局、快楽と破滅は紙一重なんでしょうね」
 美恵子は夫との生活を思い起こした。
 新婚の頃から一度も怒ったことがない。いつも穏やかで、遠慮ばかりして、両親の前では愛想笑い、家政婦の機嫌を取り、美恵子の顔色を伺うだけの夫。何の感情も抱くことのできない男。だが、その男がいなかったら、美恵子はもう一度死の道を選んでいたかもしれない。
 夫の浮気を責める気にはならなかった。
 不倫の末に自殺未遂までした厄介者を、かりそめにも妻に迎えた男。両親にも疎まれた美恵子を一生愛し続けると誓った正岡芳次。
(あなたがいたから、私はもう一度生きなければならなかった)
 美恵子には、それが身勝手な言いがかりであるとわかっていた。
 ウイスキーグラスを一気に飲み干す。聡子とマスターが見守る中、美恵子はピンクの帯を手にした。
「責任は取ってもらうわ」
(おわり)


※このお話は、松崎詩織作『欲望倶楽部』の二次創作です。


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