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   雪の中の裸女


 俊輔はガウンの襟を立てた。山荘の中にいても暖をとらなければ凍えてしまいそうな夜だった。ウイスキーを片手に窓ガラスの曇りを拭う。昼間から降り続く粉雪が山荘の窓枠を素早く通り過ぎて行った。
「今夜は吹雪になるのだろう」
 次第に悪くなる視界に俊輔は目を凝らした。そうしなければ表の一本杉に縛り付けられた聡子の姿を確認できなかったからだ。
 凍り付いた風が容赦なく素肌にからみついていた。聡子はその身に何も付けていない。一糸纏わぬ姿を厳寒の中に放置されていた。
 はじめの内はこの窓に俊輔の姿を探していた聡子も、今はもうじっと目を伏せているばかり。風と雪に晒された素肌はすでに体温を無くしていることだろう。
「聡子よ。もう終わりにしよう」
 俊輔はそう言って飛び出して行きたくなる気持ちをじっと堪えた。これは聡子の命を賭けた勝負なのだ。そうでなければ雪道を二時間も歩いてここまでやって来た
りはしない。
 新宿の歩行者天国のはずれで、車のトランクに押し込まれた時から、聡子はずっと素っ裸のままだった。車は山荘の遥か手前で積雪の為動かなくなった。聡子には何も身につける物が無い。それどころか、後ろ手に縛り上げられた縄じりを俊輔にとられ、素足を膝下まで雪道に沈めることとなった。
 両手の自由がきかない聡子は何度も転んだ。素肌が雪で真っ白になっても俊輔はそれを払ってやろうともしない。やっと池の向こうに山荘が見えたかと思うと、俊輔は氷を割って身動きのできない聡子をその中に落とした。
 泳ぎの達者な者でも、この状況では何もできないだろう。
 水の中で動かなくなった聡子の縄じりをたぐり寄せた俊輔は、冷え切った体を抱き上げようともせず、雪の上を山荘まで引きづって行った。そして、その濡れたままの体を、風当たりの強い一本杉に括りつけた。
 俊輔が頬を叩く。聡子は意識を取り戻した。
「これが最後だ。やめるなら今だぞ」
 答えを待つ俊輔。
「いいの。このままにしておいて」
 俊輔は、それを最後に振り向くことをやめた。山荘へ入り暖炉に火を入れると、雪で湿った衣服を脱ぎ捨てて浴室へ向かう。暖かいシャワーを浴びていると、体の芯まで凍えていたのがわかる。完全武装をしていた俊輔でさえこうなのだ。
「君はバカだよ」
聡子は、部屋の灯りが消えたことに気づいただろうか。いよいよ朝までこのままかと覚悟を決めただろうか。いや、もしかしたらすでに…… 俊輔の頭を駆けめぐる思いが睡魔を寄せ付けなかった。
 暗い天井に聡子の姿を写し出したまま、俊輔は夜明けを待った。風がとうとう唸りをあげだした。木造の建物がきしむ音さえ聞こえてくる。俊輔は布団に潜って耳をふさいだ。
 カーテンの隙間から空が白み始めたのを感じると、俊輔は布団をはね除け、裸足のまま山荘を駆け出した。雪はすでに止み、朝日が雪に埋まった聡子の体を照らし出していた。
「綺麗だよ。聡子」
 雪をかき分けて近づく俊輔。だが、聡子の口は二度と開かなかった。

あれから二十五年。俊輔は、とある中堅企業の専務取締役となっていた。還暦まで一回りを残しての就任は異例の人事だったが、それは、そこまでに踏みつけて来た人間の数にも現れていた。今も次期社長を争う副社長一派とやり合って来たばかりである。
(何もかも、君のおかげかもしれないな)
 聡子を死なせてしまったことが俊輔を開き直させた。もう何を失っても良いと思えた。それが俊輔を強くした。
「杉山君、後は頼んだよ」
 俊輔は会社を出た。杉山と言うのは俊輔の愛弟子であり、秘書室勤務のエリートでもある。一人娘の洋子の婿にとも考えたが、取引先の松原財閥の令嬢との婚姻が決まったと聞いてあきらめざるを得なかった。会社は辞めることになるが、俊輔は実の子のように心からの祝福を贈った。社内での権力争いに明け暮れる俊輔にとって、洋子とこの杉山だけが、やすらぎを与えてくれる存在だった。
 俊輔は、いつかの山荘に向かうワインディングロードに車を走らせた。あの日以来の雪山だった。オレンジ色に染められていた空から、白いものが舞い降り始めていた。俊輔は、最近では珍しく自分で車を運転していた。どうしてここへ来ようと思ったのだろう。二度と来てはいけないと、心に決めた場所だった。
 山荘の地下室には巨大な冷凍室が設けられていた。元々が観光客相手の物だったから、人ひとり入れるには十分だった。
 そう、聡子はそこに眠っていた。あの日、雪の中で一本杉に縛り付けられ、氷の人形と化したそのままの姿で。
 猟奇的と言う人もいるだろう。だが、俊輔にとっては、それが聡子の最も美しい姿だったのだ。二十五年の歳月を経た今もその姿を止めていることはないだろうが、俊輔の心の中には、雪の中の裸女があの時のままに立ちつくしている。
 池の向こうに山荘が見えた。遠目だが、一本杉も昔のままに見える。
「なにっ!」
 俊輔が思わず声を上げる。一本杉の根本で何かが動いたのだ。空が急に暗くなり、次いでフロントガラスに雪が吹き付ける。そんなばかな……だが、ワイパーが間に合わないほどに……そして杉の根本に見えたものは? 俊輔は急激に悪くなった視界に目を凝らす。
「早く、あの木の根本へ行かなければ」
 自分でも気づかない内に、俊輔はハンドルを切っていた。その方向には、凍り付いた池しかなかった。

 俊輔が聡子と知り合ったのは、大学を卒業して初めての冬の寒い日だった。一目惚れ。これが赤い糸と言うやつかと思い知らされるような熱い感情にふたりは支配された。
「でも、わたしにはしないでね」
 聡子の言葉は俊輔のSM趣味に向けられていた。その手のビデオを借りて来ては聡子に見せようとしていたのだ。だが、聡子が付き合うのは、ビデオ鑑賞が精一杯だった。俊輔も本当に聡子を大事に思っていたのだろう、自分の趣味を無理強いすることは無かった。
 そんなふたりに試練の時が来た。俊輔の勤める会社の社長令嬢・貴子がこれまた俊輔に一目惚れしてしまったのである。俊輔の将来を想って一度は身を引こうとする聡子。だが、その時すでに聡子のお腹には新しい命が生まれていた。
 そしてあの夜。シティホテルの一室、聡子がシャワーを終えて出て来ると、俊輔は例によってSMビデオを見ていた。画面の中の女は、素っ裸で雪山の木立に縛り付けられていた。そして「今夜は一晩中そのままだ」そう宣告を受けていた。
「あんなことをしたら死んでしまう」
 やっぱりビデオだな、と俊輔は聡子に言った。聡子はバスタオル一枚の姿で、その手にすがりついた。
「わたし、やるわ」
「えっ、なんだよ。いきなり」
「やる。わたしをあの女の人のようにして」
 聡子が刺すような視線で俊輔に訴えた。
「どうしたんだよ。SMは嫌いと言ってたじゃないか」
 俊輔は目を丸くして見返す。だが、聡子の眼光に跳ね返されてその目をビデオに戻した。
「わたし、はだかのまま朝まで我慢するわ。だから捨てないで。わたしと、わたしたちの赤ちゃんを」
 俊輔は心臓が凍り付くようだった。貴子との交際は始まっていたが、まだ肉体関係を結ぶには至っていない。今ならまだ断れる。そんな時である。聡子はすべてを知っていたのだ。それは俊輔にとって二重の衝撃だった。
「そんなことしなくたって、僕は君を……」
「だめ。わたしはあなたに何もして上げられないもの。せめてあなたの趣味に合うような女にならなければ」
 貴子と自分を比べた時、聡子にできるのは本当にそれだけだったのかもしれない。
「だけど、君、SMできるのか?」
「ええ、何でもするわ」
「本当に……いや、やめておこう。君にできるわけがない」
元々が俊輔の趣味である。すぐにでもバスタオルをはぎ取って、そのまま部屋の外に放り出してやりたい衝動に駆られる。今までだって何度そうした激情を押さえてきたことか。
「できるかどうか、試してくれても良いわ。いえ、試してちょうだい」
 聡子は下の瞼から溢れそうになるものを一生懸命堪えていた。これが最後のお願いと言わんばかりに俊輔の目を離さない。
「そんなことを言って良いのか。死ぬほど恥ずかしい思いをすることになるんだぞ」
「構わないわ」
「……わかった。それならフロントに行ってお願いして来るんだ、わたしを縛る縄を貸してください、とね」

俊輔が目を覚ましたのは、光の無い場所だった。何も見えない。何も聞こえない。ただ、自分が横たわっている床だか地面だかが、感じられるだけだった。
「ここはいったい……? 僕はどうして……?」
 後者の答えはすぐに出た。そうだ。山荘の一本杉へ急ごうして、車ごと池に落ちたのだ。
「僕は死んだのか……?」
 俊輔は何も見えなかった闇の中に人影を感じた。闇の色と同じ黒いマントを頭から被ったそれは、気配だけをそこに置いていた。
(そうです。あなたは死にました)
 それは頭の中に直接響いた。声ではなく、抑揚のない意志の伝達だった。
「何だって。誰だ、お前は?」
(あなたを黄泉の世界へご案内します)
「死神ってわけか。いいだろう。どうせ……」
 俊輔は、自分の死をすんなりと受け入れていた。聡子を死なせてしまって以来、俊輔はこうなる日を待っていたのかもしれない。会社には未練もなく、貴子とのいつわりの家庭にも疲れていた。唯一の心残りは、娘の花嫁姿を見ることができなかったことだが、それとて、どこの誰ともわからぬ男に奪われる瞬間を見なくて済んだと思えば良い。
 マントの案内人が動き出した。俊輔も立ち上がってそれに続く。辺りは相変わらずの闇だった。足下さえおぼつかないのに、不思議と不安はなかった。人間の恐怖感はすべて生への執着から起こるものなのかもしれない。死んでしまえば、何も怖くはなくなるのだ。
 暫く歩き続けたが、一向に景色が変わらない。自分はどこへ連れて行かれるのか。そんなことはどうでも良かったが、退屈しだしていたのは事実だ。前を行く案内人の背中にも疑問を持ち始めていた。どこか親しみを感じる後ろ姿なのだ。もしかしたら、自分の先祖の誰かが迎えに来たのかもしれないと、俊輔はそんなことを考えていた。
 やがて、大きな扉の前に着いた。案内人が振り返る。顔は確認できなかった。男か女かさえわからない。
(あなたに見せたいものがあります)
 再び脳が刺激された。マントの陰には切り株のような台の上に乗せられた水晶玉がひとつ、薄い光を放っていた。
「見せたいものとは、これのことか」
(そうです。中をよくご覧になってください。何かが見える筈です)
 俊輔は、水晶玉をのぞき込む。確かに、こことは別の景色を写していた。ビルの谷間の雑踏のようだ。自分もほんの少し前まではあの中にいたかと思うと、ぞっとしなかった。
 次第にズームアップされていく水晶玉の中の光景に、俊輔は自分が動揺していることを知った。なぜかしら悪い予感がする。いったい何を見せようというのだろうか。
(何が怖いのかしら。あなたの好きなことよ)
 俊輔は、それが女言葉になっているのにも気づかなかった。もっと重大な発見をしてしまったのだ。
「あれは……」
 水晶玉の中の雑踏は、ひとりひとりの顔が識別できるまでに引き伸ばされていた。

「縛る……、私を縛るの?」
「そうさ。君にそんな屈辱が耐えられるのか?」
 聡子は顔を伏せた。そう言う目にあった女たちを、俊輔が借りて来たビデオの中でさんざん見ていた。「女の人があんな恥ずかしいことするなんて、いくら仕事と言っても信じられないわ」そう行って蔑んでいた行為を自分から望んで行おうと言うのだ。聡子の覚悟はどれほどのものであったか。
「わかったわ」
 それでも聡子は立った。自らを辱める為のアイテムを取りに行くことを決意したわけだが、その言葉の裏に隠された意図までは理解していなかった。聡子が衣服に手を掛けると、
「何をしているんだ?」
 俊輔の声が、ビデオの中で女を責め立てる加虐者のそれになっていた。
「何をって、フロントへ行くのでしょう。着替えないと……」
 聡子は俊輔の表情に悪い予感を覚えたのだろう。「まさか」と言う三文字を顔に出して次の言葉を待った。
「そのまま行くんだよ」
「そんな……」
 聡子は耳を疑った。当たり前である。風呂上がりにバスタオルを一枚巻いただけの姿なのだ。フロントへ行くにはロビーを通らなければならない。まだ人がいる時間である。
「ウソでしょう。こんな格好でなんて……」
「なんならバスタオル無しでも構わないぜ」
 それは、素っ裸になって行け、と言うことだ。聡子は、今までにいろいろなビデオを見せられて来たが、その中には裸でホテル内を歩かされるようなものは無い。
「それもSMなの?」
 俊輔は黙って頷いた。そして、足早に近づいて来たかと思うと、聡子の腕を取り、ドアの方へ導いた。
「嫌! こんな姿で部屋の外に出るなんて」
 聡子はドアの手前に座り込んで自らの両肩を抱いた。俊輔は構わずにドアを開けようとする。それをさせじと聡子は俊輔に体をぶつけ、開きかかったドアを封じた。
「こんなのSMじゃないわ。こんなビデオ、見たことないもの」
「なら見せてやる。その代わり、見たらビデオの通りにして貰うからな」
 俊輔はビデオを借りに出かけた。その間、聡子はバスローブの紐で後ろ手に縛られ、ベッドの上に放置された。バスタオルも剥がされた。そして、そのままの姿で、新たに借りて来たビデオを見せられた。
 それはストリーキングものだった。いろいろな女が町中で裸にされていた。ある者は繁華街を歩かされて、ある者は電車に乗せられ、またある者は横断歩道の真ん中でオナニーをさせられていた。聡子が最も驚いた様子を見せたのは、ストリーキングのドッキリだった。テレビでやっている、アイドルをだましてその様子を楽しむドッキリ番組のSM版である。女の子にストリーキングをさせておいて、撮影のスタッフがどこかに行ってしまうのだ。その際、女の子が着ていた服も一緒に持っていってしまうので、女の子は裸のまま町中をうろうろするしかない。お巡りさんに見つかって職務尋問されるが、アダルトビデオの撮影だと言っても信じて貰えず、ついには手錠を掛けられてパトカーに乗せられる……
「わたしにこれをしろと言うの?」
 聡子の顔は青ざめていた。
「やる、やらないは、君次第さ。今夜はそのままで考えるんだな」
 俊輔は、全裸で後ろ手に縛られたままの聡子に布団を掛けて、部屋の電気を消した。聡子は、まさか朝までこのままだなんて思ってもいなかった。「本気なの」とふたつのまなざしで訴えたが、俊輔のシルエットは、「おやすみ」と、一言返しただけだった。
 翌朝、シティホテルのベッドで目を覚ます。俊輔の肩に顔を押し付けるようにして、聡子が寝息を立てていた。手首の紐はほどけなかったようだ。いや、ほどこうとした様子もない。俊輔は、その両手を自由にしてやった。が、聡子は一度寝返りをうっただけで……
(夕べはなかなか寝付けなかったのだろうな)
 俊輔は聡子の髪を撫でた。このまま、ずっとこうしていたい、それが許されるのならば。
 俊輔は振り切るようにベッドを下りる。そして、聡子の着て来た服を集めてボストンバッグに入れた。下着まで、すべてである。そして、自分は着衣を済ませる。
「ほどいてくれたのね」
 聡子が目を覚ました。毛布を胸元まで引いて上半身を起こす。
「外で待ってる」
 俊輔は、聡子のコートをベッドの上に落とした。ちょうど聡子のひざの辺りだ。俊輔の顔と自分のコートを見比べる聡子。だが、俊輔は体を返した。そして、後は何も言わずに部屋を出ていった。
 ホテルの廊下は静かだった。平日ならばビジネスマンたちが先を争って出社する頃だろうが、日曜日はこんなものかもしれない。掃除道具を持った係りの女性が動き始めていた。
 やがて、ドアがわずかに開いた。その隙間から聡子が顔を覗かせる。コートの胸元を押えて上目使いに俊輔を見上げる。その胸を刺されるような視線に、俊輔は無言で答えた。
「ひどい人……」
 聡子がつぶやく。だが、俊輔はそれを予期していたように言葉を返す。
「行くぞ」
 俊輔は、エレベーターホールに向かって歩き出した。はたして聡子は着いて来ているのだろうか。聡子の衣服を入れたボストンバッグは俊輔が下げている。コートの下は起きた時のまま、丸裸の筈である。靴だけは残して来たが、そんな姿で人前に出ることになろうとは思ったこともないだろう。聡子にそんなことができるのか。ここで振り向くわけにもいかず、俊輔は冷たさを装った。
 エレベーターのドアが開く。乗り込んだ俊輔が、一階ロビーのボタンを押すべく振り向いたそこに、聡子の姿があった。何も語ることなく、俊輔の脇に寄り添う聡子。
「このエレベーターは一方通行だぞ」
 聡子はただ右手を胸元に、左手をおなかの辺りに横切らせて、下を向いているばかりである。俊輔は閉じるのボタンを押した。
「朝飯にするか」
 一階のロビーに着いた俊輔はカフェテリアへと足を向けた。信じられないといった顔付きで動きを止めた聡子だが、ここまで来たら着いていくしかないと覚悟を決めたのだろう、後からゆっくりと歩き出した。
 そこはホテルのロビーである。いつもより少ないとは言え、人がいない場所ではない。そんな場所をコート一枚の姿で歩く聡子はどんな心境なのだろう。そんなことを考えながら、カフェテリアの入り口で、俊輔はウェイトレスにコートを預けた。
 そこへ聡子がやって来た。「二名様ですか?」と尋ねるウェイトレスは、聡子の様子に眉を寄せているのがわかる。
「あの、コートを……」
 ウェイトレスが心なしか小さくなっていた。
「えっ!」
「コートをお預かりします」
 ウェイトレスの片手には、すでに俊輔のコートを下げている。もう片方の手を聡子に差し向けているのだ。これは俊輔にしてみても、思いもかけないハプニングだった。聡子はどうするだろう。コートを渡してしまえば、後は靴しか残らないのだから。
「預けたら良いじゃないか」
 それは、この場で丸裸になれ、と言っているのと同じだった。顔色を変えて俊輔を見詰める聡子に「ウェイトレスが困っているぞ」と、止めを刺す。聡子の手が、ゆっくりと腰へ移動していった。
(こいつ、まさか本気で……?)
 それは俊輔にも信じられない光景だった。聡子はコートのベルトを目の前で外したのだ。
「すまん。朝食はキャンセルだ」
 俊輔は、そう言ってウェイトレスから自分のコートを奪うと、聡子の肩を抱いてその場から逃げ出した。聡子もコートの前を押えながら一生賢明着いて来た。聡子の心臓の鼓動が伝わってくるようだった。
 ホテルの前でタクシーを拾った。俊輔は落ち着きを取り戻したが、胸にすがりついたままの聡子を抱く手はそのままだった。
「まさか、本気じゃないよな。僕がこうすることはわかっていたんだろう」
 俊輔は、そう言ってしまったことを後悔した。なんでもっと優しい言い方ができなかったのだろう。これでは、自分の気持ちが伝わらないではないか。
「本気……だったわよ」
 案の定だった。
「あなたが止めてくれなかったら、わたし、あそこで丸裸になっていたわ」
 タクシーの運転手の耳が傾いたような気がする。腕の中から見上げる聡子の視線に、俊輔は合わすことができなかった。
「もうやめよう。君にはSMは無理だ」
「なぜ? そんなにわたしと別れたいの?」
「そんな言い方はやめてくれ。僕はただ……」 君を夕べのビデオのような雪責めにはできない、と言いかけた言葉を詰まらせた。
「わたし、なんだってするわよ。どんなに恥ずかしいことだって耐えてみせるわ。だから……」
 元々がそうした趣味のある俊輔である。今すぐ聡子のコートを剥ぎ取り、車の外に放り出してやりたい衝動にかられた。
「なんだって……、本当になんだって……」
 聡子は、俊輔の胸に埋めた口で、そう繰り返した。職場では男性社員を圧倒する気丈な女・聡子。裸の上にコートを着ただけの姿でホテルのロビーを歩いたり、タクシーに乗ったりするなんて誰が信じるだろう。それだけの覚悟をしていると言うことなのだ。俊輔も態度を決めなければならないと思った。
「わかったよ、聡子。本当になんでもするな」
 聡子が腕の中で首を動かした。
「よし、わかった」
 ふたりがタクシーを降りた場所は新宿駅の東口、日曜日は歩行者天国でにぎわう場所だった。まだ人が出るには少し早い時間だったが、それでも立っているだけで歩行者の邪魔になってしまう。ぶつかった拍子にコートがめくれてしまわないかと、聡子は気にしているようだった。
「僕はこれから車を取りにいって来る。十二時までには戻るから、君はこのあたりで待っていてくれ」
 聡子が俊輔を見上げた。
「このままで……?」
「そうだ」
 目の前はスクランブル交差点になっている。これを渡ったところが歩行者天国である。聡子は「ああー」と声を上げ、体を俊輔の胸に預けた。それは、こんな姿でひとりにしないでと言う、無言の訴えだったに違いない。
「僕の車が見えたら、君はまず靴を脱ぐ」
「えっ!」
 聡子が頭を上げようとしたのを、俊輔は上から押さえた。
「次に信号が青になった時がスタートだ。君は歩行者天国に向かって走り出すんだ。僕は歩行者天国の反対側に車を移動して待っている。そこまで来ることができれば君の勝ちだ」
「……わかったわ」
「そう。君ならわかる筈だ」
 俊輔の言葉に、聡子は体を堅くした。
「コートはここに置いて行くんだ」
 聡子が俊輔の胸を押して体を離した。俊輔を見つめるふたつの瞳が、小刻みに揺れていた。聡子はコートの下に何もつけていない。そんなことをしたら……
「君は素っ裸になって、歩行者天国の人混みの中を走るんだ」
俊輔が真っ直ぐに聡子を見つめ返した。何かを言おうとする聡子の唇も、震えるばかりで音を発することはない。「素っ裸」と言う言葉の響きが、聡子をよりつらくさせたのだろう。だが、俊輔は発言を訂正する様子はなかった。それどころか、聡子を雑踏の中に残し、自らもまた人の波の中に消えていった。
 十二時までにはまだかなりの時間がある。荷物は俊輔が全部持って来てしまった。今頃コート一枚の聡子は、どんな心境で街角に立っているのだろうか。後で俊輔の車を見つけたら、泣きながら「もう許して」と飛び込んで来るのでないか。だが、もし本当に聡子が全裸で走り出した時は、雪山に連れて行くことになるのだろう。
「聡子よ。無理をすることはないぞ。雪責めは命にかかわる……」

 闇の中に唯一の光とも言える水晶玉。俊輔の意識はその中の光景に釘付けられていた。
「あれは、洋子じゃないか」
 一人娘の洋子は、今年短大を出て、俊輔の勤める会社の秘書課に就職したばかりだった。日に日に綺麗になっていく娘にはらはらさせられる時、俊輔はひとりの父親になっていた。(娘さんの格好に見覚えはないかしら?)
「えっ?」
 水晶玉がさらにズームアップした。洋子はベージュ色のコートを着ている。ストッキングを付けていないのがわかった。
「何だって!」
 俊輔は、水晶玉に額をこすりつけた。洋子はコートの上から両方の二の腕を握りしめている。その前はスクランブル式の交差点。信号待ちをする人混みの中に立ちつくしていた。
「まさか! やめろ。やめるんだ、洋子」
 水晶玉に向かって声を絞る。
(無駄よ。これからどうなるかは、あなたが一番良く知っているじゃない)
 俊輔は振り向いた。
「聡子。君は聡子なのか?」
(そうよ。わたしは聡子よ)
 マントが脱ぎ捨てられた。そこには全身を氷のように透き通らせた聡子がいた。俊輔が最後に見た時のままの肉体を保っている。闇だった筈の空間は、銀世界に変わっていた。
「聡子……」
 俊輔は言葉を失った。合意の上とは言え、自分の手で殺してしまった聡子が、今目の前にいるのだ。最愛の娘のことも、暫し意識から消えていた。
「聡子、すまん。お前には悪いことをしたと思っている」
『いいのよ。あなたを恨んでなんかいないわ。あれはわたし自身の賭だったのだもの』
「そうだが、僕にあんな趣味が無ければ……しかし、なんで君はそうまでして……」
『あのままわたしと結婚すれば、きっとあなたは後悔していたわ。なぜ貴子さんを選ばなかったのかってね。そうなれば、わたしはあなたの人生のお荷物。それを納得させるだけのものが欲しかったのよ。あなたに対しても、そして、自分自身にもね』
「聡子……」
『わたしはその賭に負けて死んだの。それだけよ』
 風が、辺り一面の雪原から氷の粒を集めて、俊輔に吹き付けた。なまじ恨み言が出ないだけにつらかった。俊輔は両手をつき、首を落とした。自分の犯した罪の重さを、あらためて思い知らされた。
『見なくて良いの? 信号が変わるわよ』
 聡子の声は、相変わらず感情を示さない。俊輔は全身を震わせて水晶玉に飛びついた。
「やめるんだ、洋子。お前はそんなことをする娘じゃない」
 俊輔の声も祈りも、現実の世界には届かない。洋子が裸足になるのが見えた。
「お願いだ。やめさせてくれ。洋子には何の罪もないんだ」
『無理よ。これは運命だもの』
「なんだって」
『あの日のわたしと同じ、洋子さんは自分で選んだの。歩行者天国の向こうで杉山さんが待っているわ』
「杉山……、秘書課の杉山か?」
『そうよ。学生の頃からおつき合いしていたの、知らなかったようね』
「まさかそんな。だが、杉山は松原財閥の令嬢と……」
 その先は言葉にならなかった。
 水晶玉の中では、衆人環視の交差点に、全裸の女が走り出していた。
(おわり)