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第14話 両親の事故

 夕子はタクシーの後部座席で高鳴る胸を抑えていた。
 初めて入ったハプニングバー。そこで見た本物の露出マゾ女性とその痴態。大股を広げた女の園。女性同士でさえ、その部位をあれほど間近から見た覚えはない。興奮するなと言う方が不可能だった。
 警戒心が吹き飛ばされ、無防備になった心に真知子の言葉。

 ――夕子ちゃんもやってみる?

 何重にも張り巡らせていた筈のバリアーを一瞬で食い破られた感覚だった。夕子は無抵抗のままステージに引き出され、衆人環視の中で着衣を剥ぎ取られ、両足を大きく広げられている自分の姿が、目の前に浮かんでいた。
 首を縦に振るだけで良い。
 たったそれだけのことで、今まさに描いた妄想が現実になる。
 真知子のまなざしが、そう言っているように見えた。
 ステージから女王様が呼んでいるように思えた。
 黒人が、今にも迎えに来そうだ。あの太い腕に二の腕を掴まれたら、夕子など一たまりもないだろう。
 これが目的だったのか。
 真知子は最初から夕子を辱めるつもりでここに連れて来たのか。
「いやぁああああああああーー」
 夕子は叫んだ。
 その後の数分は覚えていなかった。
 気が付くと、路地裏を走っていた。表通りに出てタクシーを拾い、今に至る。衣服に乱れはない。どうやら無事に脱出できたようだ。
 夕子は美倉医師の言葉を思い出した。

 ――どんなに貞淑なご婦人でもストリーキングをさせられてしまいます

(あれも一種の催眠術だったのかしら)
 夕子は、九死に一生を得た思いだった。あと五分、いや、一分でもあの場にいたら、ステージに上げられていたのではないか。
 そう考えると、今も震えが止まらなかった。

 自宅に戻り、シャワーを浴びてベッドに飛び込む。
 壁掛け時計が時を刻む音を聞いている内に、ようやく気持ちも落ち着いて来た。ハプニングバーでの出来事を、少しだけ離れた場所から見られるようになっていた。
 あの梨花と言う女性は、真正の露出マゾなのだろう。どんな理由があったにしても、普通の女性であれば、あれ程の屈辱には耐えられない。梨花の場合は、それを何度も体験しているのだ。
 露出症の唯一の治療方法が解放≠ナあると言う理屈は、わからないでもない。
 梨花の場合で言えば、ああやってハプニングバーで解放≠オてやらなければ、いつものオフィスで、突然、脱ぎ出してしまう怖れがあり、それは破滅を意味する。そうした危機を避けるための解放≠ネのか。
 夕子は、自分の言葉に置き換えていた。

 ――夕子ちゃんもやってみる?

 真知子の言葉が夕子の耳元に取り付いて離れない。ステージの上でハダカにされて、晒し者にされるなんてあり得ない。そんな目に遭ったら舌を噛むだろう。
(私はあなたの患者じゃないわ)
 気が付くと、夕子はこの言葉を反芻していた。
 その後ですぐに梨花の裸体を思い出した。梨花は間違いなく恥ずかしがっていた。イヤよ≠ニ叫んでいた。イキたくない≠ニ請うていた。それらはすべて無視され、ショーは続けられた。
 そう。あれはショーなのだ。レイプでも拷問でもない。
 夕子が覚えた違和感の正体は、その辺にあるのだろう。梨花は明らかに嫌がっていた。ショーだからと割り切って痴態を晒す商売女には見えなかった。恐らく、そこにいた誰もが感じていたに違いない。この女は素人だと。
 何の合意もない素人女が無理やり脱がされ、縛られ、辱めを受けている。演技なしで悲鳴を上げている。だからこそ観客のボルテージも上がる。
 すべてがその通りだとしたら、なぜ誰も止めないのか。なぜ誰も通報しようとしないのか。こっそりと客席から抜け出す者がいても良いのではないか。
 その理由は一つ。女王様も、黒人も、観客たちも、目の前で行われている行為が犯罪ではないと確信しているからに他ならない。
 夕子が辿り付いた結論だった。
 となると、梨花はどうなるのか。大勢の前で痴態を晒し、醜態を晒し、極限の羞恥を味わわされる。それがわかっていて、何度もこの店に通って来る。梨花にとっては辛く恥ずかしい行為には違いないのだろう。
 だが、現実には受け入れている。望んでいるとまでは言わないが、少なくとも、絶対に避けなければならない行為ではない。警察に訴え、加虐者である店を、女王様を、あるいは澤野真知子を処罰して貰おうとは思っていない。

 ――梨花は露出症の上にマゾなのよ

 それは間違いないのだろうが、それだけでは説明がつかない。
 梨花は、辛く恥ずかしい責めを心の奥底で望んでいる。それを周囲の皆は理解している。その事実を、本人だけが自覚できていないのだとしたら……
(怖いわね)
 胸の奥に重さを感じる夕子だった。

        ◇

 翌朝、夕子は出社してすぐ、廊下で芦田弘治と行き会った。いつものように「おはよう」と声を掛けた夕子だったが、
「お、お、おはようございます」
 一応、挨拶はしたものの、明らかによそよそしい。先日、引き回しの件でからかったことが尾を引いているのか。夕子はもう忘れかけていたと言うのに。
(変な芦田君)
 そう思いながら社長室に入った。
「何かあったんですかね」
 とは、あの子の言葉か。ムダに勘だけは良い子なので、夕子もますます気になってしまった。ここに呼んで確かめようかとも思ったが、今はその時ではない。
 夕べからずっと考えていた。今日、出社したら細井に確認しようと。
 夕子は、両親の事故が有った日――正確には翌日の早朝になるのだが――細井からの電話でその報を聞いた。と同時に気を失い、病院に担ぎ込まれた。退院するまでの二週間、病院での記憶は殆ど無い。
 自宅に戻った時、両親は死に郷原は重体。との事実が刻まれていた。

 ――私にも守秘義務があるから

 澤井真知子にとって、患者は夕子だが、クライアントは細井だったと言うことなのだろう。両親は、その時すでに亡くなっているのだ。細井が病院を、医者を手配するのは当然の流れだった。
 細井が社長室を訪れ、先日のようにソファーに着座した。
「細井さん、本当のことを教えてください。両親の事故から充分な時が経ちました。私はもう現実と向き合える年齢だと思っています」
 夕子には、一つの仮説があった。
郷原が可哀想≠ニの真知子の言葉。真実を隠している細井。細井が心療内科医である真知子に夕子の診察を依頼した理由。あり得ない筈の夕子の記憶。
 それらを総合して考えた時、ぼんやりとした景色が見えて来た。
「いつかはこういう時が来ると思ってはいたのですが」
「まだ、お隠しになりますか」
「いえ。澤井先生からも連絡がありました。このままではフラッシュバックするかもしれないと。今なら大丈夫ではないかとも言っておられました」
 真知子から連絡が入っていることは、夕子としても想定内だった。
「それでは」
「はい。お話させて頂きます。ただ、私もすべてを存じ上げている訳ではございません。その点はご理解頂けているものと思われるのですが」
「細井さんがご存じの範囲で構いません」
 大人同士の落ち着いた空気の中、細井は話し始めた。
 事故の有った日の深夜、先代社長から細井に電話があった。夕子が何者かに追いかけられていると急を知らせて来た。郷原の運転する車で助けに向かうので、細井もその場所に来て欲しいとのことだった。
(やはり私は、事故現場にいたのね)
 細井が現場に到着した時、轟音が鳴り響いた。事故の瞬間こそ目撃しなかったものの、その極めて直後だった。路上に倒れている夕子を発見した細井は、夕子を抱き上げ、車に乗せてその場を離れた。
「ちょっと待ってください。私は、たいしたケガではなかったのでは」
 ベンツとトラックの衝突の方が大事故だ。第一発見者であろう細井がすべきことは、別にあったのではないか。考えたくはないが、真っ先に救急車を呼んでいたら、両親も助かっていた可能性だって……
「咄嗟の判断でした。ただ、私は第一発見者ではありません。その場から立ち去る人影も見ましたし、近所の灯りも点き始めていました。事故の対処は元より私の手におえるものではありませんでしたし、その時の私には、何よりも先に、社長を連れ出さなければならない理由があったのでございます」
 まるで用意してあったような答弁だった。
 いや、実際にそうなのだろう。細井は、あの事故があった日から、いつか夕子に話す日を想定して、この言葉を用意していたに違いない。
 だが、夕子を連れ出さなければならない理由とは何だったのか。
「すみませんでした。お話を続けて頂いてよろしいですか」
 夕子は細井の話を中断させてしまったことを詫び、改めてその先を求めた。核心はむしろその先にある。そうした予感が夕子を支配していた。
 細井は、より一層、言葉を選ぶように話を続けた。
 夕子を車に乗せた細井は、時間をわきまえず、澤野真知子に連絡を入れた。夕子を診て貰うためだ。外傷が見当たらない以上、これは心療内科の範囲だと判断したのだと言う。真知子は快く受け入れてくれた。救急扱いで、当時、真知子が勤めていた大学病院へ搬送されることとなった。
 夕子は、翌朝、電話で凶報を知らされたのではなく、目の前で目撃していたのだ。
 そのショックは大きく、精神崩壊を起こしかけていた。それはそうだろう。両親は自分の電話で呼び出され、その結果、事故に遭ったのだから。
(私が殺したようなものってこと……)
 胸が茨で締め付けられているようだ。聞かなければ良かったと、夕子の中に、少なからず後悔の念が浮かんでいた。
 十数年経った今でさえ、その衝撃は計り知れない。
 まして、当時の夕子――両親の死を目撃した直後の夕子では耐え切れない、そうした判断から催眠治療が行われ、事実は隠ぺいされた。夕子は、記憶の一部を消されていたことになる。
「澤野先生って、細井さんの愛人ではなかったのね」
 この軽口は、細井への感謝から齎されたものだと言って良いだろう。夕子は心の内に、わずかに温まる物を感じていた。
「そう思って頂いても構いませんが」
 夕子は軽く吹き出しそうになった。
「細井さんが、そういう冗談を言うとは思わなかったわ」
 そこまで気を遣って頂かなくても大丈夫ですよ、と続けたが、細井は微妙な表情を浮かべながら、
「この辺でよろしかったでしょうか」
 もう、腰を浮かそうとしていた。
「待ってください。もう一つ肝心なことが残っていますわ」
 すべてを知っている訳では無いと言っていた細井だが、少なくとも後一つは隠していると、夕子は確信していた。

 ――何よりも先に、社長を連れ出さなければならない理由があったのでございます

 細井が先程口にした理由≠ニいうやつだ。
 事故の通報よりも、いや、考えようによっては両親の生死よりも大切な理由とか何か。夕子には、何も思い当らなかった。
「やはり、そこですか」
「はい、そこです。細井さん、今、逃げようとなさいましたよね」
 細井は一度目を逸らし、フッと一つ息を吐いた後に、
「逆にお尋ねしますが、社長はどこまでご記憶なのでしょうか」
 質問に対して質問で返すなど、余程言い辛い内容なのだろう。それは、これまでの細井の様子からも感じ取れていた。
「何かから逃げている自分と、父のベンツを運転している郷原さんの姿、それにトラックと衝突するところ……」
 言っていて胸が苦しくなった。
 両親の死の場面、あれはおかしな記憶なのではなく、現実だったのだ。思い出したくない記憶に、夕子は言葉を詰まらせた。
「やはり今日のところはこれくらいにしておきましょう。残りは澤野先生からお聞きになった方がよろしいかと思われます。私から申し上げられることも、残りわずかでございますから」
 夕子も、その方が良いように思えた。
 真知子に会うと言うのが少々気になるところだが、細井の口、と言うより男性の口からは言い辛いことなのか。それとも、医師である真知子から聞いた方が適切な内容であるからなのか。
 いずれにしても、
「今度こそ催眠術でストリーキングですね」
 あの子が嬉しそうに微笑む。細井が社長室を出て行くと、早速、これだった。
 事故の真相を聞きに真知子を訪れたら、今度こそ脱がされてしまうに違いないと思っているらしい。
「誰が催眠術になんかに」
 かかるものですか、と吐き捨てる夕子だったが、
「だって、今も澤野先生の催眠術で、記憶を消されたままなのでしょ」
 それを言われると返答ができない。
 治療の必要があって処置された記憶の改ざんだ。専門家が正しいと判断した物なのだから文句も言えない。夕子自身、感謝すらしていた。
 それでもまだ、自分の知らない出来事が自分自身の身に降りかかっていたとなると、気持ちは複雑だった。
 知らないままで良いのだろうか。
「自分のことですからね。知らなくて良い記憶なんて無いと思うけどなぁ」
 あの子の言うことももっともだが、
「私が澤野先生に会いに行くように仕向けているとしか思えないわよ」
「えへっ、バレました?」
「もう。本当にこれだもの」
 何だかんだ言っても、あの子と話して気持ちの落ち着いた夕子は、その場でデスクの受話器を取り、米倉クリニックに電話を入れた。
 来週早々に澤田真知子の診察予約を取り、受話器を置いた途端、内線電話の呼び出し音が鳴った。
『社長に桑谷様からお電話が入っています』
 章雄からだった。職場に掛けて来るのは珍しかった。
『僕だけど、仕事中にゴメン。今少し、大丈夫かな』
「ええ、大丈夫よ。何かあったの」
『両親に話したんだ。夕子さんがプロポーズを受けてくれたって。二人とも喜んでくれたよ。それで早速ご挨拶がしたいと言っているんだ。急なんだけど、来週の金曜日に時間が取れないかな。できたら夕子さんの会社も見たいと言っているんだけど』
 章雄の両親がここに来るというのか。
 以前から感じていたことではあった。章雄の両親はせっかちと言うか、強引と言うか。いずれにしても、息子の章雄とは大違いだった。
 夕子はスケジュールを確認すると、
「十二時で良いかしら。会社を見て貰った後、お食事にしましょう」
『良かった。そのように伝えておくよ』
「ご両親によろしく」
『ああ。楽しみにしているよ』
 電話が切れた。章雄にしたところで仕事中だったのだろう。夜までは待ち切れなかったと言うのも章雄らしい。ボンボンと言うか、子供っぽい性格なのだ。
(用意周到で虎視眈々の誰かさんとは大違いね)
 夕子は、いつの間にか章雄と郷原を比べている自分がおかしかった。


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