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第7話 牝犬のお散歩

 洋太たちの食事が済むと、桜子は、狸吊りから開放された。
 ロープを解かれても、うまく動かない。手も足も、指先まで痺れていた。肩と足の付け根にも、違和感が残っていた。吊られていたのは、時間にすれば、十五分くらいだったと言うのだが。
 桜子は、地面に身体を横たえた。横向きに背中を丸めているのが精一杯だった。髪にも、頬にも、土が付いていた。動けなくても、首輪は鎖で繋がれていた。
「少しは懲りたかえ」
 老婆の足元だけが見えた。「はい」とだけ答える桜子を、ストロボの瞬きが包んだ。
 桜子が動けるようになるまで、洋太が頭を撫でてくれた。時折、乳房にイタズラをされたりもしたが、怒る気もしなかった。側にいてくれるだけで、嬉しかった。
 真夏の日差しが照り始めた頃、老婆がエサ皿を持って来た。
 朝食は、ご飯にみそ汁を掛けただけだった。
 桜子の手首をさすりながら「大丈夫か」と気遣う洋太。空腹に染みる臭いに「うん」と起きあがる。犬になって二度目の食事だ。「犬嫁は、食事の際に手を使わせてはならない」。桜子は、地面に置かれたエサ皿に顔を突っ込んだ。ストロボの瞬きも、もう気にしないことにした。
 エサ皿が空になり、桜子は顔を上げた。老婆が顔を拭いてくれるはずだったのだが、「こっちへ来んせい」と鎖を曳かれた。みそ汁とご飯粒にまみれた顔で、四つ足を動かしていく。
 檻の前に、ブルーシートが広げられていた。さっきまで檻に掛けられていたものだろう。桜子は、その上に乗るように言われた。
「ほれ、身体を洗ってやるでな」
 老婆は、散水用のホースを持ち出すと、蛇口を捻り、桜子の頭から水を掛けた。最初こそ冷たかったが、すぐに慣れた。
 地面に転がっていた桜子の身体は、思った以上に汚れていた。あちこちに細かい擦り傷もできていたらしい。スポンジで擦られると、沁みる箇所が多かった。股間を洗われた時には、思わず「あっ」と声を出した桜子だが、老婆は気にする様子も見せなかった。
「じっとしておれ。犬は、自分で身体を洗わんものじゃ」
 桜子は、ここでも四肢を踏ん張ったまま、何もさせて貰えなかった。
 一通り洗い終わると、大きなバスタオルでくるまれた。赤ちゃんが母親にされるように身体を拭かれた。髪が乾くと、ブラシも入れてくれた。
「犬嫁でも、毛並みは大切じゃからの」
 所詮は「犬扱い」なのだ。私服に着替えた洋太は、遠巻きに見ているだけだった。
 身だしなみが済むと、老婆は鎖を洋太に渡した。
「散歩に連れて行ってやりなされ」
 打ち合わせができていたようだ。洋太は「行くぞ」と桜子の首輪を曳いた。首が締まるので付いていくしかない。洋太は庭を横切り、石壁に外に出ようとしていた。
「どこに行くの」
 四肢を進めながら、桜子は不安に募る。この先は、誰もが通る往来だ。一糸まとわぬ姿で歩く場所ではない。
「嫁入りの次の日は、お披露目なんだって。村中を曳いて回るのが習わしらしい」
 二人は、昨日、港から歩いて来て道に出ていた。この犬の姿を、人前に晒さなければならないのか。桜子は、生きた心地がしなかった。そんなバカなと思いながらも、反抗しようと思わない自分が、不思議でならなかった。
 洋太は、港とは反対の方向に向かって歩き出した。立ち上がることが許されない桜子は、時折、首を捻って洋太の顔色をのぞき見た。
「そんなに遠くまで行かないさ」と、洋太は、足を休めることもない。老婆の家から離れていくにつれて、桜子の胸に鉛が溜まっていくようだ。洋太は、意識してゆっくりと歩いてくれているのだろうが、四つん這いの桜子は、付いていくのがやっとだった。
 小高い丘に出た。低い草の茂みに、広葉樹が大きな木陰を作っていた。真夏の日差しに汗を滲ませた身には、心地よい場所だった。
 洋太は、木の幹に桜子を繋ぐと、根本に横になった。お披露目をする気はないらしい。両手を枕にして昼寝のポーズだ。
「帰ろうよ」と、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 洋太の寝息が、聞こえ始めた。
 どうしたら良いか、わからない。このまま洋太が寝てしまったら、ずっと道ばたに繋がれているしかない。いつ人が通っても、おかしくない場所なのだ。桜子は、四つん這いのまま、周囲に気を張り巡らせた。
 誰も来なかった。
 普通に服を着た洋太と、首輪以外は丸裸の桜子。昨日から、ずっとこの状態が続いている。二人の中では、これが当たり前になっている。こんなことを一年間も続けたら、人間に戻れなくなってしまうのではないだろうか。
 桜子は、洋太の頬に顔を寄せ、舌を出してペロリと舐めた。
「ううーん……」
 洋太が伸びをした。これまでにも何度もあった光景だ。目を覚ました洋太が、ハダカの桜子を押し倒す。夕べの続きが始まるパターンだった。
 洋太は、桜子の頭を撫でただけで立ち上がり、繋いでおいた鎖を外した。
「帰るか。喉が渇いただろう」
 二人は、来た道を歩き出す。何を期待していたのだろう。散歩に連れて来て貰っただけなのにと、桜子は自分の立場を思い出した。
 散歩から戻ると、縁側の柱に繋がれた。日中は、ここが定位置らしい。居間から目に入る場所だ。縁側の脇には犬小屋が設置されていた。
「日差しが強いでの。中に入っておるがええ」
 老婆は、水皿を犬小屋の前に置いた。水着の跡もない真っ白な肌に、沖縄の日差しは厳しい。桜子は、犬小屋に入った。もう手遅れかもしれないが。
 古い木造の犬小屋だが、中はきれいに掃除してあった。元々、犬嫁用に作られた物なのだろう。獣の匂いはしなかった。反転できるくらいの広さはあった。
 手足を折りたたみ、入り口から外を見ていた。
 何もすることがない。頭を動かすたびに、ジャラジャラと鎖の音がした。洋太が来て、かまってくれないかと、そればかり考えていた。
 もう随分と長い間、ほったらかしにされていた。桜子は、ふと呟いた。
「私、ずっとこのままなのかなあ」
 帰り支度を済ませた洋太が犬小屋の前に来て「それじゃ、元気でな」とか言って立ち去る。老婆にも「お願いします」くらいは言うかもしれない。それきり、振り返りもせずに遠ざかっていく。
 何も言わずに、黙って見送る桜子……
 そんな妄想が頭を過ぎった。あり得ない話だが、それでも良いと思う気持ちが、桜子の中に芽生えていたのかもしれない。


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