第8話 犬嫁修行
お昼まで放っておかれた桜子は、三度目の犬の食事を済ませると、首輪を外された。「お風呂に入りなされ」と勧める老婆。どうやら、犬嫁ごっこは終わりらしい。
桜子は、返事を保留にしたまま、浴室へと案内された。
暖かいお湯、シャワーノズル、リンスインシャンプー。いつも使っている品物が新鮮に見えた。日に焼けた肌が少しヒリヒリした。湯船で顔を洗いながら、「これで終わりなのね」と、桜子は呟いた。
下着を着け、ワンピースに着替えた桜子。ドライヤーを掛け、ブラシも入れた。ハダカではなくなった自分を鏡に映すと、胸の内がざわざわした。身繕いの済んだ桜子を、洋太が後ろから抱き締めた。
帰りの船の時間が迫っていた。二人は、玄関で老婆に頭を下げた。「また来なされや」という老婆の言葉に、桜子はドキッとした。
港に続く道を、洋太と桜子は並んで歩く。
二人とも無口だった。それぞれに思うところはあったのだと思う。桜子にしてみれば、洋太にプロポーズさせるための積もりが、思いも寄らない体験をしてしまったわけだ。鉄格子の残像と首輪の感触が、脳裏に焼き付いていた。
もうすぐ港というところまで来て、洋太が口を開いた。
「なあ、桜子。犬嫁になった感想を聞かせてくれよ」
本当はもっと前に聞きたかったようだ。子供のような無邪気な好奇心と、大人の計算高い感情が入り交じっているのだろう。
「ひどい風習だと思っていたけど、案外、悪くないかも……」
正直な感想だったが、口にするのは照れくさかった。以前の桜子だったら絶対に認めなかったかもしれない。
「今朝の汁掛け飯だって、鮭の切り身が、俺のと同じ分だけ入ってたんだぜ。あの細い目で、骨をしつこく拾ってた」
「ふーん」と息を漏らす桜子。朝、檻に掛けられていたブルーシートを思い出した。
「なんだ。気づいてたのか」
洋太が、桜子の変化に気づいたらしい。
「ううん、ご飯のことじゃなくて……」
繋がれるのも、吊されるのも、いつも居間から見える場所だった。夜は檻に入れて鍵を掛けるのも、犬嫁を逃がさないことだけが目的なのか。
「女がハダカで外にいるなんて、レイプしてくれって言ってるようなものだものね」
桜子は、歩いて来た道を振り向いた。
港に着いた。迎えの船が碇を下ろし、人だかりができていた。
桜子は周囲を見回す。港の中心部、どこからも見える場所に櫓が立っていた。それほど高いものではないが、港に出入りする際には、必ずその下を通るようになる。
「私、あそこに吊されるはずだったのよね」
桜子が呟いた。
「良かったな、本物の犬嫁じゃなくて。桜子だったら、一日だって我慢できないだろう」
洋太に言い当てられ、「もう、バカ」と背を向ける桜子。もう一度、ハダカで檻に入れられたら、オナニーをしないで過ごせる自信はなかった。
「結婚が決まって桜子が会社を辞めたら、一ヶ月くらい、おばあさんに預けるというのも良いかもな」
洋太が意味ありげに、桜子の顔を覗き込む。
「なんで私が会社を辞めるのよお」
精一杯、強がって見せる桜子だが、気持ちはすでに檻の中だった。
(おわり)
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