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第3話 売られた美雪


        1

 何度試しても、南京錠の鍵は回らなかった。
 指先に食い込んで痛かった。それでも諦めるわけにはいかない。檻の扉を、力いっぱい押してみた。反対側の鉄格子に足をつっぱって、思いっきり力を入れた。
 犬は、多分、こんなことをしない。もしかしたら意外に脆かったりしないかと、期待したのだけどダメだった。
 横に渡された太い鉄の棒が、檻の扉をしっかりと塞いでいた。
 逆に、足で蹴ってみた。素足で鉄格子を蹴るのだから、大した力にはならない。せめて靴を履いていればと思った。
 鉄格子の隙間から、床に手を伸ばした。肩の付け根が板敷きの角に擦れた。それでもサンダルには届かなかった。
 肩を鉄格子にぶつけてみた。
 ムダなのはわかっていた。素肌に鉄格子が食い込むだけ。大人の男性だって、この状況では逃げ出すことはできないだろう。
 私は、汗だくになった身体を、板敷きに下ろした。

 檻から出られない。

 背筋の汗が冷えていくのを感じた。
 非常灯の明かりが一つ。薄暗い店内は静まりかえっていた。お店に忍び込んだ時には、多少、声を上げていた小犬たちも、今は大人しくなっている。微かな寝息が、聞こえたりもした。
 南京錠が開かなくなるなんて、考えもしなかった。
(ケータイで助けを呼べば……)
 思いついた名案も、すぐに消え失せた。携帯電話はポーチの中だ。檻から出られない私には、どうにもならない。
 手元にあったにしても、誰を呼ぶというのか。
 このままでは、家に帰れない。朝までこうしているしかない。明日、お店に出て来た玲子さんに、この姿を発見されるのだ。
 ハダカで檻に入り、出られなくなった私……玲子さんは、どう思うのだろう。「美雪ちゃんの檻だもの。いつでも入って良いのよ」と、許してくれるかしら。
 こんなはずじゃなかったと、いくら後悔しても遅かった。ついさっきの妄想が、現実のものとなってしまったのだ。
 檻に入る前に、南京錠が開け閉めできることを、確認しなかったのがいけなかった。
(でも、どうして鍵が回らないの?)
 あの時、玲子さんは確かに、この南京錠から鍵を抜いた。それをそのまま渡してくれた。
 間違うわけがない。だったら、わざと……?
 私が、玲子さんに騙された、そう考えれば説明がつく。
 でも、なんで?
 玲子さんが、そんなことをするわけがない。
 だったらなんで鍵が開かないの?
 何がなんだか、わからなくなっていた。
 経緯はともかく、私が、檻から出られないという事実に変わりはない。
 生まれて初めて「絶望」という言葉が頭に浮かんだ、その時だった。

 突然、明かりが点いた。
 誰か来た。
 それだけで、心臓が凍る思いだった。

 足音は、まっすぐに近づいてきた。
「やっぱり来たわね」
 玲子さんが、檻の前に立った。合鍵を持っているのだから、いつでも入って来られるのは当たり前だけど、「やっぱり」って……
「美雪ちゃん、わかりやすいわ」
 玲子さんは、檻の前で膝を折った。
 昼間のように明るくなった店内。私の裸身が、はっきりと見えていた。玲子さんにもらった首輪をしているところまで。
 恥ずかしさがこみ上げた。
 ハダカを見られてしまうから、だけではない。それ以上に、自分からハダカになって檻に入るという行為を、玲子さんに知られてしまうことが恥ずかしかった。
 檻の中には、隠れるところなどない。私にできることと言えば、奥の鉄格子に身体を押し付けることくらいだった。
「いやあ」
 思わず、口に出ていた。
「いやじゃないでしょう。住居不法侵入の現行犯よ」
「だって……」
(それって、どういうこと?)
「朝になったら警察を呼んで引き渡すから、それまでそこで大人しくしていなさい」
 こんなに怖い顔をした玲子さんは、見た覚えがない。警察を呼ぶって、まさかそんな大事になるなんて、思ってもみなかった。

        2

 警察が来たら、私はどうなるのか。
 玲子さんだけでなく警官にもハダカを見られて、それでも現場保全だと言って檻から出してもらえず、新聞社のカメラマンに写真を撮られて、テレビのニュースでもこの恥ずかしい姿を報道されて……
 もちろん、家にも学校にも連絡されてしまうだろう。クラスメイトにも知られてしまい、学校でも噂になってしまうのだろうか。
「ごめんなさい。ちょっとした好奇心だったんです。許してください」
 私は、まだ、半信半疑だった。玲子さんが、本気で言っているとは思えない。
「ダメよ。信頼してたのに」
 ぷいっと目を背けた。いつもの優しい笑顔は、どこにもない。玲子さんの言葉で気づいた。私は、玲子さんの信頼を裏切っていた。
 毎日、顔を合わせているとは言っても、他人には違いない。黙って他人の家に入れば、怒られても仕方がないのだ。
「そんなつもりは、なかったんです。本当にごめんない」
 玲子さんは、返事をしてくれなかった。
 本気で警察に引き渡すつもりなのか。
 私は、玲子さんにすがり付いてでも、許しを請いたかった。でもそれを、赤い鉄格子が許さない。
「警察に引き渡すのだけは、勘弁してください。お願いします」
 私は身を乗り出し、両手で鉄格子を握った。
 聞こえているはずなのに、玲子さんはピクリとも動かない。顔を逸らしたまま、腕組みをしている。
「ごめんなさい。なんでもします」
 いつもの玲子さんなら、許してくれると、心のどこかで思っていた。
「ホントに?」
 玲子さんが、口を開いた。
「えっ、は、はい」
 私は、すがるような思いだった。
「ホントになんでもするのね」
 今がチャンスだと思ったやっと玲子さんが、その気になってくれたのだ。
「はい。許してもらえるなら、なんでもします」
「約束よ」
 顔を戻した玲子さんは、私に微笑んでくれた。
「ありがとうございます」
 涙がこぼれた。
 良かった、本当に良かったと、心の中で何度も繰り返した。あの優しい玲子さんが、いつまでも怖い顔をしているだけで耐えられない。
 笑顔に戻ってくれて良かったと、心から思った。
「それにしても、本当に何にも着てないのね」
 玲子さんに言われて、自分の姿を思い出した。丸ハダカなのに、両手で鉄格子を掴んでいた。恥ずかしい部分を、どこも隠してはいなかった。
「いやあ」
 さっきと同じセリフだった。私は、また檻の奥まで引っ込んで、身体を丸めた。
「真っ白で綺麗な肌をしているわ。でも、おっぱいは、これからって感じね」
「見ちゃダメです」
 檻の中を覗く遠慮のない視線に、肌を焼かれた。
「ヘアーも薄いみたいだし」
「そんなとこまで……」
 今はもう怒っていないみたいだけど、玲子さんの言葉は、私を恥ずかしくするばかりだ。わざと言っているのだろう。
 身体を隠す手段は、二本の手しかない。
 気休めに過ぎないことはわかっていても、身を揉んでいるしかなかった。耳を塞ぐところまで、文字通り手が回らない。
 不法侵入を許してもらったばかりで「やめてください」とも言えず、羞恥に耐えた。

        3

「今夜、私が来なかったら、どうするつもりだったの」
 やっと話題が逸れた。
「えっ、だって鍵を持ってたから、いつでも出れると思って……」
「あ、そうか。これね」
 玲子さんは、南京錠に刺さったままになっている鍵を抜いた。
「檻を処分するのに、鍵がないままではまずいので、取り替えたのよ」
「そんな……」
 ひどいです、と言いそうになって思い留まった。言っていたら、話が元に戻っていたところだ。玲子さんに騙されたわけではないとわかり、ホッとした。
「お洋服はどうしたの」
 ちょっとドキッとしたけど、正直に答えた。
「カウンターの影です」
 玲子さんは「そう」と立ち上がり、檻の前から離れた。
 カウンターのほうに歩いていって、何かをしていた。用事があって来たのだろうから当然だけど、檻の南京錠は掛かったままだった。
「玲子さん」
 私は、声を絞って玲子さんを呼んだ。
「何かしら」
「あのう、そろそろ出してもらえませんか」
 今の私にとって、一番の望みだった。
 携帯電話の着信音が鳴った。私の着メロではない。お店の固定電話でもなかった。
「ちょっと待ってね」
 玲子さんが携帯電話を耳に当てた。
「はい、玲子です」
「あら、慶子さん。ちょうど良かった。これから連絡するところだったんです」
「はい、その件は予定通りに。早速、調教始めますね」
「今から? いいけど、お店までいらっしゃいますか」
「はい、それではお待ちしています」
 電話を切ると、玲子さんは私の服とポーチを持って、檻の前に戻って来た。
 これでやっと服が着られると思ったのだけど、玲子さんは立ったまま、片手でポーチを開き、中を覗き出した。「えっ」と思ったけど、どうせ中身は携帯電話だけだし、文句を言うのは止めておいた。
「今の電話、慶子さんじゃ……」
「そうよ」
 相手の声は聞こえなかったが、今からここに来るような内容だった。
 慶子さんが来たら大変なことになる。
 それに「調教」って……警察に突き出されずに済みそうだけど、さっきから、何か嫌な予感がしているのは、気のせいだろうか。
「遅くなっちゃったわね。お家の人、心配しているんじゃないの」
 玲子さんは、ポーチから私の携帯電話を取り出すと、勝手に何やら打ち始めた。そんなことをする人だとは思っていなかった。
 何をしているのか、わからない。
 それよりも、私は一刻も早く、ここから出なければならない。慶子さんにまで、こんな姿を見られてしまう。
「玲子さん、あの、鍵を……」
 気持ちが急いていた。
「もうちょっとだけ待ってね……うん、これでいいかしら」
 玲子さんは、携帯電話の画面を、私に見せた。
『やりたいことが見つかりました。探さないでください』
 お母さん宛のメールだった。
 一体どういう意味だろうか。これでは、まるで家出をするみたいだ。何と返事をして良いのかわからず、私は携帯電話の画面と、玲子さんの顔を交互に見た。
「美雪ちゃんは、お家に帰れないでしょ」
 玲子さんは、送信ボタンを押した。
 おかしな言い方だと思っていると、「送信が完了しました」と、表示された画面を見せられた。
「ここから出してくれないんですか」
「ええ、ダメよ」
「でも、これから慶子さんが来るんじゃ……」
「そうよ」
 なんでもないことのように、玲子さんは答えた。

        4

 玲子さんの考えていることが、わからない。私のこんな姿を慶子さんにも見せて、二人でからかおうというのか。
 ふと思い当たり、「あっ!」と息を呑んだ。
 さっきの電話……玲子さんは「予定通り」と言っていた。「これから連絡するところ」とも言っていた。私がこうなることは、予定されていたのだろうか。
「ねえ、美雪ちゃん。そもそも、なんで檻になんか入る気になったの」
 私の中で、玲子さんへの疑惑が大きくなっていった。
「知りません。早く出してください」
 そんなことを話している場合ではなかった。
 いい人だと思っていた玲子さんが、実はとっても悪い人で、慶子さんと二人で、私に何かをしようとしている……?
 あのやさしい玲子さんが……?
 頭が混乱していた。
 それでも、このままここにいたのではマズイと、心の底から呼びかける声が、聞こえていた。
「大事なことなの。よく思い出して」
 玲子さんは「んっ?」というふうに頭を傾けた。
 こうしていると、悪い人には見えない。信じて良いのか。私は、玲子さんの視線を避け、床に目を落とした。
 雨宿りのために入ったペットショップで、この檻を見つけた。
 理由もわからず、毎日通うようになった。
 玲子さんから首輪をもらい、家でこっそり付けるようになり、檻が空になると、玲子さんは私の名札を掛けて南京錠の鍵をくれた。
 その檻が処分されると聞いて、私は今、ここにいる。
「思い出した?」
 私は顔を上げた。これってもしかして……
「どうやらわかったみたいね」
 薄笑いを浮かべた玲子さんの表情をどう理解したら良いのだろうか。決して怒っているわけではないのに、背筋が寒くなった。
「可愛いお洋服だけど、もういらないわね。後で捨てておくわ」
 何かが胸に刺さった。
「ずっと、ハダカのままに、させておくつもりですか」
「そうよ」と、玲子さんが当たり前のように応えた。笑顔こそ崩していないけど、マネキン人形のように見えた。
「出してください。ここから出して」
 私は、鉄格子を掴んで揺すった。そんなことをしても、ここから出られないのは、さっき散々試していたのに。
「ダメよ。美雪ちゃんには、犬になってもらったんだから」
「私は人間です。早くここから出してください」
 玲子さんの顔など、もう見ていなかった。
「あら、人間の女性だったら、ハダカで檻に入ったりなんかしないでしょう」
「だからこれは……」
「それにもう手遅れみたいね」
 お店の外で、車が止まる音がした。私が入ってきたドアが、開いたようだ。それがどういうことか、考えるのも怖かった。
「こんばんは」
 玲子さんが、檻の前を離れ、来訪者を出迎えた。
「お待ちしていましたわ。どうぞこちらへ」
 慶子さんが、姿を現した。
 私は鉄格子を離し、肩を抱いて身体を丸めた。そんなことをしても、事態の解決にはならないのは、わかっていた。
 また一人、恥ずかしい姿を晒してしまった。
 このまま檻から出られなかったら、ずっとこうして羞恥に耐えるしかないのか。
 慶子さんが、膝を折って檻に顔を近づけた。
「そんなに恥ずかしいの」
 私は、何も言うことができなかった。
「あなた、可愛いわね。女性同士なのに、そんなにハダカを恥ずかしがるなんて」
 公衆浴場に、ハダカでいるわけではないのだ。普通に衣服を着た女性の前で、私一人がハダカなのだ。しかも、首輪を付けて檻に閉じこめられている。
 恥ずかしくないわけがない。
「頂くわ。お支払いは小切手で良かったわね」
 慶子さんは立ち上がると、セカンドバッグの中から一枚の紙を取り出して、後ろにいた玲子さんに渡した。
 玲子さんより年下のはずなのに、いかにも「私はお客様です」という態度だった。

        5

「はい、確かに」
 玲子さんが、渡された紙片を見ながら、返事をした。
「これで取引は完了ね」
「ありがとうございます。領収証は、どうしますか」
 前にも、こんなやり取りを見ていた。
「いつも通り会社宛で。但し書きは、品代でいいわ」
 玲子さんが領収証の束に書き込みをすると、レジから収入印紙を出して、貼っていた。いくらのものだかわからないけど、少なくとも二百円ではなかった。
「引き渡しはどうするの」
 領収証を受け取り、慶子さんが尋ねた。
「一通り調教してからと思っていますが、すぐにお連れになるなら表にトラックが用意してありますわ」
 このやり取りは何なのだろう。
 私は気の遠くなるような思いで聞いていた。小切手とか領収証とか引き渡しとか、いつも玲子さんがしている仕事の内容そのままだ。
 領収証の切り方は、私も教えてもらっていた。
「玲子さん、これってどういうことですか」
 私は、慶子さんを飛び越して、後ろの玲子さんに訊いた。
「あら、言ってなかったの」
 慶子さんの声だ。
「はい、まだ。でも、本人もある程度は、わかっているはずです」
「ある程度ねえ。だったらはっきり言ってあげるわ。あなたは私に買われたの」
 耳を疑いたくなるような言葉だった。
「約束したでしょう。なんでもするって」
 玲子さんが、慶子さんの隣に、張り付くように膝を折った。
「玲子さん……」
「さっきも言ったでしょう。美雪ちゃんには犬になってもらったの。そして、慶子さんに売ったの」
 私が売られた……?
 俄には理解できない。でもそれは……いえ、そう考えると、すべてがつながっていくようだ。
「それって、人身売買って言うんじゃ……」
 私は、頭に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。
「難しい言葉を知っているのね。でもそれは人間の場合。お客さんに、可愛い小犬を売るのが、私の仕事なの。知っているでしょ」
 不法侵入の罪で警察に引き渡さない代わりに、なんでもすると約束させられた。
 その「なんでも」が、ペットショップの犬になることだったらしい。
 買い手は、すでに決まっていた。表のトラックが、私を運ぶためのものだったなんて。この檻ごと慶子さんのお宅に連れて行かれるのか。
 そこで一生、犬として飼われるってことなの……?
 もう何が何だかわからない。
 理解不能な出来事が、目の前で起きていた。
 ペットショップの軒下で雨宿りをした日に、私の髪をタオルで拭いてくれた玲子さんは、小犬の話を楽しそうに聞かせてくれた、あのやさしい玲子さんは、あの時、あの瞬間から計画していたのだろうか。
 私は、玲子さんの思うがままに導かれ、今を迎えているということなのか。
「いやぁああああああああああああーー」
 あらん限りの大声で叫んだ。こんなに大きな声を出した記憶はない。喉の奥が切れたように痛んだ。
 息が続かなくなると、
「私は犬じゃない。犬じゃない……」
 呪文のように何度も繰り返した。何が正しくて、何を信じたら良いのか、私には、全然わからなくなっていた。
「この様子では、引き取るのは無理ね。調教をお願いするわ」
「わかりました。お任せください」

 調教……

 ぼんやりとした意識の中で、私は、その言葉を聞いた。

        6

 まだ、外は暗かった。
 どれくらい時間が経ったのだろう。店内の明かりは消え、人の気配はなかった。
 狭い檻の中。私は、首輪をしただけの全裸だった。
 鉄格子の天井は低く、立ち上がることもできない。堅い板敷きの上に、素肌を横たえていた。
 いつまで、こうしていなければならないのか。
 檻から出られないのは、やっと理解した。でも、自分が売られたという事実を、どう理解したら良いのか、わからなかった。
 このままでは、家に帰れない。
 学校にも行けない。志帆や他のクラスメイトたちにも会えない。
「誰か、助けて……」
 声に出していた。
 ここから出してくれる人なら、誰でも良かった。虫の良い話だとは、わかっていた。私がここにいることを、誰も知らないのだから。
 何も状況が変わらないまま、時間だけが過ぎていく。
 私は、明日からどうなるのだろう。
 玲子さんは、私を調教すると言っていた。この前、どこにでもオシッコをしてしまうと言っていたチワワみたいに。
 お尻をムチで叩かれたり、するのだろうか。
「そんなのヤダよ」
 と言っても、聞いてはもらえないだろう。私は「犬」なのだから。
 調教は怖かった。
 でもそれ以上に、やさしかった玲子さんが、私を調教すると言っていることが怖かった。
 どこまで本気なのだろうか。
 今、ここにこうしている事実だって、何かの間違いと思いたい。
 朝になったら、お母さんが立っていて「夜遊びする子には、お仕置きが必要なの」とか言ったりしないだろうか。
「お母さん……」
 騙されているのでも良い。
 目が覚めたら、ベッドの中というオチで良い。
 私がお金で売られたという出来事がウソなら、笑われるのも構わない。少しくらい恥ずかしい思いだって耐えてみせる。
 檻の扉に掛かった南京錠が、今の状況をウソではないと訴えていた。
 ここには何もない。
 足もまともに伸ばせない、この狭い空間だけが、私に与えられたすべてだった。
 夜が明けても、ここから出られないのだろうか。
 お店が開けば、お客さんも入って来る。『美雪 牝 十四歳』の名札を見て、私をどう思うのだろうか。
 知らない人だけなら、まだいい。近所の人が入って来たら……
 クラスメイトが入って来たら……
 志帆には、絶対に、この姿を見られたくない。
 健太……?
 なんでこんな時に健太の顔が浮かぶのだろう。
 だったら、むしろ里見先生だ。
 男性にハダカを見られるのは恥ずかしいけど、里見先生なら、きっと何も言わずに助けてくれる。大きな掌で、頭を撫でてくれる。
 頭が、おかしくなったのだろうか。
 ハダカで檻に閉じこめられているというのに、気持ちが落ち着いてきた。四方を鉄格子に囲まれた場所に、不思議な既視感を覚えた。
 檻に入った記憶などない。
 それなのに、どこか懐かしい感覚が、ここにはあった。
 いずれにしても、私は、もう外には出られない。檻に閉じこめられるというのは、こういうことなのだと思い知らされた。
 ――そもそも、なんで檻になんか入る気になったの
 玲子さんの言葉が思い出された。
 直接の理由は、檻が処分されると聞いたからだけど、檻に入ってみたいと思ったのは、もっと前からだった。
 シベリアンハスキーがいなくなってから? それとも首輪を付けるようになってから?
 いえ、多分、もっとずっと昔からだ。
 ペットショップでこの檻を見る前から、私には、檻に対する憧れみたいなものがあったに違いない。
 動物園で、檻の中のチンパンジーを見た時も、テレビでサーカスの猛獣たちが檻に入れられているシーンを見た時も、鳥かごに入れられている小鳥を見た時でさえ、私は、同じ思いを抱いてきた。
 それが、たまたま玲子さんのお店で表面に出ただけ……
「落ち着いたようね」
 玲子さんの声に、私は心臓が飛び上がった。

        7

 慶子さんを見送った後、帰ったとばかり思っていた。玲子さんは、丸イスに腰掛け、遠巻きに私を見ていた。
「いたんですか」
 今まで、気づかなかったのが、不思議なくらいだ。
「自殺でもされたら、かなわないから」
 玲子さんなりに、心配していたと言いたいのか。
 偽善的な言葉にも聞こえた。「私を売ったくせに、何を今さら」と、恨み言が、そのまま言葉になった。
「お金を受け取ったんですから、私が死んでも、かまわないんじゃないですか」
 気が付くと、窓の外が白み始めていた。一晩中、あの椅子に座って、私を観察していたのだろうか。
「あのお金なら、保留にしたわ」
 意外な言葉だったが、ウソを言っているとは思わなかった。
「保留……ですか」
「そう。美雪ちゃんを引き渡す日までね」
 引き渡す……
 檻の中の私は、ペットショップの商品という意味か。
「私を、どうするつもりですか」
 声が小さくなっていた。お金を保留したと聞いて、少しだけ期待した自分が、バカに思えた。
「聞いてなかったの」
 玲子さんが立ち上がり、檻の前まで来て膝を折った。鉄格子を挟んで、私と目の高さを合わせる
「美雪ちゃんを調教するのよ。従順なペットになれるようにね」
 玲子さんの目が怖かった。
 それでも私は、目を逸らさなかった。両手を前に付き、玲子さんと向き合う。そうしていれば「ウソよ」と言ってくれるような気がした。
 きっちりと結んだままの唇。
 下瞼が重くなっていく。重力に負けて、こぼれ出すのも時間の問題だと思った。
「ワンちゃんは、泣かないものよ」
 玲子さんが立ち上がった。
(もうダメ。私は犬にされちゃう)
 板敷きに雫がこぼれた。
 東南アジアの子供達が売り買いされているという話は、聞いた覚えがある。でも、まさか日本で、自分が売られるなんて。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
「檻の中で過ごすのって、どうかしら」
 玲子さんが、檻の前に戻って来た。しゃがみ込んだ膝の上には、私の服が載せられていた。「捨てておくわ」と言っていたのに……
「嫌いでは、ないわよね。自分で入るくらいだもの」
 玲子さんは続けたけど、私の視線は、服から離れない。どういうつもりなのか。ハダカでいるしかない私に、見せつけているだけ……それとも、
「ねえ、美雪ちゃん。住み込みでアルバイトしない?」
「えっ」と、顔を上げた。
 玲子さんの顔が正面にあった。慌てて目を逸らす。
「約束してくれるなら、お家に返してあげるわよ」
 何を言っているのだろう。すぐには理解できなかった。
 家に帰れる?
 私の服を持って来たのは、そのためか。でも、住み込みって……
「ホントに、帰してくれるんですか」
 あり得ない話に思えた。
 ここから出られたら、もう二度と、このお店には近づかないだろう。それくらい、玲子さんにもわかっているはずだ。
「美雪ちゃんは、約束を守れるわよね」
 いつものやさしい玲子さんに見えた。
 私は、この笑顔に騙されたのだ。でも……今、この笑顔を信じなければ、檻から出られない。服も着られない。
「アルバイト、させてください」
 返事をしてしまった。今度は、私が玲子さんを騙すことになる。
「住み込みの件だったら心配しなくていいわ。私がご両親と話をするから」
「私の家に来るんですか」
「そうよ。送って行くから、服を着てね」
 玲子さんが、鉄格子の隙間から、私の服を押し込んだ。Tシャツにスカート、下着まで全部揃っているようだ。
 事の成り行きが掴めず、私は、服と玲子さんの顔を、交互に見ていた。
「ハダカじゃ、お家に帰れないでしょ」
 玲子さんがウインクして見せた。私は、自分の姿を思い出し、こみ上げる恥ずかしさに身体を丸めた。

        8

 狭い檻の中で、私は服を着た。かなり不自由だったけど、これでハダカを見られる恥ずかしさからは解放されるのは、ありがたかった。
 玲子さんが、ずっと見ていた。
 本当に家まで来るつもりなのか。住み込みのアルバイトなんて冗談で、朝帰りになってしまった私を、家まで送ってくれるだけではないのか。
 だったら、なんで檻から出してくれないのか。
 いろいろな考えが、頭に浮かんでは、消えていく。疑問は、増えるばかりだ。
 服を着終わると、玲子さんが首を指さした。
 私は、首輪をしたままだったと気づき、慌てて外す。そこまで馴れてしまったのか。外すのを忘れていたことが、とても恥ずかしく思えた。
「用意、できたわね」
 玲子さんは、南京錠の鍵を外すと、扉を開けてくれた。
 檻の下には、サンダルが揃えて、置いてあった。本当に帰って良いらしい。私は鉄格子を潜り抜け、店内に立った。
「どうして、帰してくれる気になったんですか」
 下を向いたまま、独り言のように呟いた。
「売買契約がなくなったわけではないのよ。美雪ちゃんの身柄は、私が預かっているだけ。中学くらいは、卒業したいでしょ」
 玲子さんが、いつもの玲子さんに戻っていた。
「私、もうここに来ないかも、しれませんよ」
 上目遣いで、のぞき見る。玲子さんは、笑顔を崩していなかった。
「大丈夫よ。美雪ちゃんは、約束してくれたもの」
 玲子さんが、ポーチを返してくれた。携帯電話も入っていた。
 少しだけ迷ったけど、首輪をポーチに入れた。南京錠の鍵は、レジの脇に置いた。これで帰る準備はできた。
「行こうか」と、玲子さんに背中を押された。
 私は、檻を振り向いた。
 一晩中、ハダカで閉じ込められていた檻。入ったら二度と出られない鉄格子。私は、自分の意志で中に入り、鍵を掛けた。
「また、すぐに入れるわよ」
 玲子さんが、微笑みかけた。
「そんな、も、もう、懲り懲りですよ」
 両手を広げて、胸の前で左右に振った。アルバイトにだって、来るつもりはない。まして、檻に入るなんて。
 今度こそ、出してもらえないかもしれないのだ。
「あら、残念」
 玲子さんは、また、私を檻に閉じ込めようというのか。
 確認なんてしなくても良い。今は、とにかく家に帰ることが先決だと思えた。玲子さんの気が変わらない内に、ここから出てしまおう。
 ペットショップの出口に向かった。お店を出る前に、もう一度だけ檻を見ていた。
 車の助手席に乗り、シートベルトを締めた。
 朝靄の中を走り出す。少しだけ眠気が差した。安心するには、まだ早い。でも、玲子さんは、悪い人ではないのだと思えた。
 もしかしたら、これも罠なのだろうか。


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