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第4話 新しい生活


        1

 お父さんとお母さんが、門の前に立っていた。
 私は、玲子さんを見る。
「電話しておいたのよ。六時に送っていきます、って」
 いつ電話したのかは、わからなかった。でも、ああして待っているのだから、ウソではないのだろう。
 娘が夜中に飛び出したきり、朝まで帰って来なかったのだ。お父さんも、お母さんも、心配していたに違いない。
 私は、心から申し訳ないと思った。
「ごめん……」
 車から降りた私は、両親から二三歩離れた位置に、立ち尽くした。
 お母さんが近づいてきて、何も言わずに抱き締めてくれた。その後ろに、お父さんが立っていた。
「ごめんなさい」
 私は、もう一度、声に出した。
「どうか、叱らないでやってください。思春期には、よくあることですから」
 玲子さんだった。
「娘がご迷惑をお掛けしました。ありがとうございます」
 お父さんが前に出て、頭を下げた。
 言葉とは裏腹に、頬が震えていた。玲子さんがそそのかしたと、思っているようだ。玲子さんに、申し訳ない思いだった。
「お父さん、私が勝手に……」
 その言葉を、玲子さんが制した。
「私の責任です。お嬢さんを、その気にさせてしまったのですから」
 はっきりとした口調で告げた。少しだけ、お父さんの険が取れた。お母さんも私の身体を離し、お父さんに目を向けていた。
「そのことでお話があります。聞いて頂けますか」
 玲子さんが、一歩前に踏み出した。
「そうですね。わざわざ送って頂いたのですし、上がってもらったら……」
 お母さんがフォローする。お父さんが背を向け、家の中に入っていく。玄関のドアは開けたままなっていた。
「さあ、どうぞ」と、お母さんが促す。
 玲子さんは客間に通された。
 座卓にお父さんと差し向かいで座り、私は部屋の隅に正座していた。お母さんがお茶を入れてくるまで、お父さんも玲子さんも、一言も話さなかった。
 来客用の湯飲み茶碗を玲子さんの前に置くと、お母さんは、お父さんの隣に膝を下ろした。携帯電話を握りしめていた。
「改めまして、坂下玲子です。安房之浜商店街でペットショップをやっています。あいにく名詞などは、持ち合わせていませんが」
 大人の挨拶なのだろう。ドラマの一場面を見ているようだった。
「華原です。それで、美雪の件で何か」
 お父さんは、他にも何か言いたいけど、我慢しているように見えた。玲子さんの落ち着いた態度とは対照的だった。
「美雪の家出は、私のせいです。このところ、お店に寄ってくれるものですから、トリマーにならないかと、お誘いしました。その気にさせてしまいましたことを、お詫び致します」
 お父さんとお母さんが顔を見合わせた。
「トリマーって……」
 二人の視線が私に向く。
 私にとっても初耳だった。どうしたら良いのかわからない。
「美雪さんの携帯メールを見せてもらいました」
 お母さんが 携帯電話を開いた。玲子さんが打ったメールを表示させているのだろう。
 ――やりたいことが見つかりました。探さないでください
 私が打ったと思っているのも仕方がない。
「思い詰めていたようです。三年生のこの時期になって言い出したら、受験勉強から逃げているだけだと思われるに、決まっていますから」
 玲子さんは話を続けた。
「よろしければ、美雪さんに、私のお店でアルバイトさせてやって頂けませんか。トリマーと言っても、良いことばかりではありません。現実を見れば考えも変わるかもしれません。お願いできないでしょうか」
「そんな勝手な!」
 お父さんが、大きな声を出すのを、初めて聞いた。

        2

「美雪は、まだ、中学生です。親の承諾もなしにアルバイトだなんて、あんた、何を考えているんだ」
 声が震えていた。
 お父さんの中では、娘の家出をそそのかした相手になるのだろう。「そんな人に預けられるか」と言いたかったのだと思う。
「だから、こうしてお願いに伺いました」
 玲子さんは、一歩も引こうとはしなかった。
「そうですよ、お父さん。美雪の話も聞かないで……」
 お母さんが間に入った。三者面談の帰りに、お母さんにはペットショップの話をしていた。覚えていてくれたのだと思う。
 三人の大人の視線が、私に集まった。
「そうなのか」
 感情を抑えたお父さんの声だった。私は、下を向いたまま、返事ができない。
 アルバイトの件は、玲子さんから聞いていたが、トリマーになりたいとか、そのために家出したとかは、玲子さんの作り話だ。
 ウソだと言ってしまえば、お父さんが玲子さんを家から叩き出すだろう。
 なんでそうしないのか、自分でもわからなかった。
「出過ぎたこととは思います。でも、私のお店は通学路の途中です。歩いても十分とかかりません」
 お母さんが、お店の場所を説明した。お父さんの感情も、少しは治まったようだ。座布団に正座していた、足を崩した。
「トリマーになるには、専門学校に通うのが一番です。アルバイトをしても気持ちが変わらなかった時は、改めて進路のご相談をして頂くというわけには、いかないでしょうか」
 玲子さんの顔は、真剣そのものだった。少なくとも担任の先生よりは、私の身になって、考えてくれているように見えた。
 お父さんは、顔を横に向けたままだった。
「アルバイトって、どんなお仕事をするのでしょうか」
 お母さんが、代わりに応えた。
「今の段階では、コンビニの店員と変わりませんよ。ただ、生き物を扱う商売ですので、勉強のためと考えるなら住み込みをお奨めします」
 お父さんが、顔を玲子さんに向けた。
「住み込みって……」
 お母さんも、その一言が気になったのだろう。二人とも、気になるのは当たり前だ。でも、私の心の動揺までは、伝わっていなかったと思う。
 玲子さんは、私をお店に住み込ませて、どうするつもりなのか。
「学校にも通ってもらいます。アルバイトは放課後だけ。慣れてきたらトリマーに必要な知識も教えます。住み込みと言っても、いつでも帰って来られますし」
 あの約束が有効だと、本気で思っているのだろうか。
 ――アルバイト、させてください
 私は確かに約束した。そうしなければならなかった。
「ご家族で、よくご相談なさってください。美雪ちゃんも、それでいいわね」
 やさしいお姉さんのような顔だった。
「失礼します」と、立ち上がる玲子さん。玄関まで見送るお母さんを押しのけ、サンダルを引っかけて、車まで追いかけた。
「どういうつもりなんですか。今の話、全然聞いていません」
 玲子さんは、車のボンネットに寄りかかり、私を見た。
「だったら、なんでさっき、そう言わなかったの」
 胸に刺さる言い方だった。
 理由は、私にもわからない。「この人は、私を売ろうとしている悪い人なの。アルバイトなんかする気はない」と、一言で良かったのに。
「だって……」
 それ以上は、言葉が見つからない。
「約束は守ってね。今夜からでもいいわよ」
 玲子さんが、私の手に、お店の鍵を握らせた。どうしても、住み込みでアルバイトをさせる気なのだ。
「そんなこと言ったって、お店には、止まるところなんか、ないじゃないですか」
 ペットショップには、申し訳程度の給湯室とトイレ、物置があるくらいだ。玲子さんも、毎日通っている。
「あるわよ。美雪ちゃんの寝床ならね」
 抑揚のない言い回しが、却って不気味だった。

        3

 家に入ると、お母さんが玄関に立っていた。少し泣いたのか、目が赤くなっている。
「ごめんなさい。私……」
 何を言って良いのか、わからない。私は、サンダルも脱がずに立ち尽くした。
「少し休みなさい。あまり、寝てないのでしょ」
 気が張り詰めていたから忘れていたけど、まともに寝てはいなかった。ずっとハダカで檻の中だったのだから。
「うん」と頷いて玄関に上がる。お父さんと顔を合わせるのも、怖かった。お母さんだって、聞きたいこともたくさんあるだろうに。
「学校には、連絡しておくから」
 いつもなら、起きる時間だった。今日はサボリというわけだ。
「ありがとう。お母さん」
 階段を上りながら、胸の内で、もう一度手を合わせた。
(どうしよう)
 自分のベッドに横になった私は、そればかり考えていた。
 玲子さんは、何を考えているのか。私を慶子さんに売るだけなら、あのままトラックに乗せるだけで良い。私には、何の抵抗もできなかったのだから。
 家に帰したら、もう二度とペットショップには来ないと、思わなかったのか。
(もう二度と……)
 檻には入れないという意味か。
(やだ、私。何を考えているの)
 ついさっきまで、逃げ出すことばかり考えていたのに。もう二度と、檻になんか入らないって心に決めていたのに。
 自分の部屋に戻ってみると、冷たい鉄格子が恋しくさえ思える。
 この気持ちがあったら、私はお店に忍び込んだ。ハダカになって首輪も付け、檻にも入った。南京錠も掛けた。
 鍵が開かないと気づき、玲子さんに見つかり、自分の意志では、檻から出られないと知らされた時の気持ちは、何なのだろう。
(もう一度、檻に入ったら、わかるかしら?)
 気持ちの変化が抑えきれない。このままでは、玲子さんの思うツボだ。「アルバイトをさせてください」と、ペットショップを訪ねてしまう。
(なんではっきりと断ってくれなかったの)
 お父さんの顔が浮かんだ。
(私が売られちゃうんだよ。犬にされちゃうんだよ)
 恨むのは、筋違いだとわかっていた。それでも、誰かのせいにしたかった。
 お父さんとお母さんは、どう思っているのだろう。
 今までにもヒヤヒヤさせることはあったけど、基本的には良い子だったはずだ。娘に家出をされ、ショックを受けているに違いない。
 住み込みのアルバイトなんて、お父さんが絶対に許すわけない。
 そう思うと、気持ちが楽になった。心残りはあっても、きっとその方が良いのだ。私は、また明日から普通の中学生に戻る。
 クラスメイトとおしゃべりをして、志帆とお弁当を食べて……学校に行けば里見先生もいる。健太の奴は、無視すれば良い。
 平凡な日常の光景が、枕に溶け込んでいった。

        4

 目が覚めた時には、夕日が差し込んでいた。
 自分で思っていたより、疲れていたのだろう。パジャマに着替えもせず、帰ってきたままの服装で寝ていた。タオルケットを掛けてくれたのは、お母さんか。
 枕元のポーチから携帯電話を取り出す。
 思った通り、志帆からメールが届いていた。突然、学校を休んだのだ。「何かあったの」と一行だけ、書かれていた。
「何もないよ」とだけ返信した。本当のことなんて、志帆にだって話せない。
 携帯電話を置く。ポーチから、首輪がのぞいていた。
 胸に何かが突き刺さる。
(ダメよ、あれを付けては)
 首輪は、玲子さんの罠だったのだと思う。部屋でハダカになって、首輪を付けて過ごす内に、私は檻に入りたくなった。
 首輪を付けたら、同じことの繰り返しになりそうだ。ベッドから起きあがると、首輪をポーチに入れたままクローゼットに放り込んだ。
 玲子さんから預かったペットショップの鍵も一緒だった。
 これでいいのだと、自分を納得させて部屋を出た。
 私は、お腹を押さえながら階段を下りた。丸一日、何も食べていないのだ。空腹を感じるのも、当たり前だった。
 お母さんは、キッチンに立っていた。
「お腹、空いたでしょう」
 私の顔を見ると、お母さんは戸棚から、ドーナツを二つ出してくれた。夕飯の支度は始まったばかりのようだ。
 マグカップが電子レンジで回り出すのを見ながら、私はドーナツを食い付いた。
 瞬く間に一つ目をたいらげ、二つ目手を伸ばす。砂糖が喉に咽せた。電子レンジが鳴り、お母さんがマグカップを取り出すのと同時だった。
「こんな子供に、アルバイトなんてさせて良いのかしら」
「えっ」と、胸が騒いだ。
 それでは、まるで…… いや、そんなはずは……
 お母さんは、炊事の手を休めずに、続けた。
「お父さんと『ペットショップさかした』に行って来たの。玲子さんと、もう一度、よく話をしてきたわ。お父さんも冷静になってくれたの」
 寝ている内に、話が進んでいたらしい。
 受験勉強は続けるという条件でアルバイトに同意したと、お母さんは告げた。
 土日は本物のアルバイトが来るので、私のお仕事は平日の夕方だけ。週末は家に帰って家族と過ごす。日曜日の晩からお店に泊まり込み、金曜日までは帰らない。ローテーションも決まっていた。
「後は、美雪が決めるだけよ」
 私は、喜ぶべきなのだろうか。少なくとも、お母さんはそう思っているようだ。
 トリマーになるのが私の夢。そのために住み込みでアルバイトをして、中学校を卒業したら専門学校に入る。玲子さんの書いたストーリーだ。
 背筋が寒くなる想いだった。
「大丈夫。玲子さんは、悪い人ではないわ」
(本当にそうなの?)
 本当だって、思いたい気持ちはある。でも、目の前で取り交わされた小切手は何なのか。用意周到に張り巡らされた罠に、両親ごと、嵌っているのではないのか。
「私がいなくなっても、寂しくないの」
 それ以上は、言葉にならなかった。
「いなくなるって言っても、すぐそこだし、週末には帰ってくるし、お嫁に行くわけでもないでしょ」
 お母さんは、まな板で刻んだ野菜を、お鍋に入れていた。
(お嫁に行くより、何倍も危険かもしれないのよ)
 喉まで出かかっているのに、声にはならない。私の目は、夕飯の用意をするお母さんの姿を追っていた。
 なんで……?
 私が夕べ、どんなふうにして過ごしたか。全部お母さんに話してしまえば、アルバイトに行けなんて言わないと思う。
 なんで話さないのか。結論を出せないまま、私は二つ目のドーナツを平らげた。

 夜になって、夕食のテーブルで、お父さんと顔を合わせた。
 何となく気まずい雰囲気はあったけど、怒っている様子はなかった。ソースを取ってくれた時、一瞬だけ目が合った。
 何も言わないお父さん。言いたいことは、たくさんあるだろうに。アルバイトだって、多分、今も反対なのだ。
 ――私がいなくなっても、寂しくないの
 お母さんには訊けたのに、お父さんに同じ質問は、できなかった。
 お風呂に入る時、少しだけハダカになるのが怖かった。お風呂の扉の向こうに玲子さんがいて、檻を開けて待っているような気がした。
 パジャマに着替えて、ベッドに入った。
 なかなか寝付けなかったのは、昼間ずっと寝ていたから、ばかりではない。
 このままでは、ペットショップでアルバイトをするようになってしまう。玲子さんの考えが、何となく、わかってきた。
 ――あるわよ。美雪ちゃんの寝床ならね
 ペットショップには、ベッドも畳の部屋もない。私の寝床というのは、檻のことだ。住み込みのアルバイトと言いながら、その実、私を檻に入れて飼うつもりなのだ。
 ハダカにされて、首輪を付けられて……
 胸の奥に何かが降りた。
 もう二度とあんな目に遭いたくないと思っていたのに、今はあの時の自分が懐かしい。檻から出られなくなって、慶子さんに売られて、どこか見知らぬ場所に連れて行かれる。私は逆らえない。
(そんなわけない)
 いくら首を振ってみても、檻の中にいた自分を振り切れない。むしろ、なんで今ここにいるのだろうと、思ってみたりする。
 ――また、すぐに入れるわよ
 玲子さんには、わかっていたのか。私が、こんなにも檻を恋しがるって。
 だからこそ、家に帰してくれたのか。今度はちゃんと自分の意志で、何もかも承知した上で、檻には入りに来なさい、と。
 私は、ベッドから飛び起きた。
 クローゼットからポーチを見つけると、中から首輪を取り出した。
 玲子さんからもらった首輪。
(ダメよ。罠だって、わかっているじゃない)
 それなのに私は、首に巻き付けていた。
 パジャマを脱ぎ捨て、ショーツを下ろし、足から引き抜く。
 床の絨毯に、首輪一つの裸身を丸めた。
(これでは、玲子さんの思い通りだわ)

        5

 翌朝、いつも通りに起き、いつも通りに朝食を食べ、いつもの時間に家を出た。お父さんも、お母さんも、普通だった。
 強いて言うなら、少しだけ、口数が少なかったかもしれない。
 通学路を歩いて、学校に向かう。
 良い天気だった。川沿いの道を歩いていても、汗ばんでくる。胸が騒ぎ始めた。もうすぐ、玲子さんのペットショップが見えるところまで来ていた。
 遠回りをする道もない。道路の反対側を歩くのが精一杯だった。この時間なら、お店は開いていない。玲子さんがいるはずもないのに。
 何事もなく、学校に着いた。ホッと息をつく自分が、バカに思えた。
 昇降口で、私を見つけた健太が、こそこそと逃げ出す。告白されて以来、いつもこうだった。そのくせ、志帆にはアルバムを預けたりするのだから、健太の頭の中は、わからない。
「逃げなくてもいいじゃない」
 私は、声を掛けていた。無性に懐かしい気がしたのかもしれない。
「えっ、だって……華原さんは俺のこと……」
 健太が振り向いた。
「嫌いよ、あんたなんか。エッチで、無神経で」
 まるで八つ当たりだ。
 たいして親しくもない相手に、そんな態度をとる自分が変だった。
「なんだよ、それ。無神経かもしれないけど、エッチじゃないぞ」
 目遣いが、回りを気にしているようだ。
「水着の写真ばかり撮って、どこがエッチじゃないのよ」
 私は、健太の鼻先にすっと近づくと、おでこを二本指で突いた。健太が慌てて、後ずさる。突かれた部分を、掌で押さえていた。
「何するんだよ」
「いいじゃない。私に触ってもらえたのよ。感謝しなさい」
 私は、健太の脇を通り過ぎ、廊下を歩き出した。すぐに健太も追いついて来た。
「華原さんは、俺のこと、そんなふうに思っていたのかよ」
 肩がぶつかれそうだった。
「そんなふうにって、どんなふうよ」
「だから、俺がエッチ……」
 健太が、言葉の後半を飲み込んだ。
「その話ね。もう一度、言って欲しいの」
 横目で健太を見た。至近距離で目が合う。健太の睫毛が、女の子のように長かった。
「俺が好きなのは、華原さんの水着じゃないよ」
 心臓が、一拍だけ大きく鳴った。
「どうかしらね」
 口では、そう返したものの、胸の内を触られているようだった。
(さりげなく「好き」なんて言わないでよ)
 気が付けば、二人並んで仲良く歩いている。少なくとも、他の人には、そう見えていただろう。
 もう一度、目が合う。私は「ふん」と、顔をよそに向けた。
 教室の前まで来た。
「ほら、あんたの教室は、あっちでしょ」
 私は、足を速めて、教室に入った。背中で、何か言っていたような気がした。
 志帆が立っていた。
「今の、島田君でしょ」
 私の肩越しに、廊下を見ていた。
「そうよ」
 失敗したと思ったけど、気づかないフリをした。志帆は、まだ、健太が好きなのかもしれない。
「いつから、仲良くなったの」
「別に。あいつが勝手に付いて来ただけよ」
「うそっ。美雪ちゃん、楽しそうだったわよ。今だって……」
 そんな顔をしているのだろうか。私は、思わず掌を頬に当てた。ほんの少しだけ、火照っていたような気がする。
「そんなわけないじゃん」
 志帆の脇を通り抜け、自分の席に着いた。鞄を置き、机に腕を組んで顔を伏せる。
(健太のせいなんだからね)
 それ以上、志帆は突っ込んでこなかった。

        6

 授業は上の空だった。
 想いを寄せてくる健太。正直なところ、悪い気はしない。むしろ、健太の存在が、大きくなって来るような気さえしている。
 そんな私を「恨んじゃった」と話す志帆。
 二人に挟まれて、身の置き場に戸惑う。登校した途端に、一昨日までの自分に戻っていた。
 ジリジリとした時間を過ごし、昼休みになった。
「今日は、屋上で食べようか」
 何となく、そんな気分だった。「いいよ」と、お弁当を持って立ち上がる志帆。私たちは廊下に出た。
 すれ違う生徒たちの流れを、いつの間にか目で追っていた。隣を歩いていた志帆が、クスリと笑う。
「なによ」
 恨めしげな視線を向けたが、志帆に見返されれば、逸らすのは私のほうだ。
「誘ってあげたら、喜ぶのに」
「ホントに、そんなんじゃないったらぁ」
 志帆は「いいから、いいから」と取り合わない。決めつけているようだが、多分、間違っている。私が無意識に探していたとしたら、里見先生のほうだ。
 水泳部の顧問だった里見先生には、何度も助けてもらったらしい。最近になって気づいたのだけど、私が意識する前にも同じような例は、たくさんあったはずだ。
「そんなはず、ないよね」
 思わず、口に出ていた。
「えっ、何?」
「ううん、なんでもないったら」
(そんなはずはない)
 私は、心の中で繰り返した。
 中学校の入学書類で、お父さんと血が繋がっていないとわかってから、私は、どこかで本当のお父さんを探していたのだと思う。
 今のお父さんが嫌いなわけではないし、頼りにもしているのだけど、血の繋がったお父さんではないと、わかってしまった。
 だったら、本当のお父さんは?
 里見先生が、何かと面倒をみてくれるのだって、私の入学と同時に転勤してきたのだって、きっと偶然のはずなのに……
 こんなこと、志帆にも相談できない。
 屋上に着いた。
 日陰にハンカチを敷いて座り、お弁当箱を広げる。志帆のお弁当も美味しそうだけど、私のだって負けてない。
 志帆がこぼす笑み。きっと私も、同じような顔をしているのだろう。
 二人並んで、箸を進めた。
 お腹が満たされた頃だった。
「私に、気を遣わなくていいのよ」
 志帆が言い出した。健太のことだと、すぐにわかった。多少の誤解も入っているけど、全くの見当違いでもないのだろう。「そうだね」と、曖昧な返事をすると、
「あら、珍しい。一歩前進かしら」
 途端に食い付いて来た。志帆は、気持ちの整理が付いたらしい。ヤジウマのような目つきに見えた。
 最近、健太の顔を思い出す回数が、増えた気がする。
 慶子さんに売られてしまったら、健太とも会えなくなってしまうかもしれない。その時は、志帆も、里見先生も、お母さんやお父さんも同じなのだけど。
 胸の奥に寂しさが湧き上がった。
 その一方で、檻から出られなくなった時の自分を、思い出していた。
「美雪ちゃん……?」
 志帆が、不思議そうな視線を向けていた。そんなに長い間、黙り込んでいたのだろうか。私は、咄嗟に思いついた。
「進学の件、あれでいいのかなって……」
 三者面談で決まった進学校だが、どこか、ひっかかったままになっていたのは確かだ。
「あっ、ごまかした」
 志帆が上目遣いで、軽く睨み付ける。
「ごめん。でも、これだって、気になってるんだよ」
「まあ、いいわ」と視線を逸らした後、志帆が続けた。「美雪ちゃん、高校では水泳、やらないの」
 何にしても、話題が変わったのは良かった。
「やるとは思うんだけどね」
 ついこの前まで、疑いもしなかった。もう少し身長が伸びたら、大島さんにだって勝ってみせると。でも、私は、普通に進学できるのだろうか。
 ――また、すぐに入れるわよ
 玲子さんの声が、脳裏に響いた。ペットショップの赤い檻には、今もあのプレートが掛けられているのだろうか。
『美雪 牝 十四歳』
 今度入ったら、もう、二度と出られないかもしれない。
 私は、頭を大きく振った。
「美雪ちゃん、大丈夫? さっきから変よ」
 また、一人の世界に入っていたようだ。なんでも話せる親友だと思っていたのだけど、話せないことって、案外、多いものらしい。
「心配ないよ。きっと大丈夫だから」
 志帆の愁眉が開かない。何が「大丈夫」なのか、自分でもわからなかった。

        7

 学校での一日が終わり、校門へ向かって歩きながら、志帆に言われた。
「美雪ちゃんは、もう少し素直になったほうが、いいと思うよ」
 損をしていると思う時もある。けど、なかなかこればかりは、うまくいかない。
「努力してみるよ」
 志帆の目を見ては言えなかった。
「よろしい」と肩を叩く志帆。今日もこれから進学塾なのだろう。
 ペットショップに、一緒に行ってもらおうかとも考えた。でも、勉強の邪魔をするわけにはいかない。気にはなるけど、一人で行くのは怖かった。
「じゃあね。また、明日」
 まだ、校門を出ていなかった。急に駆け出した志帆が、健太の脇を通り抜ける。
「待っていたよ」
 健太が、照れ臭そうに、左手を挙げた。
(そうだ。こいつを連れて行こう)
 名案を思い付いた私は、早速、実行に移した。
「あんた、犬、好き?」
「なんだよ。急に」
 返事も聞かずに、健太の手首を掴み、引っ張った。強引だとは思ったが、いつもの私を知っているなら、これくらいでは驚かないだろう。
「どこに行くんだよ」
 何かを言いたくて待っていたのだろう。抗議は当然だったが、
「いいから、付き合いなさい。私が好きなんでしょ」
 言ってしまってから、少しだけ頬が熱くなった。
 足を速めた。
(健太に、この顔を見せてたまるか)
 私は、前を向いたまま、真っ直ぐに歩いた。成り行きとは言え、男の子の手を引いているのだ。仲良く手を繋いでいるようには、見えないだろうが。
 なんでこんなことをしているのか。
 もちろんペットショップに行くためだ。玲子さんと話をするためだ。一人で行ったら、何をされるかわからない。
 私は、健太の手首を強く握った。こんな奴でも、いないよりはマシだと思った。それにしても、
「なんで黙って付いてくるのよ」
 言いがかりだというのは、わかっている。今朝もそうだった。何だって私は、健太に突っかかってしまうのだろう。
「だって……」
「たって、何?」
 私は足も緩めず、振り向きもしなかった。
「華原さんが、手を握ってくれるから……」
 頬の温度が急上昇した。それでも私は、健太を離さない。離したら、ペットショップに行けなくなる。もうすぐ見えるはずだ。
 玲子さんに会って、どうするつもりなのか。
 お母さんは、あんなふうに言っていたけど、アルバイトをすると決めたわけではない。私だって受験勉強はあるし、だいいち、トリマーになりたいわけではなかった。
 玲子さんが、ペットショップの前に立ち、道路に水を巻いていた。
 足が段々とゆっくりになり、さらに近づくと、お店の前で立ち止まった。玲子さんも、私に気づき、振り向いた。
(どうしよう。目が合っちゃった)
 胸が苦しかった。何か言わなきゃと思うのだが、玲子さんに先を越された。
「あら、今日はカレシと一緒なの」
 振り向くと、健太が私を見ていた。いつもと変わらない表情だ。「カレシ」と言われて、顔を火照らせているのは私だけ……
「そ、そうです。これからデートなんで。それじゃあ」
 私は、もう一度、健太の手を引っ張って、お店の前を通り過ぎようとした。横目でお店の中を覗く。檻は見えなかった。
 玲子さんに、腕を掴まれた。
 心臓が爆発するかと思う間もなく、私を引き寄せて、耳元で囁いた。
「プレートは、そのままにしてあるから」
 玲子さんが顔を離し、妖しい笑みを浮かべる。吸い寄せられそうだった。
「華原さん?」
 健太に、手を強く握られた。手首を掴んでいたはずなのに、いつの間に持ち替えたのだろう。
「ごめんなさい。また……」
 どっちに言っているのか、わからなかった。
 私は、歩き出した。健太の手を、強く握り返していた。もし健太がいなかったら、この場で玲子さんに捕まっていたかもしれない。
 胸の鼓動が大きくなった。健太に聞こえているのではないかと、心配だった。

        8

 堤防沿いの道で、健太と別れた。
 特に何も言わなかった。恨めしそうな視線が気になったが、「今日はありがとう」と告げるのが精一杯だった。
 家に帰り、「ただいま」だけ言って、自分の部屋に籠もる。制服のまま、ベッドに身体を投げ出した。
 背中にびっしょりと汗を掻いていた。
 私は右手を翳した。この手がさっきまで、健太に握られていた。
 胸がドキドキするのは、玲子さんのせいだ。ペットショップまで行ってくれるなら誰でも良かった。健太でなければ、ならなかったわけではない。でも、
(ぽっぺにキスくらいしてあげても良かったかしら)
 思った側から、頬が熱くなった。
 志帆は、気持ちの整理を付けたようだ。気を遣わなくて良いと、何度も言ってくれた。私が、健太と付き合っても良いのだろうか。
 ハッと上体を起こし、首を大きく振った。
(ダメよ。そんなことしたら、後で苦しくなるだけ……)
 やはり、健太と付き合うなんてできない。健太なんて、好きでもなんでもないんだから。私は、そう思い直した。
 でも、なんで苦しくなるの?
 枕に頭を押し付け、ブラウスの胸元を握り締めた。
 ――今夜からでもいいわよ
 玲子さんの言葉は「今夜から来なさい」という意味にも聞こえた。
 お母さんたちとは、昨日の内に話ができているのだ。今夜から住み込みというのも、アリなのだろう。
 本当にそれだけ……?
 玲子さんは、明らかにウソを言っている。それなのに、お母さんたちは信じた。ローテーションまでは決めて来た。
 信用しても良いのだろうか。
 もし騙されているのだとしても、お母さんたちのせいではない。私が重要な情報を隠しているせいだ。
 なんで言わないのか。
 私にはわかっていた。言ってしまえば、もう檻には入れなくなるからだ。夕べ、行かなかった私を、玲子さんは怒っているだろうか。
 ――プレートは、そのままにしてあるから
 確かに、そう言っていた。玲子さんは、私が来ると思っている。住み込みでアルバイトをするという約束で檻から出してもらったのだから。
(そうよ。約束したんだもの)
 一人の私が思う。するともう一人の私が「ペットショップに行く口実じゃない。そんなに檻に入りたいの」と責めたてる。
 どっちが本当の私なの? なんで私は、檻に入りたいなんて思うの?
 堂々巡りは続く。まだ当分抜け出せそうになかった。里見先生に相談したら、何と言うだろう。
『美雪 牝 十四歳』
 檻にあのプレートが掛かっているところを見なければ、あるいは……
(ちょっと待って)
 昨日、お母さんたちは「ペットショップさかした」に行ったと話していた。
 あのプレートも見たのだろうか。
 住み込みで働けば、私があの檻に入れられると知っていて、アルバイトを許したのだろうか。心臓の鼓動が、にわかに速くなっていった。
 ドアをノックする音に、胸の奥が飛び跳ねた。
「美雪、電話よ。玲子さんから」
 お母さんがコードレスホンを手に、部屋へ入って来た。
「玲子さんから……?」私は、手を出し渋る。ついさっき、お店の前を通り過ぎたばかりだ。何の用なのか。まさか、今から迎えに来るとか。
「ほら、心配はいらないから」
 お母さんは、差し出した手を、引っ込めようとはしなかった。

        9

 ベッドに腰掛けて、コードレスホンを受け取る。ゆっくりとした動作で、耳に当てた。
「……もしもし」声が聞こえただろうか。
『さっきはどうも。可愛いカレシじゃない。美雪ちゃんもやるわね』
 いきなりの友だちモードに面食らう。
 返事もできないまま、お母さんに目を向けた。玲子さんからの電話に出なさいと言うくらいだ。迎えに来られたら、車に乗せられてしまうだろう。
「そんなのじゃ……」
 これからデートだと言って、逃げて来たのだ。カレシと言われても、否定はできない。
『ふーん、まあ、いいわ。それで、いつから来るの』
 もちろん、アルバイトの件だ。玲子さんが、核心を突いて来た。電話をして来た目的は、これしかない。後は、私が「うん」と言うだけなのだから。
「えーと、それは……受験勉強もあるし……」
『勉強だって、みてあげるわよ。こう見えても、頭いいんだから』
 私は思い出した。ペットショップの仕事を教えてくれる玲子さんは、やさしかった。こんなお姉さんが欲しいと思った。
 勉強をみてもらえるのは、嬉しいことに違いない。でも、
「それだけじゃ、ないんですよね」
 言葉が、少し強くなった。
『もちろん、調教もするわよ。そういう約束でしょ』
「それは慶子さんとの……」約束であって私には関係ない。そう口走りそうになって、お母さんの顔を見た。
『そうね。でも、美雪ちゃんは逃げられないの』
「そんな……」もしここに玲子さんがいたら、私は金縛りに遭ったように、動けなくなっていたかもしれない。
『毎週金曜日には、お家に帰れるんだし、悪い話ではないと思うけど』
 そうなのだろうか。
「悪くない話って、なんですか」
 返事に一瞬の間があった。
『美雪ちゃん、檻に入りたいでしょ』
 玲子さんの声が、頭の中で何度も響いた。
 私の負けだった。
 お母さんたちに、玲子さんと慶子さんの関係を言わないのも、アルバイトの件で結論を出せずにいるのも、全部、「檻には入りたい」と思っているからだ。
 この気持ちがある限り、玲子さんの誘惑から逃れられない。
 私は、今夜、九時に行くと返事していた。
 お母さんも止めなかった。
 これが恐らく、私の運命……そう思うと、少しだけ気持ちが楽になった。

 お父さんが帰って来るのを待って、家族三人で食卓を囲んだ。
 いつにも増して、会話が少なかった。小さい頃は、もっと話をしていたと思う。学校の行事とか、友だちが先生に怒られた話とか。
 お母さんが気を遣って、ご近所の話題などを持ち出すのだけど、長くは続かない。
 お父さんは、私と目を合わせないようにしていた。それでいて何か言いたげに、私の横顔を見ている気がした。
 お風呂に入って、着替えも済ませた。部屋着に毛の生えた程度のラフな格好だった。
 学校へ行く準備もした。
 教科書の入った鞄を持ち、携帯電話を鞄に提げたホルダーに入れた。制服はサブバックに詰め、最後に首輪の入ったポーチを押し込んだ。
 忘れ物はないはずだ。
 今日は木曜日。明日の晩には、また、家も戻って来るのだから。
「行ってきます」
 いつものように玄関を出た……少なくとも、私はそう努力したつもりだ。違うのは、時間が夜だったのと、両親が揃って見送ってくれたことくらいだ。
 二日前と同じ夜道を、ペットショップに向かって歩く。
 大丈夫。行き先は、お母さんたちも知っているし、毎日、歩いている道沿いだもの。いつだって帰って来られる。
 自分に言い聞かせている内に、ペットショップに着いた。
 明かりは消えていた。玲子さんにもらった鍵で、お店に入った。今日は不法侵入ではない。壁を探って、明かりを点ける。小犬たちが騒いだけど、直に治まるだろう。
 玲子さんはいない。電話で話した通りだ。
 仕事は明日の朝から。今夜は、お店で寝るだけと言われていた。
 私は、檻の前に立った。
『美雪 牝 十四歳』
 この名札に惹かれて、今、この場所に立っている。名札の下に、セロテープで張り紙がしてあった。
 ――美雪ちゃんの寝床ならあるわよ
 玲子さんの声が、耳元に甦った。
 私には、最初からわかっていたのだと思う。いえ、こうなるとわかっていたからこそ、ここに来たのだ。
 張り紙に書かれた、細くきれいな文字をなぞる。

「今夜は檻の中で寝てね。玲子」

          10

 何分くらい、黙って立っていたのだろう。
 私は、名札の下の張り紙を見つめていた。たった一行だけど、玲子さんの言いたいことが、いっぱい詰まっていた。
 それがわかるからこそ、次の行動を取れずにいた。
 ただ、檻の中で寝れば良いというものではない。その証拠に、檻の手前には脱衣カゴが置いてあった。
 檻の扉に、南京錠が下がっていた。鍵は付いていなかった。
 玲子さんは、この前のように、ハダカになって檻に入り、鍵を掛けて朝まで過ごすようにと言っているのだ。
(何を迷っているの。そのために来たんじゃない)
 玲子さんの罠かもしれない。ここで檻に入ったら、今度こそ、慶子さんの家に運ばれてしまうのではないか。
(それなら、なんで一度、家に帰したの?)
 考えたところで、結論が出ないのはわかっていた。明日、玲子さんと話すまでは、何の進展もしないのだろう。
 脱衣カゴの脇に鞄とサブバッグを下ろし、私は、着ている物を脱ぎ出した。後悔するかもしれないが、今は、目の前の檻に入りたい、それが一番だった。
 衣類をきれいにたたんで、脱衣カゴに入れた。この場所なら、檻の中からでも、手が届かないことはない。
 丸ハダカになると、サブバッグのポーチから首輪を取り出し、自分の首に嵌めた。
 これでいいのだと言い聞かせた。
 鉄格子の扉を開く。
 檻の中は、二日前と全く変わっていなかった。堅い板敷きに膝を載せ、身体を押し込んでいく。裸身がすっぽりと収まった。
 扉を閉めた。
 後は、南京錠を掛けるだけだ。
 鍵は付いていないから、一度掛ければ、玲子さんが来るまで出られない。いえ、正確には、玲子さんに開けてもらうまでは、出られないことになる。
 それを承知で、私は指先に力を込めた。
「カチン」という金属がした。
 鉄格子に囲まれた、この狭い空間が、私の動ける範囲となった。
 閉じ込められた、という表現が正しいのだろうか。全部、自分でやったことだ。それとも、大人の玲子さんから見れば、小娘を操るくらい簡単な作業なのか。
 どっちにして、私は、もうここから出られない。
 ペットショップで売られている、他の小犬たちと同じ立場だ。しかも売約済み。飼い主まで決まっていた。
 胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
 でも、それだけではない。二日前にも感じた懐かしさのような感覚が、身体のどこからか湧いてくる。
 お母さんに訊いたら、わかるかもしれない。ふと、そんな思いがした。
 これが、私の望んだこと……
 立ち上がることもできない檻の中、朝まで、どうやって過ごしたら良いのだろう。
 板敷きにお尻を付き、膝を折って両手で抱えた。いわゆる体育館座りというやつだ。首輪を付けただけのハダカで、この座り方をするのは異常だった。
 それでも、座布団もないこの場所では、とりあえず、一番楽な姿勢に思えた。
 何時になったのか、わからない。
(もう、寝なくちゃ……)
 明日は、朝からアルバイトなのだ。何時に起きたら良いのだろう。そう思って、初めて手元に携帯電話がないことに気づいた。
 鞄は、脱衣カゴの向こう側だった。もうここからでは届かない。
 急に、取り返しの付かない事態になっているような、不安に襲われた。今の私には、何もできない。こうなることは、わかっていたはずなのに。
 ――大丈夫。玲子さんは、悪い人ではないわ
 お母さんの言葉を思い出し、少しだけ安堵した。
 上がったり、下がったり……
 朝まで、ずっとこんな思いを続けるのだろう。寝てしまえれば良いのだけど。
 私は、堅い板敷きに、裸身を横たえた。



 鉄格子の外に、男の人が立っていた。
 お母さんが、嬉しそうに身体を起こす。男の人の大きな手が、お母さんの頭を撫でた。
 その手が、私の頭にも載せられた。
 檻の扉が開いた。お母さんが四つん這いで、外に出て行く。
 男の人が私を抱き上げ、お母さんの背中に乗せた。
 そこはまだ、納屋の中だった。
 お母さんの首輪には鎖が付けられ、男の人に曳かれた。
 庭に出た。
 おじいさんと、おばあさんと、男の人がもう一人……
 みんな、服を着ていた。
 ハダカなのは、私とお母さんだけ。
 男の人の足下に、お母さんが肩を寄せた。

 遠い昔の記憶……
 ホントに記憶なの? ただの夢じゃないの?

 今は、どっちでも良かった。


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