一覧  目次  前話  次話


第5話 調教


        1

 今夜が二度目だったからだろうか。
 それとも、犬になる覚悟が、生まれ始めていたからだろうか。
 玲子さんの声で起こされ、私は、鉄格子の中で眠りに付いた事実を知った。
「よく寝てたわよ」と、満足そうな笑みを見せる玲子さん。
「今、何時ですか」
 私は、目尻を擦った。お母さんに言っているような、自然な会話だった。
「六時よ。寒くはないわね」
 玲子さんは、丸イスを檻の前に置いて座り、私の全身を見回していた。何も身に付けていないのを確認するかのように。
 私は、檻の中で裸身を丸めた。
 この恥ずかしさは、決して薄れることはないだろう。例え、これから毎日、ハダカで暮らさなければならなかったとしても。
「美雪ちゃんって、ホントに檻が好きなのねぇ」
 頬が一瞬で熱くなった。でも、これ以上は、小さくなれない。
 檻の中と外。生まれたままの姿の私と、普通に衣服を纏った玲子さん。
 二日前の再現だった。
 その後、私は、慶子さんに売られた。
「ここから、出してくれないんですか」
 不安の芽が、少しだけ顔をのぞかせた。
 玲子さんの視線が、私の股間に向けられているのに気づき、身体を捻った。お尻は、隠しようもなかった。
「美雪ちゃんは、なんでここに来たんだっけ」
 私の質問は、なかったことにされたらしい。
「なんでって、アルバイトで……」
「それから?」
「調教」という言葉を、自ら口にするのは躊躇われた。返事ができずにいる間、玲子さんは、ずっと目を合わせていた。
「自分の立場が、わかっているの」
 低い声だった。決して高圧的ではないけど、絶対に逆らえないものを感じさせた。
 胸に鉛が下りていく。
 友だちに家に、泊まりに来たわけではないのだ。このまま、知らない場所に運ばれる可能性だって、ないとは言えない。
「アルバイトなんて口実に過ぎないと、わかっているのでしょ」
 玲子さんが、怖い顔を作っていた。
「……はい」
「だったら、自分の口で、言ってごらんなさい。美雪ちゃんは、何をしに来たのかしら」
 学校の先生に、反省を促されているようだった。「ごめんなさい」をするまで、決して許してもらえないような……
 言わなければ、きっと、ここから出してもらえない。
「調教……です」
 口にしただけで、胸の鉛が重くなった。
「よくできました。これから半年かけて、美雪ちゃんを調教するの。慶子さんに可愛がってもらえるような、ペットの小犬にしてあげるわ」
 玲子さんは、当たり前の顔をしていた。
(やっぱり、私は売られたんだ。慶子さんのペットにされちゃうんだ)
 ここに来てはいけなかったのか。
 後悔に似た気持ちが涌いていた。私の服も携帯電話も、鉄格子の向こう側。檻の鍵は玲子さんが持っている。
 これが、私の立場……
「私に、何をさせるつもりですか」
 声に出ただけでも、不思議な思いだ。今の状況を好ましいとは思っていなかったけど、それほど悪いとも思っていない自分に驚いた。
「だから、可愛いワンちゃんになるための訓練よ。心構えだって必要でしょ」
 玲子さんがウインクをして見せた。
「そんなこと……笑顔で言われても……」
 私は、俯き加減に、玲子さんの表情を盗み見た。
「心配しないでね。美雪ちゃんは、言われた通りにしているだけでいいんだから。まずは、ここにいる時のルールから説明するわね」
 ルール……
 私には、絶対に逆らえないものなのだろう。

        2

 急に、ハダカでいることが、心細く思えた。
 決して出られない檻の中。玲子さんは、そんな私を調教すると言う。もっと辛い目にあわされるのだろうか。
 そんな雰囲気ではないと思うのは、甘いのだろうか。
「ここからなら、七時半に出れば間に合うわね」
 玲子さんが腕時計を見ていた。どうやら、学校には行かせてくれるらしい。
 私は、ホッと息を吐いた。お母さんが言っていた通りだ。玲子さんは、やはり、悪い人ではない――そう思ったのも束の間だった。
「ちゃんと言うことが聞ければ、だけどね」
 凄みのある声だった。
 言うことが聞けなければ、どうなるのか。今の私には、何もできない。調教は、もう、始まっているのだ。
「ルールその1。首輪をした時から、美雪ちゃんは犬になる。私に外してもらうまで、決して自分では外さないこと。いいわね」
 私は、首輪に手を当てた。
 自分から犬になるのは構わないが、一度、犬になったら、自分の意志では人間に戻れないという意味だ。
「はい」と頷く。それくらいの覚悟はしていた。
「ルールその2。犬になったら着衣禁止。ずっとハダカで過ごすこと」
 ちょっとドキッとしたけど、これも覚悟の内だった。そうでなければ、今、ハダカで檻の中にいたりはしない。
 玲子さんは、目で私の了解を確認すると、次に進んだ。
「ルールその3。犬になったら二足歩行は禁止。移動は四つん這いですること」
 言葉を切った後、思い出したように続けた。
「これは屋内でも、屋外でも、同じよ」
 屋外……外にも連れて行かれるのだろうか、この犬の姿で。リードで曳かれるワンちゃんたちを思い出し、気が遠くなった。
「ルールその4。犬になったら食事も排泄も、私の指示なしには、してはいけない」
 玲子さんは、「いかにも犬らしいでしょ」と、笑いかけた。私の顔が、強ばっていたのだろうか。
「ルールその5。犬になったら絶対服従……あっ、これは人間の時もね。美雪ちゃんは、慶子さんの所有物で、今は私に預けられた身だもの。わかるわよね」
 マイペースで話を進めて来た玲子さんが、ここだけは確認を求めた。「そういうことなんだ」と、私は理解した。
「まるで、奴隷ですね」
 頷く代わりに、私は答えた。せめてもの抵抗だったのかもしれない。
「そうね。今はまだ奴隷かも」予期していたように、玲子さんは返した。「ペットになってしまったほうが楽よ」
 そうかもしれないと、思ってしまう自分が怖かった。
「ルールを守れなかった時は、お仕置きするから。覚悟しておいてね」
 冗談かと思うほど、明るい言い方だった。「お仕置き」という言葉に、肌で反応してしまう私だったが、そんなに大げさなものではないのだろうか。
 一日の流れも決められていた。
 私は毎晩、首輪をして檻の中で眠る。朝になっても、玲子さんに首輪を外してもらうまでは犬として過ごす。
 昼間は学校。
 放課後はペットショップの仕事を手伝い、六時に閉店。後かたづけをして受験勉強。
 その後、ペットになるための調教を受け、済んだら檻に戻される。人間でいる時間と犬になる時間、どっちのほうが長いのだろう。
「何か、訊いておきたいことはあるかしら」
 玲子さんが、やさしいお姉さんの顔に戻っていた。
「ルールは、それだけですか」
「他にもあるけど、今はこれだけ。残りは、おいおい、説明するわ」
 まだ、他にもあるかと思うと、気が重かった。
「あのぅ、お風呂は……」
 訊いて良いものかどうか、迷っていた。お店に住み込むのは良いが、ここにはどう見ても浴室がない。銭湯にでも通うのだろうか。
「入れてあげるわよ」
 玲子さんの目が、妖しく輝いた。

        3

 南京錠に鍵が差し込まれ、ガチャリと音を立てた。閂が外され、檻の扉が開く。私の空間が、玲子さんのものと繋がった。
(外に出て、いいのかな?)
 私は、玲子さんを見上げた。
「顔を出して」
 穏やかだけど、口調が少しだけ変わった気がした。言われた通りにすると、玲子さんは、手に持っていた銀色のチェーンを、私の首輪に取り付けた。
「あっ」と、思わず声が出た。
「何かしら?」
 抑揚のない言葉が、胸に刺さる。
「いえ、なんでも……」ないわけがない。いよいよ、犬として扱われるのだ。檻を出る時は鎖に繋がれるのも、決め事の一つなのだろう。
「いいわよ。出なさい」
 後ろ向きになって、足から下りる。お尻に痛みが走った。
「二本足で立ってはダメよ」
 玲子さんに叩かれたのだ。痛みはたいしたことなかった。お尻を掌で叩かれるという出来事がショックだった。経験のない痛みなのだから。
「ごめんなさい」と、お店の床に蹲る。
 ここでのルールは、さっき言われたばかりだ。ものすごく悪いことをしてしまったという思いに囚われた。頭を上げるのが怖かった。
「これからは気を付けてね」
(それだけ……?)
 私は、まだ、身体を強張らせていた。「どうしたの」と玲子さんに問われた。
「お仕置き、するんですか」
 上目遣いで見上げた。玲子さんの足元しか、映らない。
「して欲しいの」
 言い方が、冷たい気がした。
「とんでもないです」と首を振った。ハダカで、床に伏せているだけでも、普通ではあり得ない。お尻にも、痛みの記憶は残っている。これ以上、惨めな思いをさせられるのか。
「どうしようかなあ。最初だから、勘弁してあげてもいいんだけど……」
 心から、許して欲しいと思った。
 どんなお仕置きをされるのかは、聞いていない。それでも、「お仕置き」と言うだけで、とてもひどいことをされるのだと思った。
「そんなにお仕置きが怖いんだ」
 玲子さんが膝を折り、私の頭に手を置いた。「顔を上げなさい」と言われているような気がした。玲子さんと目が合う。
「いい子にしてたら、忘れてあげるわ。取り敢えず、ご飯にしようか」
 少しだけ胸が軽くなった。でも、いい子にできなかったら……
「美雪ちゃん、おトイレは大丈夫?」
 立ち上がった玲子さんが、思い出したように見下ろす。私も、尿意を思い出した。
「はい。したいです」小さな声で答えた。
「したい時は、言っていいのよ。させてあげるんだから」
 玲子さんは「いらっしゃい」と、鎖を曳いて歩き出した。立ってはいけないと、さっきも言われたばかりだ。私は四つん這いで付いていく。
 首輪を曳かれて歩く姿は、犬そのものだった。
 お店の隅に、砂を敷いたトレイが置かれていた。お客さんの連れてきたワンちゃんが、ここでオシッコするところを、見た覚えがある。
(まさか、ここで……)
 その「まさか」だった。玲子さんが、掌で示す。「小型犬用だけど、大丈夫ね」
 お尻をモジモジさせ、動こうとしない私。
「どうしたの。ワンちゃんのおトイレはここだって、知ってたでしょ」
 玲子さんを見上げた。「早くしなさい」と、睨み付けていた。私は首を窄める。ここでオシッコをするにしても、どうしたら良いのか、わからなかった。
「本当は、お散歩に連れて行って、外でさせるのよ。ここでするのもオマケなんだから」
 外に……
 私は首を横に振った。涙が出そうだった。
「だったら、後ろを向いて、トレイを跨ぐのよ」
 言葉がきつくなってきた。言われた通りにするしかない。外は明るくなっていた。今、外に出されたら、通行人に見つかってしまうだろう。
 和式トイレを使う時のように、砂の敷かれたトレイを跨いだ。足を開くのが、恥ずかしかった。
「ヨシというまで、してはダメよ。オシッコは、躾の基本なんだからね」
 黙って頷く。尿意を、忘れかけていた。
「ヨシ」と玲子さん。「さあ、いいわよ」
 他人に見られながらオシッコをした経験はない。「ヨシ」と言われても、すぐに出るものではなかった。
「どうしたの。早くしないと、いつまでもそのままよ」
 ハダカで足を広げた格好が、どれだけ恥ずかしいか。身体を前に倒し、少しでも気休めをするしかない。玲子さんにもわかっているはずだ。
「お仕置きの件、思い出しちゃおうかなぁ」
 目が笑っていなかった。それどころか、
「美雪ちゃんは犬なんだから、人にオシッコするところを見られても、恥ずかしがる必要はないのよ」と、トドメを刺す。
 私は、下腹部に力を入れた。
 尿道口に意識が集まる。身体の内側から痒いような、切ないような刺激が、下りてくる。漏れだしたオシッコが股間を伝う。
 腰がブルブルと震えた。
 堰を切ったように、オシッコが出はじめた。勢いよく砂の上に噴き出し、跳ね返ったオシッコが足首を濡らす。
「はぁうううぅーん……」声が漏れた。
(オシッコしているんだ。見られているんだ。私は犬なんだ)
 身体が、奥から震えた。

        4

 玲子さんが、呆れたように、見下ろしていた。
「派手にやってくれるわね」
 無理もない。トレイの周囲にまで、オシッコをまき散らしていたのだから。
 お仕置きされるのではないかと、首をうなだれた。
「初めてだから、しょーがないか。次からは、もっと大きなトレイにするわね」
 大きなトレイに跨るということは、それだけ大きく足を広げなければならないのか。どんどん無様な格好になっていくようだ。
「今日は勘弁してあげるけど、ずっとこうだったらお仕置きよ」
 玲子さんが、軽く睨んだ。
「はい……」と頭を下げる私に「大きいほうもする?」
 思いっきり、首を横に振った。
「まあ、いいわ。でも、何日、保つかしら」と玲子さん。「ルールその4を覚えているわね」と、付け加えた。
 ――食事も排泄も、私の許可なしに、してはいけない
「学校での、おトイレの回数は、一日五回まで。大きいほうは我慢してね」
 つまり、ウンチは、ここでしなければならないのか。
 玲子さんに見られながら。
 それでも私は、犬だから恥ずかしがってはいけないのか。
「それじゃあ、お尻を拭いてあげるわね」
 玲子さんは、ティッシュペーパーを手にして、私の脇にしゃがみ込んだ。人に触らせる場所ではない。「えっ」と腰を避ける。お尻をピシャリと叩かれた。
「ダメよ。ワンちゃんは自分で拭けないでしょ」
 玲子さんは、内股から股間に掛けて、さっとティッシュで拭った。屈辱的ではあったけど、これも犬になることの一部みたいだ。
 汚れたティッシュが、砂の上に捨てられた。
「ワンちゃんトイレを片づけるのは、アルバイトの仕事よ」
 玲子さんがウインクをして見せた。
 なるほど、と思った。これも、お仕置きの一部なのかもしれない。自分の不始末は、結局、自分で片づけるようになる。
「朝ご飯、一緒に食べようね」
 玲子さんは、私を檻の前まで曳いていった。鎖を鉄格子に繋ぐと、レジカウンターの奥の給湯室に姿を消した。畳一枚程度の広さに、冷蔵庫や食器棚、ガスレンジ、電子レンジなどが揃っていた。
 ケージの中の小犬たちが騒ぎ出した。食事の気配を察したのだろう。
 玲子さんが出て来た。私の隣に折り畳み式のテーブルを広げ、丸イスを置いた。トーストの焼ける臭いがしてきた。
 私は、ハダカのまま、食べるのだろうか。
「ゴメンね。お腹空いたよねえ」
 玲子さんが、ステンレス製のエサ皿にドッグフードを分けて、ワンちゃんたちのケージに入れていった。エサを与えているところを見るのは、初めてだ。
 ドッグフードの種類と一食分の量は、それぞれだと言う。ドッグフードは、一つの棚に並べられ、袋にケージの名札と同じ表示がしてあった。その中に、
『美雪 牝 十四歳』
 私の名前? そんなことって……
 チーンという音がして、玲子さんが給湯室に戻る。間もなく、トーストのお皿とホットミルクを持ってきた。それらをテーブルの上に載せる。
 案の定、一人分だけだった。
 玲子さんが、私の名札の付いたドッグフードを手にした。真新しいステンレスのエサ皿に分けていく。計量カップでぴったり一杯分だ。
「はい、お待たせ。でも、ヨシと言うまで、食べてはダメよ」
 ステンレス製のエサ皿が、お店の床に置かれた。中には、納豆くらいの大きさをした茶褐色の固形物が入っていた。これを食べなければならないのか。
 揃いのお皿には、真水が入れられていた。
「手を使うのは禁止よ。わかっているわね」
 玲子さんは、丸イスに座って、私を見下ろす。返事ができなかった。
「ヨシ!」
 構うことなく、号令がかけられた。
 私は、エサ皿に顔を近づけた。頭を下げれば、自然と尻を持ち上げる結果になる。そんな格好で、床に置かれたドッグフードを食べるのだ。
 身体の動きが止まった。
 玲子さんは、丸イスに座って、トーストを頬張っている。暖かいミルクを口にしている。
 足元には、丸ハダカで鎖に繋がれた私。
 涙腺の奥が熱くなる。下瞼まで、しみ出て来た。
「食べてご覧なさい。意外と美味しいかもよ」
 抑揚のない口調だった。

        5

 ドッグフードに唇の先端が触れた。
 エサ皿の中で、粒が擦れ合う。涙が落ちるのを堪え、私は口を開いた。独特の臭いが鼻を突いた。耐えられない程ではないのが、幸いだった。
 前歯に一粒だけ挟む。これはスナック菓子なのだと思うことにした。
 頭を少しだけ上げて、舌に載せた。
「えっ!」と思った。美味しいという訳ではないが、どこかで食べた覚えのある味だった。
 飲み込むのに抵抗はなかった。むしろ、空腹を思い出させた。
 次の一口を、エサ皿に入れる。五〜六粒は頬張っただろう。乾いた音を立ててかみ砕く。思ったほど、悪くはない。二口目が喉を通った。
 見かけは同じでも、何種類か混ざっているらしい。味も堅さも一定ではなかった。
 食べ始めた私を、玲子さんが嬉しそうに見ていた。私も、横目で微笑み返した。玲子さんに、片手で頭を撫でられた。
 手を使わないで食べるのは辛かったが、何とか全部、食べ終えた。水皿の真水も、舌ですくって飲んだ。
「あら、完食ね。エライわ」
 玲子さんが、もう一度、私の頭を撫でた。全部食べたのが、余程、嬉しかったらしい。玲子さんも、目尻に指を当てていた。
「これで栄養はあるのよ。カロリー計算もしてあるし、下手なダイエット食品より健康的なんだから」
 私が床にこぼした一粒を、玲子さんが口に入れて見せた。
 胸が熱くなった。
「片づけちゃうから、ちょっと待っててね」
 空になったエサ皿を拾い上げながら、「檻に入っていてもいいわよ」と言う。
 扉は開いたままだった。
 私は、四つん這いの姿勢を崩さないように気を付けて、檻に上がった。堅い板敷きには違いないが、お店の床にいるよりは、落ち着いた気持ちになれた。
 扉が閉められた。鍵は掛かっていなかった。
 給湯室から、物音がしていた。
「待っててね」と言った玲子さん。私は、何を待っているのだろう。
 それから十五分くらい経っただろうか。
「お風呂に入れてあげるから、こっちにいらっしゃい」
 玲子さんが、扉を開けた。
 首輪に繋いだ鎖を曳かれた。檻から出て、玲子さんの後を付いて行く。四つん這いは、やはり、惨めだった。
(どこに行くのだろう。浴室はないはずなのに)
 お店の奥に連れて行かれた。
 タイル張りの小部屋があり、一段高くなった場所にペット用のバスタブが置いてあった。小犬が泡まみれになっているところを、見た覚えがある。
 あまり使われていなかったはずだ。透明なガラスの間仕切りがあるだけで、店内からも丸見えだった。
「ちょっと狭いけど、美雪ちゃんなら、入れるわ」
 玲子さんは「どうぞ」と、指し示した。もう片方の手にはチェーンが握られていた。
 ペット用のバスタブで、身体を洗われるらしい。今の私は犬だから、当然なのだと言い聞かせた。タイルの台に上がり、バスタブの縁を跨ぐ。
 バスタブの中でも、両手を前に付いた。四つん這いと言うより、正座したまま、お尻を少しだけ浮かしているような姿勢だった。
「それでいいのよ。美雪ちゃんは、いい子ね」
 玲子さんに頭を撫でられた。無意識の内に、顔がほころんでいた。褒められるのは、とても気持ちが良い。
「じっとしているのよ」
 玲子さんは、チェーンの端を壁のフックに繋いだ。他のワンちゃんたちも、きっとそうしているのだろう。入浴中に逃げ出さない措置らしい。
「ワン」と返事をしてみた。玲子さんに、もう一度、褒めて欲しかったのだと思う。
「いい子ね」と、また、頭を撫でられた。
 嬉しかった。何をされても、じっとしていようと思った。

        6

 バスタブの回りの棚には、ペット用のシャンプーやコンディショナーが置いてあった。ノミ取りやフケ症、アトピーやアレルギー体質にまで対応していると、玲子さんから聞いていた。
 値段も、かなりするようだが、ペット用には代りはない。あれで髪を洗われるのかと思うと、気持ちが暗くなった。
 シャワーノズルから噴き出したお湯が、湯気を立てた。バスタブの栓は抜いてある。温かなお湯が足元を流れ、排水溝に飲まれていく。
 玲子さんは、温度を確かめると、私の肩に掛けた。噴き出したお湯の後を、玲子さんの掌が追いかける。素肌を撫でられ、未知の刺激が背筋を走った。
(何だろう、今のは……?)
 胸の奥をくすぐられるような感覚だった。
「熱かったかしら」と、玲子さんが、私の顔をのぞき込む。
「いえ、そういうわけじゃ……あっ、自分でやります」
 シャワーノズルに向かって手を伸ばす。その手を、また、叩かれた。
 心臓が裏返りそうだった。慌てて引っ込めた片手を胸に当てる。何が起きたのか、わからなかった。
「じっとしていなさいと、言ったでしょ」
 淡々とした口調だった。
「はい、ごめんなさい」
 私は首を縮め、両手をバスタブの底に付いて、ワンちゃんの姿勢に戻った。
 胸に苦しさを溜め込んだまま、横目で玲子さんを窺う。特に怒っているというわけでもなさそうだ。むしろ嬉しそうに、私の背中を流していた。
 ペットの世話をするのも、飼い主の楽しみの一つなのか。
 目上の人に身体を洗わせては申し訳ない、と思うのは、人間様の感覚らしい。ペットはペットらしく、動かないのが良いみたいだ。
 シャワーが止まった。玲子さんは、ペット用のシャンプーを取り、掌に受けた。
「ハーブの良い香りでしょ」
 両手で素肌を撫で回され、肩が小刻みに動いた。
 匂いなんて、感じている余裕はない。背中だけでは済まなかった。脇腹を擦られ、くすぐったさに身を捩る。怒られはしないかと身体を固くしたが、何も言われなかった。
 他人に触られた経験のない素肌を、掌が滑り下りる。
 オヘソの回りを、周回する指遣いが微妙だった。肉付きを確かめるように、時折、お腹の肉を摘まれたりもした。
 泡にまみれながら、恥ずかしさに肌が火照っていく。細く、柔らかな指先が胸へと這い上がり、乳房に近づく。ハッと息を飲んだ。
(胸も触れてしまうんだ)
 鼓動が大きくなっていく。「どうしよう」と考えている暇もなかった。乳房の下側に取り付いた指先が、成長途上の膨らみを駆け上がり、一気に乳首を捕らえた。
「あぅん……」予期していたのに、声が抑えられない。上体を大きく捻り、玲子さんの手を避けていた。
 肌を打つ大きな音がした。ヒリヒリとした痛みは、玲子さんにお尻を叩かれたせいだ。さっきの叩かれ方とは、比べモノにならなかった。
「じっとしていられないなら、お仕置きするしかないわね」
 玲子さんの目がつり上がっていた。二日前、不法侵入を見つかった時と、同じくらい怖かった。私は、首を横に振りながら、
「お仕置きはイヤです。勘弁してください」
 お尻の痛みは、まだ、消えていなかった。目頭から熱いものがこぼれ落ちそうだ。もっと厳しい罰を、与えられるのだろうか。
 玲子さんを見つめる目に、祈りを込めた。
「そんなにイヤなら、もう動いちゃダメよ。おっぱいだけじゃ、ないんだからね」
 怖い顔を崩さない。私は、無言で、大きく頷いた。
 四つん這いの姿勢に戻る。
 玲子さんの指が、いきなり乳首を捕らえた。「あぅ」声を飲み込む。「動いちゃダメ」と自分に言い聞かせる。
 乳首を摘む指先が、力を加えたり、戻したり。
 洗うと言うより、悪戯をしているような動きだ。決して痛くはない。くすぐったいような、それでいて胸の内を触られるような感覚に、意識が溶け込んでいく。
 気持ちがいいのかもって、思ってしまう私がいた。

        7

 指先が乳首から離れた。
 ホッと息を吐いたのも束の間、乳房全体を五本の指で包まれた。とても、洗っているとき思えない。こういうのを愛撫というのだろうか。
 セックスには、もちろん、興味を持っていた。男の子と、肌を合わせる夢を見たことも、一度や二度ではない。
 でも、今、私の胸を揉んでいるのは玲子さんだ。
 女の人に乳房を揉まれるなんて……思いがけない体験に、戸惑うばかりだった。
 玲子さんの掌が、乳房から首筋へと移動していく。物足りないような想いを置き去りにして、身体を洗う作業に戻っていく。
 顎の下まで擦られた後、二つの掌が向きを変えた。
「さあ、お尻を上げるのよ」
 喉の奥に氷が詰まる。そんなことをしたら……
「ええっ、あっ、は、はい、でも」
 しどろもどろの私を、玲子さんが睨む。二つの視線が、「お仕置きは、イヤでしょ」と迫ってくるようだ。
 狭いバスタブの中で、身体をギリギリまで、前に倒す。
 お尻が浮き上がった。
 待っていましたとばかりに、玲子さんが撫で回す。こんなところまで洗われてしまうなんて。これから、毎日なのだろうか。
「ひゃあん」思わず声を出してしまったのは、指先が股の間に触れたからだ。わざとではないと思う。ほんの一瞬、掠めただけだった。
「可愛い声の出すのね。でも、これからが本番よ」
 玲子さんの口元に妖しい笑みが浮かんだ。本番って、何をするつもりなのだろう。
 女の子の部分を避けるような指遣い。いつの間にか、それを、じれったいと感じていた。他人に触らせるような場所ではないのに……
「美雪ちゃんはバージンよね」
 なんでもないことのように尋ねられた。
「は、はい」声が裏返る。
「ホントにきれいな桜色をしているわ。オナニーもしたこと、ないんでしょ」
 玲子さんが、女の子の部分をのぞき込んでいた。全身が熱くなる。お尻を下げようとすると、途端にピシャリとやられた。
「あーん、恥ずかしいですぅ」
 甘え声になっていた。お母さんにだって、こんな至近距離で見られた覚えはない。
「昨日のカレシとは、どこまで進んでいるの。もうキスくらいはしたのかしら」
 お母さんだって、そこまでは訊かない。志帆だって、こんなにストレートな言い方はしない。玲子さんは、お尻に泡を立てながら、ついでのように話し掛けて来る。
「そんなんじゃないです。健太なんて……」
 少しだけ、声が大きくなっているのに、驚いた。
「そうなの。お手々繋いだりして、仲が良さそうだったのに」
 どういうつもりなのだろう。健太と付き合っていると言ったら、慶子さんに売るのを止めてくれるのだろうか。それとも……
「エッチするなら、卒業までにしてね。バージンじゃないと値が下がっちゃうんだけど、こればかりは、しょーがないわね」
 上体を反転させ、玲子さんと向き合った。身体を限界まで捻ったまま、玲子さんの瞳の奥をのぞき込む。胸に溜まっていた空気が、重くなっていく。
「心配しないで。私がもらったりしないから」
 玲子さんの指が、女の子の部分を掠めた。
 溜まらずに息を吐き出す。全身に甘美な刺激が走った。目の前が白くなり、頭の中が空になる。何か、重大なことを考えていたはずなのに。
「玲子さん……」
 ようやく思い出しかけた言葉を、玲子さんの唇で塞がれた。
 一瞬、何をされたのか、わからなかった。
 キス……!
 そう。これは間違いなくキスだ。
 それも大人のキス。開いた唇の間から、舌が侵入してくる。泡だらけの手で頭を抑えられ、逃げることもできない。
 私は、されるがままに、口を舐められた。
「でも、悪戯はするかもね」
 玲子さんは、一度、離した唇を、もう一度押し付けてくる。
 これが、いたずら? 私の、ファーストキスなのに……
 思考が追い出される。頭の中が、再び、空になる。何もできずに、じっとしているだけの私。ハダカにされて、首輪を付けられて、キスまでされて。
 私は、もう、逃げようとは思わなかった。
 売られてしまったら、男の子と付き合うこともできないらしい。
 それはそうだ。
 私は、犬になるのだから。

        8

 いつの間にか、バスタイムが終っていた。
 髪の先から雫が落ちた。キスをされた後は、何となくしか覚えていない。たぶん、人形のように、従順だったのだ。
 バスタブに手を付く私に、玲子さんが、大きめのバスタオルを被せた。
 髪を拭かれるのも恥ずかしかった。
 目を合わせられずにいる内に、全身を拭き終えたらしい。バスタブから出るように言われた。柔らかなタオル地のマットに四つ足を付く。
 玲子さんが、私の首輪に手を掛けた。「えっ」と身を引く私……
「学校、遅れちゃうわよ」
 目が合った。
 玲子さんの唇が、鼻先に見えた。もう、キスしてくれないのだろうか。
 首輪が外された。
「はい、人間に戻っていいわよ」
 玲子さんが立ち上がる。「服は自分で着てね」と脱衣カゴを渡された。夕べ、私が脱いだ衣類が入っていた。
(調教は終りなんだ)
 そう思うと、急に恥ずかしさがこみ上げた。明るくなったお店の隅にハダカでいるのだ。普段ならあり得ない状況に、身体を丸めた。
 下着に、足を通しながら、時計を探した。
 七時前だった。学校に行くには、まだ、かなり余裕がある。いつもなら、ようやく朝ご飯を食べている頃だ。
「ドライヤー、使っていいわよ」
 脱衣カゴの奥に入っていた。ショーツだけ履くと、身体にバスタオルを巻き付けて鏡の前に立った。
 ドライヤーのスイッチを入れる。この熱風は、人間でも、犬でも、同じように暖かいのだろう。髪は、ほとんど乾いていた。
 鏡に映った玲子さんは、ヘアーブラシを持っていた。
 何も言わずに、私の髪をとかし始める。お姉さんがいたら、こんな風に世話をやいてくれるのかなって、少しだけ思った。
「可愛いでしょ」と見せてくれたのは、小犬の飾りが付いたヘアゴムだった。
 いつもはおさげにしている髪を、玲子さんが耳の上で束ねた。
「これって、ツインテール……」
 鏡の中の、髪型が変わった自分に、見入っていた。
「気に入ってくれた?」
 玲子さんの顔が、私の隣に映っていた。小さく頷いて見せた。玲子さんは、満足げに、束ねた髪を撫でた。
「ワンちゃんの耳みたいでしょ。学校には、首輪をしていけないものね」
 そういうことかと、妙に納得した気分だった。調教は、お店の中だけではないらしい。
 私は、頭を傾げて、ヘアゴムの飾りを鏡に映した。これが首輪の代わり……「うん、いいかも」と、顎を高くした。
 あのキスも、調教の一部なのだろうか。
「お砂糖は、いくつ?」
 制服を着替えている間に、玲子さんが、コーヒーを入れてくれた。折り畳みテーブルの両側に丸イスを置き、向かい合う。
「今日は初日だから、だいぶオマケしちゃった。次からは、こうはいかないからね」
 玲子さんが、コーヒーカップを片手に、首を傾げた。「わかっているわよね」とも「覚悟しておきなさい」とも取れる、顔つきだった。
 時間になるまで、まったりとした時間を過ごした。
 レジの脇に小型の液晶テレビを置き、朝のニュース番組を見ながら、玲子さんとおしゃべりした。家にいるのと、変りがなかった。
 ペットショップを出る時、お弁当を渡された。受け取る手が止まった。
「大丈夫よ。ドックフードじゃないから」
 玲子さんが笑っていた。
「また、学校が終ったらね」
 背中が、ぞくっとした。
 これからは、毎日、こんな感じなのだろう。玲子さんと、二人だけの秘密ができたようで、嬉しかった。

        9

 学校に向かう道すがら、今朝の出来事を思い出していた。
 檻の中で玲子さんに起こされ、首輪に鎖を付けられて外に出された。店内を四つん這いで曳かれ、オシッコするところを見られ、床に置いたエサ皿でドックフードを食べ、ペット用のバスタブで身体を洗われた。
 まともに考えたら、屈辱的な行為に違いない。
 お尻もひどく叩かれた。
 お仕置きすると、怖い顔で睨まれた。
 もう二度とあの場所には戻りたくない、そう思っても不思議ではないのに、私は、早く学校が終わって欲しいと思っていた。
「いい子ね」と、玲子さんが褒めてくれた。
 それがとても嬉しくて、また、褒められたいと思っていた。玲子さんに頭を撫でてもらえるなら、犬でもペットでも構わなかった。
 どうしたら褒めてもらえるかと、そればかり考えていた。
「おはよう、華原さん。昨日は大丈夫だった?」
 健太だった。「ひゃあっ」と、飛び上がる私。
「ゴメン、驚かせちゃった?」
 健太は、息を切らしていた。私の後ろ姿を見つけ、遠くから走ってきたのだろう。気が付くと、学校の近くまで来ていた。
 胸が騒いだ。玲子さんが、変なことを言うからだ。
 ――エッチするなら、卒業までにしてね
 私は、頭を大きく振った。
「誰が、あんたなんかと……」
 健太を睨み付け、すぐにその目を通学路に戻す。頬が少しだけ火照っていた。こんな顔は、健太に見せられない。自ら早足になった。
「何だよ。人が心配しているのに」
 健太が、すぐに追い付いてきた。
「心配することなんかないわよ」
 健太は、離れない。私の脇に身体を寄せ、耳に食い付きそうな勢いだった。
「昨日、俺の手を引っ張っていったのは、あの人から逃げるためだったんだろう」
 そうなのだろうか。私は、玲子さんを怖がっていた?
(ううん、玲子さんはいい人よ。今朝だって……)
 無意識に、唇を押さえていた。
「いいから、ついて来ないでよ」
 さらに、足を速めた。
「学校に行くんだから、仕方ないだろう。俺は華原さんが」
 私は、足を止めた。健太が、二三歩進んで、振り返る。目が合った。真剣な眼差しが痛かった。
「だったら、先に行ってよ。あんたなんかと、歩きたくないんだから」
 距離が離れた分、大きな声になっていた。
「何かあったんだね。今日の華原さん、変だよ」
 健太が一歩、踏み出した。
 私は背を向けた。健太が悪いわけではない。言い過ぎなのもわかっていた。
「あんたに何が……」わかるのよ、と言おうとして、口をつぐんだ。
 背中のすぐ近くに、健太を感じた。
 昨日、健太をペットショップの前まで連れて行ったのは私だ。あんなことがあれば、心配するのは無理もない。それなのに、どうして辛く当たってしまうのだろう。
「わかったよ。でも、俺はいつでも、華原さんの力になるから」
 健太が、校門に向かって、走り出した。
 遠ざかる背中に「バカっ」と呟く。卒業まで、あと何回、この道を歩くのか。健太には、わかっていないのだ。

        10

 教室に入り、自分の席に着く。志帆は、まだ、来ていなかった。
 昨日と変りのない教室のはずなのに、どこかよそよそしい。
 三者面談も終り、もうすぐ一学期の期末試験。その後すぐに、県内一斉の実力テストが控えている。進路を左右する大きなイベントだ。
(ピリピリするのも、無理はないか)
 クラスメイトたちが、自分とは別のほうを向いている気がした。
「美雪ちゃん、ツインテールにしたんだ」
 登校してきた志帆が、机に肘を付き、私の顔をのぞき込んだ。クラスメイトの何人かが振り向く。こちらに近づいてくる者もいた。
 健太は、気づいていたのだろうか。
「可愛いね、これ。ワンちゃんだよね」
 志帆は、ヘアゴムの飾りをいじった。他の子たちも「どれどれ」と寄って来る。
「似合う……かな?」
 私は、首を窄めた。
「うん、可愛いよ。でも、どういう心境の変化?」
「どうって、別に……」
 犬の耳の似せるためだなんて、誰にも言えるわけがない。こういう展開は、予想できたはずだった。
「カレシが、できたの?」
「それとも、これからガンバルとか?」
 集まった女子たちが、口々に訊いて来る。当たり前の日常だった。
 何のことはない。よそよそしいのは、私のほうだったのか。
 檻の中で一晩を過ごし、自分だけ別の世界に行ってしまったような気分に、なっていたらしい。
「そんなんじゃないって」
 応える私に、「白状しなさい」と迫るクラスメイトたち。甲高い笑い声に包まれる。質問攻めは、朝のホームルームが始まるまで続いた。
 授業に集中しなければとは思う。健太にも、悪いことをしたという意識はある。
 それでも頭に浮かぶのは、檻の中の生活だった。
 調教の時以外は、ずっと閉じ込められているのだろう。私は逃げられない。こうしている今も、ツインテールのヘアゴムに縛められている。
 ハダカで、何もできない私。
 惨めなはずなのに、怖かったはずなのに、一刻も早く、あの場所に戻りたいと願っている。玲子さんに、調教して欲しいと思っている。
(今夜は、何をされるのかしら)
 一時間が長かった。一日が長かった。鉄格子が恋しかった。そんなふうに思えるのも、こうして檻の外にいられるからだろうか。
 ――今日は初日だから、だいぶオマケしちゃった。次からは、こうはいかないからね
 お店を出る前に、玲子さんが言っていた。
 今日はオマケ。だったら、明日からはどうなるの?
 不安はある。うまくできなくて、お仕置きされる場合だってあるだろう。お尻を叩かれるだけでは済まないかもしれない。
 痛いのはイヤだけど、玲子さんに怖い顔で睨まれるのは、もっとイヤだった。
 昼休みになったら、また、志帆を屋上へ誘おうか。聞いてもらいたい思いは、たくさんあった。
 でも、きっと言い出せない。
 言っても信じてもらえないだろう。犬になるための調教を受けているなんて。

        11

 放課後、急いでペットショップに向かおうとする私を、志帆が呼び止めた。「校門まで、一緒に行こうよ」と、特に用があるわけでもなさそうだ。
 志帆と肩を並べて、昇降口を出た。
「美雪ちゃん、進路は決まったの」
 これが、訊きたかったのか。
 私が、水泳部の強い高校に行くのを迷っていると言ったからだ。正確には、行けなくなるのだが。
「まだ、決めてない……ゴメンね。心配かけて」
「ううん、大事なことだもの。よく考えたほうがいいよ」
 こういうところは、やはり親友だと思う。隠し事をしている自分が恥ずかしい。心の中で、もう一度、手を合わせた。
「明日は、何か予定があるの」
 志帆に訊かれて、答えに困った。
(そうか。明日は土曜日なんだ。アルバイトは、お休みのはずだけど……)
「たぶん、何もないよ。どうして?」
「もしかしたら、ちょっと用事ができるかも。その時は電話するね」
 志帆が、携帯電話を耳に当てる素振りを見せた。
「う、うん」気になる言い方だったが、訊かないでとも言っているようだった。
「じゃ、また。このところ、毎日だね」
 志帆が、私の肩を叩いて駆け出した。
 校門で、健太が待っていた。「何よ」と睨み付ける私。本当は、今朝のことを謝らなければならないのに。
「今日も、あのお店の前を通るんだろ」
 独り言のようだった。
「どういうつもりよ?」
「華原さんが、俺のこと、何とも思ってないのはわかってるよ。そんな好きでもない奴の手を引っ張っていったのは、一人で通るのが怖かったからだろ」
 そんなふうに見えたのだろうか。
 健太の言うとおり、昨日の私は、怖がっていたと思う。健太がいてくれて、助かったと思ったのも事実だ。
「別に、何とも思ってないわけじゃ……」
 自分の言葉に驚いていた。私は、健太の視線を外す。
「いいよ。気を遣わなくても。俺が勝手に付いて行くだけだから」
 先に歩き出す健太。
「ウソつき」私は、健太の隣に並んだ。
「何だよ、それ」
「勝手に付いていくって言っておいて、前を歩いてるのは何なのよ」
 自然に笑いかけていた。今なら、ゴメンと言えるかもしれない。
 昨日の今日で、また健太と一緒に下校している。このままペットショップへ行ったら、玲子さんは、どう思うのだろうか。
 毎日、校門で待っている健太。
 私のほうが先に帰っていたら、どうするつもりなのか。学校に誰もいなくなったとわかるまで、立っていたりして。
 横目で、健太を見た。
 マスクだって、決して悪くはない。無神経なところはあるが、バカが付くほど、真っ直ぐなヤツだ。女の子を騙すなんて、できないだろう。
 取り留めのない会話でも、それなりに楽しかった。男の子と二人きりで、こんなに長く話をしたのは初めてだ。
 胸がときめくって、こんな時に使う言葉なのだろうか。
 玲子さんのことだって訊きたいだろうに。健太は、私が思っていたより、大人なのかもしれない。
 ペットショップに着いた。
「それじゃまた」
 私は立ち止まる。健太の表情が曇った。
「どういうこと。華原さん、このお店に寄って行くの」
 昨日の私を見ていれば、当然のリアクションだった。健太にしてみれば、何のために付いて来たのかわからない、と言ったところか。
「私、ここでアルバイト、することになったんだ」
 話して良かったのか。
 言ってしまってから、後悔の念がこみ上げた。なんで言ってしまったのだろう。玲子さんとの関係を、知られるわけにはいかないのに。
「アルバイトって……」
 健太が詰め寄った時、お店の自動ドアが開いた。
「美雪ちゃん、いらっしゃい。あら、今日もカレシと一緒なの?」
 玲子さんが出て来た。
「カレシじゃないです」と、玲子さんを、お店に押し戻そうとした。健太が、睨み付けているのに気づいた。
(どうしよう。玲子さんは悪い人じゃないのに)
 何か言わなければ……でも、言葉が見つからない。
「健太クンよね。美雪ちゃんのアルバイトぶり、見ていく?」
 玲子さんが、健太に微笑みかけていた。
 なんで名前を知っているのだろう。
 そっか、あの時……
 頭の中で、回想がグルグルと巡り、頬が熱くなった。あの時の私は、玲子さんに身体を洗われていたのだから。
「と言っても、今日からだから、何もできないだろうけどね」
 今度は、私に向かってウインクする。「任せておきなさい」と言っているようだった。
「華原さん!」健太が呼び止める。私がお店に入ろうとしたからだ。
「帰って」と言いたかった。でも、口から出たのは、
「見て行く? いいわよ。そうしたいなら」
 私は、玲子さんの後に続いて、お店に入った。
 一度閉った自動ドアが、もう一度開いた。レジの前に立って振り向くと、健太が入口に立っていた。

        12

 玲子さんとお揃いのエプロンを借りて、お店に立った。私にできる仕事は限られていた。「いらっしゃませ」と声を出すだけでも、恥ずかしかった。
 健太の視線が、気になってならない。
 毎日のように通っていたから、何がどこにあるかは、わかっているつもりだった。それでも、お客さんに訊かれて、戸惑うことが多かった。
「わからないことは、なんでも訊いてね。訊いて覚えるのが一番なんだから」
 そのようだ。
 私にとっては初めてのアルバイト。気疲れからか、背中の汗が乾く間もなかった。
 健太は、黙って立っていた。もう、帰ればいいのに。
「美雪ちゃん、レジ、お願い」
 玲子は、他のお客さんを接客中だった。
「はーい」とレジカウンターに立つ。お客様からドッグフードの缶詰を受け取り、バーコードにスキャナを当てた。レジに表示された金額を読み上げ、代金を預かってお釣りを返す。商品を袋に入れて、「ありがとうございました」と頭を下げた。
 以前に教えてもらった通り、無難にこなせてホッと息を吐いた。
 健太と目が合った。
 どことなく照れくさい。小学校の授業参観を思い出した。
 いつまでいるつもりなのだろう。
 壁掛け時計を見た。閉店時間が迫っていた。
「美雪ちゃん、お疲れさん。今日は、もういいわ」
 玲子さんが、私の肩に手を置いた。
「えっ、でも……」(この後、犬になるはずじゃなかったのか)
「今日は金曜日だし、また来週、お願いするわ」
 玲子さんが、すっと耳元に口を寄せた。
「月曜日の朝、檻に入っているのよ」
 ぞっとするような命令口調だった。
 私は、身を引いて玲子さんを見つめる。妖しい笑みが怖くもあり、魅力的でもあった。返事をするのも忘れていた。
「ほら、カレシがお待ちかねよ。デートでも、していらっしゃい」
 玲子さんが背中に回り、エプロンの紐をほどいた。「自分でやります」と続きを引き受け、エプロンをたたんで玲子さんに返した。
 横目で健太を見た。
「ホントに、カレシじゃないんですよ」
 玲子さんが、首を傾げた。
「でも、気になってしょーがないんでしょ」 
「そんなこと……」ないとは、言えない。玲子さんには、わかっているのだ。
「いいから。お疲れさん」
 私は、深々と頭を下げた。鞄とバッグを持って自動ドアに向かう。健太に目配せして、先にお店の外に出た。
「今日は終りなんだね」
 健太が、すぐに追いついて来た。機嫌が良さそうに見える。お店に入る時には、しかめっ面もいいところだったのに。
 二時間は経っていた。よく何もせずに、待っていられたものだ。
 夏の夕暮れは長い。川沿いの道に出ると、子供たちの遊ぶ声が聞こえた。夜道が怖くなる前に、家に着いてしまうだろう。このまま帰るのが、勿体なく思えた。
(玲子さんが、変なことを言うから)
 健太にも聞こえていたはずだ。どんな思いで、聞いていたのだろう。私は「ねえ」と声をかけた。
「カレシって言われて、うれしかった?」
 からかったつもりなのだが、健太は真顔だった。
「悪い気はしないけど、うれしくはないさ。あの人の誤解だからね」
 バカ正直なヤツだと思う。私は、健太をよく知らなかったのかもしれない。
 志帆が健太を好きになって、橋渡しをしようとして、あべこべに告白された。それ以来、逃げ回っていた。親友をフッた相手と、仲良くはできない。
「素直じゃないわね。そういうのって、女の子の特権なんだぞ」
 どこまで伝わっているのやらと、ため息を漏らした。
「華原さん、楽しそうだったね」
「えっ、何のこと?」
「アルバイトだよ。水泳をしている時と同じ顔だった。一生懸命に打ち込んでいる時の華原さんって、好きだなあ」
 胸に甘い痛みを覚えた。
 アルバイトを認めてくれたのは良いが、いとも簡単に「好き」と言ってくれるものだ。もっとも、本人は気づいてもいないらしい。
(隣にいるのは、あんたの好きな女の子なんだよ)
 私は、健太の前に出て向き直った。
「キスしてみる?」
 健太も立ち止まる。口を半開きにして見せたのも束の間だった。
「華原さん、急にどうしたの」
「だから、私とキスしてみるって聞いてるの」
「マジ?」
 健太が半信半疑なのも無理はない。すぐに「からかっているんだろう」と、首を横に向けた。
「素直になれないのは、女の子の特権だって言ったでしょ。あまり難しく考えなくてもいいんじゃない。こんなチャンス、二度とないわよ」
 夕日が、二人の顔をオレンジ色に染めていた。そろそろ、表情が見え憎くなってくる頃だ。玲子さんは、ここまで読んでいたのだろうか。
「華原さん、俺……」
 健太が、足を踏み出し、両手で二の腕を掴まれた。もう逃げられない。心臓は、最高潮に高鳴っていた。
 健太の顔が近づいて来た。目を閉じた。唇に生暖かいモノが触れた。
 ただ唇を重ねるだけのキス。玲子さんとは全然違う。それなのに、なんでこんなにドキドキするのだろう。時間が止まったようだった。


一覧  目次  前話  次話