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エピローグ


 もうすぐ夏休み。
 閉店時間を過ぎたペットショップは、誰もいなくなった後も、ペットの飼育に必要な室温と湿度に整えられていた。
『美雪 牝 十四歳』と書かれた名札には、売約済みの札が貼られた。
 板敷きの上に、手足をたたんで寝るのもすっかり慣れた。檻の中には、テレビも携帯電話もない。私に与えられたものは、首輪と水皿だけだった。
「お水、飲みすぎちゃダメよ」
 玲子さんは、水皿を並々と満たし、帰って行った。
 南京錠には、しっかりと鍵が掛かっていた。
 水皿から舌ですくって水を飲むのもうまくなった。ハダカで土下座するような格好が惨めだったが、そのほうが犬らしいと、ウォーターボトルを使わせてはもらえなかった。
 今夜は、お尻がヒリヒリと痛む。
 オシッコをするのが、相変わらず下手だった。練習用に指定された洗面器の外にこぼしてしまい、お尻を散々に叩かれた。このところ毎日だった。
「明日もこぼしたら、外でさせるからね」
 そう宣言されてしまった。
 首輪にリードを付けられて歩く訓練も、受けていた。
 膝を付いてはいけないと言われた。犬と人間では手足の長さが違う。膝を付かずに四つん這いで歩くには、お尻を高く上げることになる。丸ハダカの私には、かなり厳しいポーズだ。
 初めてその格好をさせられた時には、恥ずかしさのあまりに二本足で店内を逃げ回り、ケージをひっくり返した。いつもは平手なのに、この時だけは鞭で打たれた。お尻のミミズ腫れが、しばらく治らなかった。
 高這いの恥ずかしさは、今も変わりない。
 お仕置きが怖くて、我慢しているだけなのだ。今はまだ狭い店内だけだが、その内、外にも連れて行かれるのだろう。
「愛玩犬は、甘え上手でなければならないのよ」
 調教には、そうしたものもあった。座っている玲子さんの膝に乗って顔をこすり付けたり、頭を撫でてもらうのを催促したりするのだ。
「そう、そう。うまいわよ」
 こうして玲子さんに撫でられている時は、幸せだった。お母さんが言うように、犬になるのも悪くはないと思えた。
 お腹を上にして寝転び、手も足もM字型に開いて見せるポーズを教わった。「服従のポーズ」と呼ばれ「一切抵抗致しません、好きにしてください」という意味だそうだ。
 これをハダカでするのだから、女の子には耐えられないポーズだった。
 玲子さんは、お腹を撫でてくれた。女の子の部分に悪戯することもあった。厳しい牝犬調教の合間に、心が和むひと時だった。

 学校にも通った。普通に授業を受け、志帆や他の友だちともお喋りをした。
 健太とも顔を合わせた。
 未だに気恥ずかしい。エッチをしたのは一回きりだが、誰の目にも、それとわかったのだろう。今では公認の仲だった。
「こいつ、子分にしてやることにした」
 志帆には、そう話した。「良かったね」と言ってくれた。
 週末には家に帰った。オシャレをして街にも出た。デートもした。逃げ出そうと思えば、機会はいくらでもあった。
 中学校を卒業するまでの間、私は悩み続けるのだろう。
 日曜日の夜の内に、ペットショップへ戻る。
 誰もいなくなった店内で、ハダカになって首輪を付け、檻に入る。南京錠を掛ける瞬間は、今でも指が震えた。鍵は、玲子さんしか持っていないのだから。

 期末テストも終り、何度目かの、月曜日の朝だった。
「おはよう。夕べはよく眠れた?」
 お店に出てきた玲子さんは、いつもの言葉を繰り返し、何事もなかったかのように、檻の中の私をのぞき込んだ。
「私がここにいなかったらって、考えてことはないんですか」
 ふと出てしまった言葉だった。玲子さんは、少しだけ思案気な仕草を見せたが、
「その時は、電柱に迷子犬のポスターを貼ろうかしら」
 どこまで本気なのか。「後で写真を撮っておこうね」なんて、恐ろしいことを言っていた。
 朝の餌付けが終り、シャワーを浴びると、私はようやく二本足で立つことが許される。お店を閉めて後かたづけを終わるまでだから、まだ少し、人間でいる時間のほうが長いようだ。
「ずっとハダカのほうが、楽だったかもしれないわよ」
 なまじ、昼間は制服を来て学校に通っているばかりに、なかなかハダカの犬の生活に慣れないのだと、玲子さんは言っていた。
 その通りかもしれない。
 首輪を付けて、檻の中で寝起きする。そうした生活がすべてならば、適応していくのが人間なのだろう。今のような中途半端は、余計に苦しい思いを強いられているのかもしれない。

 慶子さんも、一度だけ顔を出した。
 この前は高慢で怖い人だと思ったが、二度目に会った時には、印象が変わっていた。この人が飼い主だという自覚ができたからだと、玲子さんは言う。
「慶子さんってどんな人ですか」
 その日の調教を終えて、檻に戻された後、玲子さんに尋ねた。こういう話をする時は、いつも鉄格子の内と外だった。
「優しい人よ。大丈夫。きっと可愛がってもらえるわ」
「そうですか」
「従順で甘えん坊のペットでいることね。でもやりすぎはダメよ」
「はい」私は、素直に安堵した。
 玲子さんは、信じて良い人だと思う。
 調教の時は怖いこともあるが、今は誰よりも優しいお姉さんだ。いっそのこと、このまま玲子さんに飼ってもらえたらと思うこともある。
「慶子さんに飽きられないようにするのよ。捨てられたり、売られたりしないようにね」
 私は心臓を掴まれた。
「また、売られるんですか」
「可能性はあるわね。美雪ちゃんくらい可愛いワンちゃんなら、欲しがる人はいるもの」
 考えてもみなかった。
「そんな、私、イヤです」
「イヤと言っても、飼い主が決めたらどうにもならないのよ」
 私は愛玩犬。人から人へ、売り渡されていく運命だというのか。玲子さんは、何かを思いついたようだ。
「ねえ、美雪ちゃん。次のご主人様が男の人だったらどうする?」
 ハダカで檻に入れられていても、目の前にいるのが玲子さんだからこそ、恥ずかしさに耐えられるのだ。もし男の人だったら、どれほどの羞恥を感じることか。
「ハダカを見られるだけじゃ済まないのよ」
 玲子さんが、私を見つめる。言っている意味が、伝わってきた。
「そんな……ひどいです」
「ひどくなんか無いわよ。美雪ちゃんは飼い犬だもの。毎日、いろんな人にされちゃうかもよ」
 私は、本気で泣き出してしまった。
 犬になって檻の中の生活になっても、ペットとして可愛がってもらえるならと思っていた。男の人に犯されながら過ごすなんて、そんなの生き地獄だ。
「うそよ。冗談だってば」
 玲子さんが慌てていた。私の反応が、予想以上だったようだ。
「慶子さんは、そんな人じゃないって」
 返事ができない。
「万が一そんなことになったら、私が引き取って飼ってあげるわよ」
「ほ、本当ですか」やっと声が出た。
「ええ、約束するわ」
 檻がなかったら、玲子さんに抱きついていただろう。でもこれが、私と玲子さんの関係でもあった。
「今は慶子さんに気に入られることだけを考えるのよ。それが一番なんだから」
「はい、わかりました」
 玲子さんは、かわいそうなくらいだった。ちょっとからかったつもりが、私の取り乱しようを見て、とても困ったようだ。
 考えてみると、こういう冗談は、ずっと前から言われていたような気がする。却って悪いことをしてしまったのかもしれない。

 来年の三月には、中学校を卒業する。
 その頃には、私の調教も終了して、引渡しの準備が完了しているのだろう。先生や友だちには、一流のトリマーを目指して留学することにするそうだ。
 志帆まで騙すのは、胸が絞めつれけられる思いだった。
 健太は、どうするだろう。まさか、「一緒に来て」とも言えないし……
 鉄格子の中では、立ち上がることも、手足を伸ばすことも、できない。この檻ごとトラックに乗せられて、慶子さんのお宅まで運ばれることになるのだろう。
 着替えも荷物もない。首輪一つの丸ハダカで。
「玲子さん、この調教って……」
「何かしら」
「ううん、なんでもないです」
 玲子さんは鉄格子の間から手を伸ばして私の頭に乗せました。
「向こうに行ったら、可愛い名前を付けてもらうのよ」
 どうやら「美雪」という名前も、ここに置いていくようだ。玲子さんが、少しだけ目尻を押さえたように見えた。
 私が飼われる場所は、孤島に建てられた、大きな洋館だと聞いている。お庭も広く、高い壁に囲まれているそうだ。お屋敷で粗相なんかしたら慶子さんに嫌われてしまう。
 明日の調教では、オシッコをこぼさないようにしなくては。
(おわり)


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