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第9話 お母さんのストリーキング

 カーテンの隙間から差し込む日差しが力強かった。
 愛美は目をこすりながら目覚まし時計を見る。針が二本とも上を向いていた。
「ええっ、なんでぇ」
 誰もいない部屋で声を上げた。こんな時間まで寝ていたことなどない。愛美はベッドの上で起きあがり、両手で持った目覚まし時計と睨めっこをすること三十秒……今日が土曜日であることを思い出すまでの所用時間だった。
 布団の上に、もう一度手足を投げ出す。
 夕べは何もしないで寝てしまった。少なくとも中学生が帰宅する時間ではない。起きて待っていた君枝との会話は「ご飯は?」「食べた」の一言ずつ。自分の部屋に駆け上がる愛美。玄関には靴が投げ出されていた。パジャマに着替えただけでもめっけものだった。
 昨日は朝からいろいろなことがあった。真っ暗な内から全裸で公園を一周して、服を着ることができなくなって、朋美に助けてもらって。
 それにしても、私の服は誰が移動したんだろう。
 放課後は朋美のマンションに連れて行かれた。愛美は奴隷だと改めて宣言され、ハダカにされて、首輪まで。ベランダにも出された。
(二人で入ったお風呂は気持ち良かったなあ)
 朋美は、また来ていいと言ってくれた。「今度は泊まって行く?」って。
 寝る時もハダカなのかなあ。お布団はどうするんだろう。朋美さん、一緒に寝てくれるのかしら。まさかまたベランダに出されて「朝までそうしていなさい」とか言われたりして。
 ううん、やだ、そんなの。
 せっかく朋美さんのお部屋に泊めてもらうのだもの。ハダカでもいいから、髪を撫でられながら眠りたい。あの大きな胸に甘えたい。今日はお休みだったんだもの。夕べ、あのまま泊まってしまえば良かったんだ。
 愛美は寝返りを打つと枕を抱きしめた。
 下の階からはテレビの声が聞こえていた。今日は君枝も休みらしい。昼間はパートに出ていると聞いていたが、その割には家にいることが多いと思う。小さい頃は家にいてくれることが嬉しいだけだった。でも最近になって不思議に思うことがある。生活するだけのお給料を稼げているのだろうかと。
 ベッドの上に体を起こす。
 枕元のケータイに目を向けた。開いてみたが、メールも着信履歴もなかった。
(朋美さんはお兄ちゃんとデートかな)
 愛美は勢いよく布団を跳ね上げた。パジャマを脱ぎ捨て、ジョギング用のTシャツと短パンに着替える。
(今日は部活もないんだもの。いつもの倍は走らなきゃ)
 階段を駆け下りた。
「起きたの?」
 君枝の声に「うん」とだけ答えて玄関を飛び出した。

 昼間のランニングは人とすれ違うことが多い。知った顔もいるから照れくさかったりもする。陸上部に入っていることを知っている人ならともかく、知らない人にはどう思われていることやら。
 愛美はいつの間にか例の公園の側まで来ていた。本来、コースから外れていたのだし、今日はここへ来る理由もなかったのだが、何かがそうさせていたらしい。
(昨日はここをハダカで走ったのよね)
 ただ走り抜けるだけのつもりだった。朋美にもここでは露出しないように言われていたし、それは近づかないようにという意味でもあったのだと思う。誰かがいたことは間違いないのだ。愛美は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(あれっ)
 公園の入り口に人影が見えた。
 気のせいかもれない。でも、愛美を見て隠れたようにも見えた。足が止まりそうになる。引き返したほうが良いのだろうか。そう思った矢先だった。愛美の記憶が、今見たばかりの人影に重なった。
「あんた、ちょっと待ちなさいよ」
 愛美は全速力で走った。気のせいではない。人影は公園の中に向かって逃げ出した。でも、そうするのが遅かったようだ。噴水の前で愛美は追いついた。
「やっぱり、あなただったのね」
 愛美が腕を掴む。その人影は、いつか里奈のケータイをひったくって逃げた男の子だった。愛美がケータイのアドレスを書いて渡してやったのに、メールもできない意気地なしだと思っていた。
「何だよ。今日は何もしてないだろう」
「じゃあ何で隠れるのよ」
「だってよう。やっぱ気まずいじゃん」
「それだけ?」
「他に何があるんだよ」
 この男の子は、以前から愛美をストーキングしていたのだ。昨日の公園でも、学校のグランドでも、後をつけ回していたに違いない。
「あれからも毎日のぞいていたでしょ」
 愛美だけではない。一昨日は朋美も一緒だった。
「のぞいてないよ。俺、もうそんなことしないって」
「なら、昨日の朝はどこにいたのよ」
「普通に家にいたよ。本当だって。俺、今でも君のこと好きだけど、ストーカーみたいなマネはしてないって」
 愛美は手を離した。
「ふーん」
「俺、感激したんだ。この間アドレス書いたメモくれただろう。君はかわいいだけじゃない。本当にいい子だって思ったんだ。だから……」
 公園では数人の子供たちが遊んでいた。小学校入学前だろうか。突然現れた男女に驚き、動きを止めてこちらを見ている。愛美が気づいて目を逸らすと、その男の子も言葉を切った。
「あなたが大きな声出すから」
 愛美は、何でもないのよと子供たちに手を振って見せた。
「君だって……」
「いいわ。信じてあげる」
 愛美は男の子に背を向けて歩き出したが、数歩行ったところで振り向いた。
「あなた、名前は?」
「えっ」
「あなたの名前よ。覚えておいてあげるから教えなさい」
「ああ、木村だよ。木村優太」
「木村君ね。じゃあまた」
 公園にいた子供たちは、自分たちの世界に戻っていた。愛美と優太のことなど、すでに覚えていないのかもしれない。
 愛美は走り出した。
 誰かがいたことは間違いない。優太でなければ誰なのか。ストーキングは褒められたものではないが、そのせいで愛美が救われたことも確かなのだ。それでいて何も言ってこない。人知れずピンチを救ってくれるなんて。
(お兄ちゃん……のわけはないわよね)
 芳樹ならば、見つけたその場で止めさせるに違いない。それでも愛美には、兄の顔しか頭に浮かばなかった。

 家に戻った愛美は時間を持て余した。週末の予定を立てていなかったのは失敗だった。このところ露出に夢中で考えていなかったのだ。里奈にでも連絡しようとケータイを取ったが、朋美から呼び出しがあったらどうしようと思い直した。
 パソコンの電源を入れる。
 露出っこクラブの管理人からメールが来ているかもしれない。この前貰った罰を実行しますとメールした後、チェックしていなかった。

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愛美へ

バージンでも、できることはいっぱいあるよ。
この前も書いたけど、特に露出モノは参考になると思う。
愛美はまだ人にハダカを見られるのはムリかな。
でも、ご主人様が一緒ならできるかもしれないと思わないか。
罰だったらSMモノにはいくらでもあるけど、却って厳しいかもしれないよ。
できるとしても、軽めの放置責めくらいかな。
次の報告を楽しみにしているよ。

管理人
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 メールは届いていた。やはり露出モノをさせたいようだ。
 愛美は忘れていた。夕べ見たAVの中からできそうなものを選ばなければならないのだ。でも、人にハダカを見られるなんて、今はまだ考えられない。朋美も『野外露出のすすめ』を見て「ムリかもね」と言っていた。だからと言って……
 最初に見た『凶悪のSM地獄』はパスだ。どんなに辛くても耐えてみせる自信はあったが、朋美に責められることになるのがイヤだった。『牝犬の檻』は実行不可能だと思う。鉄の檻になんてないし、朋美だってまだ車の免許を持っていない。
 一番可能性が高いのは『緊縛放置責め』かもしれない。これを選んだら、いつかの朋美みたいに全裸のまま外灯に縛り付けられて一夜を明かすのだろうか。それとも木の枝から吊されるのだろうか。
 愛美はAVのシーンを思い出し、手が股間へと向かった。でも、部屋の中ではオナニーできない。さすがにこんな日の高い内から全裸でベランダに出るわけにもいかない。お臍を通過した辺りで指先を揉むしかなかった。
(こんなことならメールを見るんじゃなかった)
 結局愛美は、もう一度ジョギングスタイルに着替えた。この悶々とした気持ちを忘れるには走るしかない。汗を掻いて、疲れて早く寝ようと思った。
 道路に出る。走り出してすぐ例の公園に足が向いていることに気づき、反転した。
 住宅地から分譲中のニュータウンへと進む。南向きのひな壇に区画だけはできていた。家はまばらで、建築中の一戸建てが所々に見えた。車も人通りはほとんどない。絶好のジョギングコースだ。
 一番下まで下りていくと貯水池に出る。フェンスとひな壇の土留めに挟まれたこの場所なら昼間でもハダカになれるかもしれない。いつも走っているコースなのに、今までそういう目で見たことがなかった。
 ひな壇に掘られた駐車スペースの前で立ち止まる。この中ならオナニーできるかもしれない。反対側のフェンス。ここなら磔にされても大丈夫かもしれない。ついそんなことを考えてしまう。
 愛美はかぶりを振った。
(ダメっ、これじゃ外に出た意味がないじゃない)
 そう思い直して走り出す。でも、百メートルも行かない内に、朋美にこの場所のことを話したら何と言うだろうと考えていた。

 ようやく夜になり、愛美はハダカになってベランダに出た。どんなに走っても野外放置の罰が頭から離れない。朋美から連絡があったら、今すぐにでもこの罰にしてくださいと言ってしまいそうだった。
「ああん、あん、あっ、あっ、はふぅ、あん、ああーん」
 ここでのオナニーもすっかり習慣になってしまった。日に日に深くまで潜っていくような気がする。その内に、戻って来られなくなるのではないだろうか。
 想像の中では自分を野外放置することができても、実際にされてしまってからでは取り返しがつかない。朋美のことだからきっと許してはくれないだろう。
(どんな感じなのか、試せないかしら)
 そんなことを考えると、また手が股間に伸びそうになる。愛美は頭を振った。部屋に戻ろうとしてふと目を止めた。
(あれっ、もしかして)
 手すりから頭だけ出して庭を見下ろす。片隅に置いてある物置。あの陰だったら道路から見えないかもしれない。愛美はパシャマの上だけ羽織ると、玄関からそっと抜け出した。
 思った通りだ。物置の陰ならば道路からは見えない。隣の家の人が庭に出れば見つかってしまうが、もう雨戸が閉まっていた。物置の雨どいに手首を縛り付ければ放置責めのまねごとができるのではないか。
 そう思うと、愛美は止まらなかった。
 愛美は家に入ると、階段下のクローゼットから荷造り用のビニール紐を取り出した。自分の部屋に駆け上がりハサミを持つと、もう一度庭に出て物置の前に立った。
(やっぱりハダカにならなきゃダメよね)
 パジャマを脱いで足下に置く。ここでハダカになるのもベランダでなるのも同じだと言い聞かせた。それでも高鳴る胸を押さえ、手首にビニール紐を巻き付ける。右手で紐の一方を掴み、もう片方を口にくわえて引っ張る。一度結んでみたが、簡単に緩んでしまった。
 ハサミで切って縛り直す。三重四重と巻き付けていく内に少しはマシになった。結び目も、どうせ最後はハサミで切るのだからと固結びで何重にも縛る。足下にはビニール紐の切れ端が散らばっていた。
 見た目はともかく、ハサミがなかったら、ほどくことはできないくらいには縛ることができた。後はこれを雨どいに繋ぐだけだ。両手が使えるため、この作業は思ったより楽だった。少し背伸びしてやっと届く高さだ。こっちは蝶結びにした。
 これで準備は完了した。
 愛美は体を一八〇度翻す。そこは紛れもない野外、家の庭先だった。玄関が見える。自分の家のリビングも見える。カーテンの向こうでは君枝がテレビを見ている頃だろう。そんな場所に全裸で放置されている。両手は頭上で一つに合わされ、縛り付けられて逃げることはできない。もし今来客があれば、恥ずかしい姿を晒してしまうことになる。愛美はそのような状況に、自分を追い込んでいた。
(朋美さん、これでいいんですよね)
 足こそ宙に浮いていなかったが、夕べ見たAVの一つ『野外放置責め』を実行したら、きっとこんな感じだろうと思った。
 地面に踵を付いていたから、手首にビニール紐が食い込むということもない。愛美は膝を擦り合わせた。誰かに見られる可能性は低いと思う。だからこそこの場所を選んだ。とは言っても、野外であることに変わりはないのだ。
 とんでもないことをしているのかもしれない。
 もし誰かが目の前に立ったらどうなるだろう。物置へ向き直って蝶結びをほどき足下のハサミでビニール紐を切れば逃げることができる。でも、そんな余裕があるのか。仮に出来たとしても、その間にたっぷりとハダカを見られてしまう。自分でこんなことをして遊んでいたこともばれてしまい、さらに恥ずかしいことを強要されるかもしれない。
 愛美の股間に何かが侵入していくようだ。
 ついさっきオナニーしたばかりだと言うのに、女の子の部分は尚も刺激を求めた。その欲求を満たそうとして両手が頭上に固定されている身を思い出す。被虐感が甘い痺れとなって全身に走り、身悶える。でも何もできない。
(助けて、朋美さん)
 愛美は、無限ループに落ちていった。

 どれくらいそうしていたのだろう。リビングのカーテンが開いた。
 それがどういうことか、すぐには理解できなかった愛美だが、引き戸が開き、君枝がサンダルを引っかけて下りてくるのを見て、体が石になった。
「愛美は、こんなことがしたかったのね」
 君枝が目の前まで来ていた。愛美は両手を下げようと力を入れたが、雨どいがきしむ音を立てるだけだった。
「いやあー」
「イヤって言っても、これ、自分でやったんでしょ」
 君枝が手首のビニール紐を指さした。別に怒っているでもなく、普段と全く変わらない調子で愛美の体を見た。いつもは服に隠されている部分を至近距離から見られた。部屋の明かりが足下まで漏れていた。
「愛美も大きくなったのね」
 君枝が肩で大きく息を吐く。一緒にお風呂に入らなくなってどれくらいになるだろう。自分の母親とは言え、こんな形でハダカを見られるのは辛かった。
 君枝は愛美の素肌を触り出した。ビニール紐で縛られた指先にも触れる。
「お母さん……」
「でも、これじゃダメね。ちょっと待ってなさい」
 君枝は雨どいの蝶結びを固結びに直すと、リビングに入っていった。
 愛美は自分でビニール紐をほどくことができなくなってしまった。こんなことはもうやめなさいと言うわけではないようだ。逆に、逃げられないようにしておいてどうするつもりなのだろう。リビングから戻って来た君枝の手に、その答えはあった。右手には踏み台を、左手には綿のロープを持っていた。
「ほどいてくれないの?」
 それには答えず、君枝はビニール紐の上から綿ロープを巻き付けた。
「これじゃ緩かったでしょ」
「えっ……!」
 ロープを引き絞って縄止めをされると、手首を本当に縛られてしまったという気持ちになる。戸惑う愛美をよそに、君枝は踏み台に上がった。
「屋根に搬入用のフックが付いているの。雨どいでは高さが足りないし、本気で引っ張ったら壊れちゃうわよ」
 物置をクレーンで吊るためのフックにロープの縄尻を縛り付けようというのだ。愛美が本気で暴れても逃げられないように。
「ほら、もっと背伸びして」
 君枝は愛美がつま先立ちになるまでロープを引っぱって固定した。遊びはない。ロープも愛美の体も、引力に引かれてまっすぐに伸びた。
「あらあら、乳首がこんなにとんがって」
 君枝の指先で押しつぶされ、全身にしびれが走った。
「あくぅ」
「お母さんに内緒で悪戯していた罰よ。もう少しそのままでいなさい」
 無抵抗。無防備。無力。
 今の愛美には何もできない。されるがままである。「朝までそうしていなさい」と言われれば、そうするしかなかった。
「愛美がバージンじゃなかったら、ここにも悪戯してあげるんだけどね」
 君枝は愛美の繊毛に軽く触れると、足下にあったハサミとパジャマを拾いあげ、踏み台と一緒に抱えて家の中に消えた。カーテンも閉められ、愛美は一人になる。ここにはもう愛美を救うものはなかった。試しにやってみるつもりだったのに、気づいてみたら本物の放置責めにされていた。実の母親が娘にこんなことをするなんて。愛美には、まだ信じられない思いだった。
 夜の音が耳に届く。遠くで走る車のエンジン音。犬の遠吠え。赤ちゃんの泣き声。夫婦ケンカをしている家もあるみたいだ。物置のすぐ後ろを足音が通り過ぎていった時には、さすがに緊張した。息をするのも怖かった。
 いつまでこうしていなければならないのだろうか。
 君枝は「罰」だと言っていた。まさか、本当に朝までこのままなんてことは。愛美の不安を裏付けるようにリビングの明かりが消えた。
(お母さん、寝ちゃうんだ)
 放置責めがいよいよ現実味を帯びてきた。
 泣き言を言いたくても、大きな声を出すわけにもいかない。君枝の許しが出るまで、このままでいるしかないのだ。寒い季節ではないことだけが救いだった。こういう責めって、真冬でもやるのだろうか。
 木の枝から吊られた朋美の姿を思い浮かべた。朋美はこんな状態で体を打たれた。どこを打たれても避けようがない。もし自分がそうなったら……朋美の苦痛が少しだけわかったような気がした。
 こんな状態では寝ることもできない。
(そうだ。朋美さんだって……)
 あの晩、朝までハダカのまま外灯に縛り付けられていたのだ。自分も同じ体験をするに過ぎないと、愛美は気持ちを奮い立たせた。
 どれくらい時間が過ぎたのだろう。腕の付け根が痺れてきた。指先も冷たくなってきたような気がする。つま先立ちのふくらはぎが震え始めた。このままにしていたら攣るかもしれない。
 愛美の頭が前に倒れる。意識が遠のいていくのを感じた。

「……愛美。ほら、愛美」
 頬をはたかれ、耳から覚醒した。愛美は庭に横たわっていた。手首のロープもほどかれていた。君枝の顔が近くにあった。
「お……母さん」
「良かった。意識が戻ったのね」
「私……」
「お母さん、ちょっとやり過ぎちゃったみたい。愛美はまだ中学生だものね。大人と同じようにはいかないわ。ごめんね」
 辺りは、まだ、暗かった。
 愛美は右手を持ち上げた。手首にはロープの痕が残っている。いつかの朋美みたいだ。肩に少し違和感があるが、たいしたことはないようだ。
「大丈夫? 立てるの?」
 口調こそいつもの君枝だが、額には汗の粒が浮いていた。
「うん」
「じゃ、お風呂に入っちゃいなさい」
「朝まで吊しておくんじゃなかったの?」
「バカねえ。あんな半吊りのままじゃ、大人だってそんなに長くはもたないわよ」
「そうなんだ」
「ほら、立って」
 愛美はハダカだった。雑巾で足の裏だけ拭いてお風呂場に直行する。思ったより体が汚れていた。シャワーとボディシャンプーが大活躍した後、愛美は湯船に体を沈めた。いい湯加減だった。両手ですくって顔に掛けた。
(ああいうの、半吊りっていうんだ)
 愛美は君枝が別人に思えた。うるさいことを言わない放任主義の母親。それがなぜ綿ロープなんか持っているのだろう。縛り方も知っていて、実の娘をハダカで外に放置した。AVで見たようなプレーの経験があるのだろうか。
 お風呂から出て、顔を合わせるのが照れくさかった。
「愛美、聞こえる?」
 浴室のガラス戸の向こうから声がした。
「えっ、うん。聞こえるよ」
「ちょっと、そのままで聞いてね」
「うん」と答える。
 照れくさいのは、君枝もきっと同じなのだと思った。
「お母さん、愛美がベランダでオナニーしているの、知ってたんだ。それも多分ハダカでしているんだろうって思ってた」
「えっ、マジ。何でわかったの?」
「ええ。だって、私がそうだったもの」
 愛美はもっと驚くべきなのだと思う。でも、それもすぐに「やはり」という気持ちに入れ替わっていた。
「ふーん」
「あら、驚かないのね」
「驚いたわよ。さっきね」
「そうか……」
 君枝の声が途絶えた。何から話そうか迷っているのだろう。世間一般で言えば、母と娘の話すことではないのかもしれない。
「お母さんは、あなたのお父さんに調教されたの」
 普段、父親のことを話したがらない君枝には、珍しいことだった。幼い頃から聞きたいことではあった。その話になる母は決まって悲しそうな顔をした。芳樹がいつも「愛美にはお兄ちゃんがいるだろう」と言ってくれた。
「ストリーキングってわかるかしら」
「う、うん」愛美は、古い言葉だと思った。
「丸裸になって人混みを走り抜けるの。お父さんはそういうことをさせるのが好きだったのね。私がイヤだっていうと、お仕置きだってハダカのまま木に縛り付けられたりしたの」
「お母さんはイヤだったの?」
「それはそうよ。大勢の人にハダカを見られるのよ。恥ずかしくないわけないでしょ」
「そうよね……」
「でもお父さんは、そうやってお母さんが恥ずかしがるところを見たかったのよ」
「ひどいわ」
 愛美は胸に釘が刺さった。芳樹が朋美にさせていること連想したのだ。
「本当にそうかしら。愛美もさっきそういう目に遭ったけど、お母さんのこと、ひどいと思った?」
「ううん」
「お母さんもそう。お父さんが愛してくれているとわかっていたから、ひどいとは思わなかったわ。死ぬほど恥ずかしいけど、この人が喜ぶならって思ったの」
「それでストリーキングを?」
「そうよ。人の大勢いるところで何度もやらされたわ」
「丸裸って、その、パ、パンツも……」
「そう。今の愛美と同じ格好。昔のクラスメイトに見られた時には、ホントに死ぬかと思ったわ」

     ◇

 それは君枝が十九歳の春だった。
 高校生の頃から付き合っていた彼の命令でストリーキングを実行した。場所は電車で三十分ほど離れた街のメインストリートだ。日曜日は歩行者天国になっていた。天気も良く大勢の人が出ていた。駅前からスタートして終点まで、人混みの中を一気に駆け抜けるというのが君枝に出された課題だった。
 駅前に止めた車の中で全裸になり、助手席のドアを開けて走り出す。若い女の素肌に誰もが目を奪われた。初めてではなかったが、ここまで多くの視線に肌は晒したことはない。何度やっても最初の一歩は息が凍る。頭の中が真っ白になるという体験をストリーキング以外で感じたことはなかった。
 歩行者天国の長さはおよそ二百メートル。彼が終点に車を止めて待っているはずだ。そこまで足を止めることはできない。誰かに捕まれば、そこで終わりだ。
 半ばを過ぎ、人の数も少なくなってきた頃だった。君枝は、お店から飛び出して来た子供たちを避けようとしてアスファルトの上を転がった。
 あっという間に人だかりができた。膝を強く打った君枝は、立ち上がるのがやっとだ。
「君枝? 君枝なの?」
 最悪のタイミングだった。高校の頃のクラスメイトが遊びに来ていた。そのグループが人の輪の中にいた。腕を捕まれ質問攻めに合う。
「どうしたの?」
「誰かにやらされてるの?」
「そんな格好でどこまでいくの?」
 今さら体を隠しても意味はなかった。彼のことを言うわけにもいかない。君枝がパニックになっているところへ警官が駆けつけた。誰かが通報したらしい。毛布を掛けられ、君枝は保護された。

     ◇

 愛美には、思いも寄らないことだった。
「ギリギリ未成年だったし、初犯ということで大きな問題にはならなかったけど、友だちには話が広まっちゃって。しばらくは誰にも会えなかったわ。こんなことなら卒業式でカミングアウトしておけば良かったなんて思ったりもしたのよ」
「卒業式って……」
「ハダカで卒業証書を貰うって課題。彼が考えたの」
「そうなんだ」
(彼、それが私のお父さん……)
「ダメよ、愛美は。まだ義務教育なんだから」
「な、何言ってるのよ。そんなことできるわけないじゃない」
 人前露出もしたことがない愛美だ。卒業式で、全校生徒の前でハダカになるなんて考えられない。君枝だって結局はできなかったのだ。歩行者天国でストリーキングをするより恥ずかしいに違いない。
「愛美はまだ初心者だものね。ところで、誰かいい人はいるの?」
 君枝が聞きたかったのはこれなんだと思った。
「いないわよ」
「それじゃどこでこんなこと覚えたのかしら?」
「インターネット」
 君枝はパソコンがまるでわからない。咄嗟に思いついた言い訳にしては上出来だった。
「そんなこともわかるんだ。私も始めようかしら?」
「ねえ、お母さん……」
「何?」
「やっぱいい。私もう出る。のぼせて来ちゃった」
 愛美は勢いよく湯船から立ち上がった。
「そ、そうね、ごめんなさい。長話になっちゃって」
 君枝のシルエットがガラス戸から消えた。愛美はフェイスタオルを頭から被る。のぼせたなんてウソだ。本当は聞きたいことがたくさんあった。言い出してしまったら、それこそのぼせるくらいでは済まなかっただろう。
(つづく)


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