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第10話 全裸迷子

 日曜日は君枝と共に過ごした。日課のランニングには出たが、それ以外はずっと一緒だった。母の運転する車の助手席に乗って外出するのも久しぶりだった。ウインドウショッピングを楽しみ、目に付いたアクセサリーをおねだりもした。幼い頃はいつもそれが当たり前だったのに、いつから変わってしまったのだろうか。朋美からの連絡は気になっていたが、ケータイを鳴らしたのは里奈だけだった。
 久しぶりにのんびりとした一日になった。夜は君枝の好きなサスペンスドラマに付き合った。落ち着いて見てみると、これはこれで面白いものだった。ベランダに出ることなく眠りに付いたのは、何日ぶりだったことだろう。

「週末、何かいいことあったみたいね」
 月曜日の朝、昇降口での里奈の第一声だった。登校してから、まだ「おはよう」の一言しか交わしていない。
「うん、そうかなあ」
「ねえ、この間のお姉さんとどこか行ったの?」
「別にそういうわけじゃないけど」
 朋美の部屋でAVを見たことくらいは話しても良いかなと思ったが、その時の愛美は全裸に首輪一つという格好だった。つっこまれるのはまずいかもしれない。まして、物置に放置責めにされたことや、君枝のストリーキングを里奈に話すわけにはいかなかった。
 他にも里奈に話してないことがたくさんあった。考えてみれば、この一週間の内にいろいろな体験をしたものだと思う。
「そうだ。この前の男の子に会ったわ」
「えっ、誰?」
「ほら、あのケータイドロボウ。木村優太君って言うんだって」
「ああ、会ったんだ。メールでも来たの?」
「そうじゃなくて、偶然街中で……」
(後の話をどうしよう。公園での露出のことを里奈は知らないんだ)
 愛美は話をすり替えたつもりだったのだが、失敗だったかもしれない。露出のことを里奈に話すことができればこんな苦労もないだろう。部室の鍵のことだって、里奈にしか相談できないことなのに。
「その子と付き合うわけじゃないわよねえ」
 里奈が愛美の顔をのぞき込んだ。
「当たり前じゃない」
「そうか。でもマナちゃん、なんか嬉しそうなのよねえ」
「しょうがないなあ。里奈にも少し分けてあげるよ」
 愛美は里奈の右手を両手で握り締めた。
「うーん、はい」
 手を離す。
「どお。幸せな気分になった?」
「お裾分け? だったらもっとちょうだい」
 里奈が手を伸ばす。
「これ以上はダメだって」
 愛美は廊下を走って逃げた。
 教室の前まで来たところで靖史と鉢合わせした。隣のクラスなのだからこういうこともある。愛美を追いかけて来た里奈が、後数歩というところで立ち止まった。
「おっはよう」
 誰にでもする愛美の挨拶だった。
 靖史は目が合った瞬間に顔を背けた。下を向き、大回りで愛美を避け、教室に入っていく。一度振り向きかけたが、愛美の視線に押し戻された。手を振る暇もなかった。
「何よ。あれ」
 ゆっくりと追いついて来た里奈が、愛美の肩に手を置く。
 告白して玉砕してから、やっと一週間が過ぎたばかりだ。靖史のあの態度もムリはないのかもしれない。

 授業が始まるとケータイが気になってならない。もちろん電源は切っていたが、休み時間の度にメールの着信を確認した。昼休みには校舎の裏まで走ってアドレス帳を開いたりもした。でも、結局メールする事はできなかった。
(今日で三日目、連絡くれてもいいのに……)
 この前、朋美の部屋を訪ねた時に一言「私からメールしてもいいですか」と聞いておけば良かったのだ。朋美から「奴隷でいいのね」と改めて宣言され、愛美も「奴隷にしてください」と言ってしまった。そのせいで自分から電話もメールもできなくなっていた。電話したところで、何かお願いできるわけでもない。愛美はまだお仕置きを待つ身なのだ。自分からメールして、朋美のご機嫌を損ねるのも怖かった。
「ちょっとだけお話していいですか」
 それだけだったらと、何度思ったかしれない。
 親友の里奈にも言えないことがある。母親の君枝にも聞いて貰えないことがある。でも、朋美だったら何でも話せる。優太に会ったことも、君枝の過去も、露出っこクラブの管理人のことも。
(そうだ。AVのこと、連絡しなきゃいけないんだ)
 どれにするか考えておくようにと朋美は言った。あれは、決まったら連絡しなさいという意味だったのだろうか。それとも、いつ連絡が来ても良いようにしておきなさいという意味だったのだろうか。
 愛美は一日中、時計ばかりを見ていた。
 部活も終わり、いつものように里奈と並んで校門に向かう。かすかな期待は、胸の内に秘めたままに終わった。

 家に戻った愛美は、君枝と夕食を済ませると自分の部屋にこもった。露出っこクラブの管理人に返事を出していないことに気づいたからだ。ご主人様と奴隷の関係。管理人ならどういうだろう。それも気になっていた。愛美の求める答えが聞けるかもしれない、そういう期待があったことも確かだった。

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管理人さん、こんばんは。
愛美です。

頂いた罰ですが、まだ実行できなくて申し訳ございません。
一応『緊縛放置責め』というAVに決めました。
と言っても、私の中でだけです。
ご主人様に決めておくように言われたのですが、まだ伝えていません。
怖いとかそういうことではなくて、連絡がとれないです。
私は奴隷です。
奴隷からご主人様に連絡するなんてして良いのでしょうか。
私を放置責めにしてください、なんて言ったら失礼ではないでしょうか。
ご主人様から「決まったの?」って連絡があるまで待っています。
だから、実行するのはそれからになります。
すみません。
もうしばらくお待ちください。

愛美

PS.私、間違っていませんよね。
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 送信してしまった後、愛美は思った。自分はどちらの答えを求めているのだろうか。
 愛美はトイレに入るときもケータイを手放さなかった。
 早々と部屋に引き上げた理由はもう一つあった。家の玄関先で物置が目に入った。あそこに吊られていたのだと思い出し、下半身に甘い痺れを感じていたのだ。
(自分でするつもりだったのに、お母さんに見つかって逃げられなくなっちゃったんだ)
 その時の記憶がどんどん甦ってくる。女の子の部分が熱くなる。管理人にメールしたせいで、それがより強くなった。
 朋美に放置責めの罰を受ける。
 どこで? どんなふうに?
 AVで見たシーンを思い出し、木の枝に吊られた朋美の姿を思い起こし、物置に吊られた自分の記憶と重ねた。全身をムチで打たれ、傷だらけにされて、今度こそ朝まで放置されるのだろうか。
(怖い。怖いよ、朋美さん)
 そのすぐ後で、お風呂に入れてくれた記憶を思い起こす。掌で体中を洗われた。指先で乳首に悪戯された。女の子の部分に触れなかったのは、愛美がバージンだと知っていたからだろう。
(ああ、朋美さん……)
 愛美は全裸になり、ベランダに出た。

 朋美から電話があったのは、翌日の放課後、家に帰る途中だった。ケータイの画面に「朋美」の文字を見ただけで涙が出た。
『愛美ちゃん、今週末は空けておいてね』
 懐かしさで涙が止まらない。朋美に気づかれてはいないだろうか。
「はっ、はい」
 ようやくそれだけ返事をした。でも、何をするつもりだろう。気になってならなかったが、朋美は急いでいるのだろうか、そのまま電話を切りそうな雰囲気だ。
「朋美さん!」
『何?』
「あの、この間のAVなんですけど……」
『そうだったわね。決まったの?』
「はい、最後に見たやつで、お願いします」
 声が小さくなっていたのは、そこがまだ路上だったからだけではい。
『ああ、これね。放置責めか。私はてっきりコンビニとか行くやつかと思っていたわ。これでいいのね』
「はい」
『それじゃ、場所は考えておくわね』
 用件は済んでしまった。今後こそ電話を切られそうだった。
「あっ、それで」
『んっ?』
「それで週末って、何を?」
『忘れたの? 愛美ちゃんのお仕置きよ。覚悟しておきなさい』
「ああ……」
 愛美は胸の奥が重くなった。
『でも、ちゃんとできたらいいことがあるかもねえ』
(えっ、いいことって……)
『聞いているの?』
「は、はい! がんばります」
『よろしい。じゃね』
 電話が切れた。
 一本の電話でこんなにも一喜一憂したことはない。週末の約束ができたことで有頂天になり、「お仕置き」の一言でくじけ、その後に貰えるかもしれないご褒美に期待を膨らませた。覚悟しておかなければならない程ひどいことをされるのだろうか。でも、その後のいいことって……
 愛美が大事なことを聞き忘れたことに気づいたのは、もう少し後になってからだった。

 家に帰ると、露出っこクラブの管理人からもメールが来ていた。

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愛美へ

アダルトビデオが決まったのだね。
放置責めか。
やはりまだ人に見られる系の露出はムリってことだね。
いろいろあるけど、どんなのにするつもりかな。
ご主人様任せかもしれないが、
私の希望としては全裸大の字磔なんか良いのではないかな。
フェンスとかバックネットとかだったら、簡単にできると思うよ。
できるようならで構わないから、ご主人様に相談してごらん。

それから、指示を待つという愛美の態度は間違っていないと思うよ。
奴隷なんだから、それが当たり前だね。
連絡がないのも調教の内かもしれないし。

管理人
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(やっぱりこれで良かったんだ)
 愛美はすぐに返信した。
 今日、朋美から電話をもらっていなかったら、内容が変わっていたかもしれない。

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管理人さん、こんばんは。
愛美です。

今日、ご主人様から電話がありました。
週末にこの前のお仕置きをしてくださるそうです。
覚悟しておきなさいと言われました。
怖いけど、待ち遠しいです。

奴隷はやっぱり待っていなければいけないのですね。
ご指導ありがとうございました。
管理人さんのご希望は全裸大の字磔だって、その時に伝えようと思います。

愛美
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 管理人ってどんな人なのだろう。
 わかっているのは中年のおじさんみたいだということくらいで、それだってプロフィールが公開されていたわけではない。
 若い女の子とメール交換できるのが楽しいだけなのだろうか。
 それにしては相談にもマジメに応じてくれる。芳樹と朋美の関係を書いた時も、今回もそうだ。決してなおざりでも通り一遍でもない。愛美の他にも大勢からメールをもらっているだろうに。
 お互いにどこの誰だかわからないからこそ、何もかも話せる。話しても大丈夫。愛美は、そんな気になっていた。

「今日もご機嫌ね」
 翌日から毎朝、里奈に言われた。最初の二日は適当にごまかした愛美だったが、金曜日になって、とうとう我慢ができなくなった。
「実はねえ、明日デートなの」
 陸上部の部室で練習着に着替えながらの会話だった。他の部員たちの耳にも届いたようだが、相手が愛美なので突っ込んでこない。
「マジ。誰と?」
「内緒」
「喜多君……じゃないよねえ。まさかあの子? あれ、誰だっけ。あのケータイドロボウ」
「木村優太君のこと? 残念。あの子からは連絡もないわ」
 愛美は笑みを漏らした。今だったらデートくらいオーケーしてあげるのにと思ったくらいだ。
「まあいいわ。今度、紹介しなさいよ」
 そうしているところへ部長から集合の合図がかかった。練習前のミーティングだ。顧問の先生が部室に入って来た。部員たちはいつものように長いすに腰掛けた。また長々とした演説が始まるのかと気が重くなったが、意外と早く終わった。
「あっ、それからなあ」
 顧問は愛美を見ていた。
「ユニホームの件だが、セパレーツは許可にならなかった。競技規定にはないんだが学校側がうるさくてな。高校に入るまで我慢しろということだ」
 愛美が言い出したことだが、正直なところ忘れていた。
「はい、わかりました。実力で勝ってみせます」
「よく言った。お前たちなら大丈夫だ。がんばっていこう」
 顧問は愛美の答えにご満悦のようだった。実際のところ、愛美も里奈も仕上がりは順調だった。記録も伸びていた。

 朋美からは、あれから連絡がなかった。金曜日の晩になっても指示がないのは不安だったが、愛美は明日に備えて早く寝ることにした。連絡をしないのも調教の内という管理人の言葉が頼みだった。
(明日は朋美さんに会える)
 愛美は、遠足の前の晩を思い出しつつ眠りに落ちていった。

「愛美、起きなさい」
 誰かいる。
 頬を叩いている。でも誰……?
 愛美は、それが君枝であることを理解するのに時間を要した。
「ん? 何」
 部屋の明かりがまぶしかった。外はまだ真っ暗なようだ。目覚まし時計を探ったが、君枝に取り上げられた。
「いいから起きて」
「何なのよう」
「ほら、ハダカになりなさい」
「ええっ」
 言った側から、君枝はパジャマのボタンを外しにかかった。この前の晩を思い出し、何かあるのだとされるがままにしている内に、上を脱がされてしまう。
「後は自分でやりなさい。丸裸になるのよ」
 愛美は言われた通りにした。
「さあ、行くわよ」
 手を引かれて階段を下りた。君枝は普段着を着ていた。どうするつもりなのだろう。君枝は、車のキーを手に、玄関のドアを開けた。
「ど、どこに行くの?」
 その疑問は当然だった。愛美は丸裸なのだ。どこへ行くのかというよりも、外に出ること自体が問題だった。
「いいから乗って」
 夜の空気に体が震えた。が、けっして寒かったわけではない。君枝は助手席のドアを開けると愛美を半ば強引に座らせ、自分も運転席に乗り込む。
「ちょっとの間だけ我慢してね」
 ダッシュボードの上に用意してあった手ぬぐいで目隠しされた。エンジン音が響き、車が走り出す。愛美には何が起きているのか、わからなかった。
「ねえ、お母さん……」
「もうすぐだから」
 言葉は遮られた。深夜というだけで時間もわからない。寝ているところを起こされて、こんな格好でどこに連れて行かれるのだろう。相手が母親でなければ耐えられない状況だった。
 車が止まった。
「目隠し、取っていいわよ」
 視界は戻った筈だが、窓の外は真っ暗で何も見えなかった。
「さあ、下りなさい」
 君枝が先に下りていた。周りに気を配りながら外に出る。ハダカでベランダ以外の野外に出るのも一週間ぶりだった。こんな場所でストリーキングでもさせるつもりなのだろうか。どこだかわからないが、少なくとも人はいないようだ。
「ここはどこなの?」
 目が暗さに慣れてくると、目の前にはコンクリートの塀があるのが見えた。どこかの工場だろうか。反対側は空き地のようだ。
「それは教えられないの。今からあなたを迷子にするのが目的だから」
「ウソっ、なんで?」
「私は帰るけど、愛美はそのまま歩いて行くの。目的地は朋美さんのマンションよ。そう言えば、わかるかしら?」
「えっ、どこって?」
「朋美さんのマンション。一度行ったことがあるでしょ」
 聞き間違えではなかった。
「お母さん、朋美さんを知っているの?」
「もちろんよ。芳樹のカノジョだもの」
 愛美はその可能性を考えていなかった。芳樹が君枝に紹介していたとしてもおかしくないわけで、
「でも、なんで……」
「これは全裸迷子という課題なの。いえ、お仕置きだったわね」
「全裸迷子?」
「そう。朋美さんのマンションで待っているわ。家に帰っても入れないわよ」
「お母さん……」
「がんばってね。裸足なんだから足下には気を付けるのよ」
 君枝が背を向けようとした。
「イヤっ、置いていかないで」
 愛美は顔を両手で覆った。それを見た君枝は体を戻し、愛美を抱きしめる。
「朋美さんとご褒美の約束をしたんでしょ。大丈夫。愛美ならできるわ」
 そうだ。朋美さんのマンションに泊めてもらうんだった。一晩中、かわいがってもらうんだ。うん、きっとそうしてくれるわ。
「お母さん、私、がんばる」
「うん、いい子ね」
「ねえ、だからお母さんも約束して。これをやり遂げたら、お父さんのこと話して欲しいの」
 愛美はこの前から、いや、もうずっと前から言えないでいたことを打ち明けた。愛美の体から離れ、少し間を置いた君枝だったが、
「わかったわ。話してあげる」
 愛美は「うん」と頷いた。
「じゃ、行くね」
 それを最後に、君枝は車を走らせた。真っ暗な場所。どこだかわからない場所に愛美は置き去りにされた。一糸纏わぬ姿で。最初の一歩をどっちに進んだら良いのかもわからない。一人になってみると、心細さが何倍にもなった。
 これがお仕置きなんだ。
 愛美は自らの裸身を抱きしめた。君枝の車も見えなくなった。朋美のマンションがどの方向で、歩いて行ったらここからどれくらいかかるのか。ここにはヒントもない。今は何時なのか。明るくなるまでに帰れるか。
 車の見えなくなった方向に足を出して立ち止まる。いや、こっちではない。逆の方向から来たはずだ。愛美は向き直って歩き出した。
 目隠しをされていたから音しか頼る物がない。それなのに耳には何も残っていない。夜の街は眠っていた。
 まずはここがどこなのか。市内の地図を思い浮かべる。愛美がよく行く場所ではない。それでいて工場と広い空き地がある場所。歩いて帰れる範囲だから、街中からそう離れてはいないはずだ。電柱でも看板でも良い。とにかく住所が表示されているものを探さなければ。愛美は明かりのある方向へと歩いて行った。
 工場の壁は途切れ、空き地のはずれまで歩くと通りに出た。他に道はない。乗って来た車が、ここを曲がって来たことは間違いないと思う。愛美は記憶を辿る。確か、最後に曲がったのは……
 愛美はその道を左に曲がった。道の先に建物はあるが、暗くて看板までは読めない。電柱の真下に立って町名の表示を見つけた。行ったことはないが、地図の上での位置はわかった。朋美のマンションは街の中心部だ。ここからだと二キロくらいか。かなり大雑把だが、いずれにしてもハダカで歩く距離には長すぎる。愛美の家はさらにその先だ。
 真っ黒な建物のシルエットで街の方向だけは何となくわかった。問題は具体的な経路だ。この通りを歩いていけば、最短距離で駅前まで出られるかもしれない。民家よりお店の方が多かったが、どこもシャッターが下りていた。道路の真ん中を持久走のつもりで走れば十五分とかからないだろう。
 でも、それはすぐにあきらめなければならなかった。
 正面から車のヘッドライトが近づいて来た。愛美は建物のすき間に飛び込む。確認する間もなかった。隠れる場所があっただけ幸運だった。車が通りすぎるのは一瞬だったが、生きた心地がしなかった。エンジン音がしなくなってからも、しばらくはその場を動けなかった。
(朋美さん、助けて)
 露出に目覚めてから、こんなに怖いと思ったことは初めてだった。腐ったゴミの臭いが鼻に付く。足の下をドブが流れているらしい。U字溝にはフタがしてあったから足が汚れることはないが、長くいられる場所ではなかった。
 ここにいても何にもならない。愛美は通りの様子を伺った。迷っていても家には帰れない。とりあえず人がいないなら、少しでも進むしかない。足を踏み出す。次に隠れられそうな場所を探しながら歩き出した。
 脇道に入った。通りを歩いていたのでは、いつまた車が来るかわからない。路地ならば隠れる場所も多いし、車もゆっくりと走るはずだ。遠回りになるが、さっきのような体験はもうイヤだった。
 暗い道。普段ならそれだけで避けて通りそうな路地を歩く。通った覚えがない道だ。民家が建ち並んでいたが、団地のように区画整理ができているわけではない。窓の明かりが点いている家は殆どなかった。細い道になるほど、どこにいるのかわからなくなる。十二時は過ぎていたはずだ。人の気配は全くなかった。
 ただでさえ薄気味の悪いこの時間、愛美は何も身に付けずに歩いていた。肩を丸め、前屈みで足を忍ばせる。両手は胸の前でこぶしを合わせる。絶えず首を振り、わずかな物音にも耳を峙てる。こんなことで心臓が保つのだろうか。
 いつになったら朋美のマンションに着くのか。それまでずっとこのままの姿でいなければならない。ハダカでいることが、人をこんなにも不安にさせるものなのかと思い知らされた。
 信号機のある交差点に出た。片側二車線で両側に歩道のある大きな道だ。外灯も他より明るかった。反対側の歩道の切れ目まで百メートルはあるだろう。脇道に入る前に車が来たらと思うと足がすくむ。
 どうしてもこの道路だけは渡らなければならない。
 街を横断している幹線道路だ。空でも飛ばない限り結局はぶつかる。できるだけ目立たない場所を探そうとしたが、どこもたいして変わりがないことに気づくまで、それほどの時間がかからなかった。
 愛美は両方の掌で頬をはたく。
「よし!」
 覚悟を決めて路地を飛び出す。大きな道路だけに遠くまで見通しが利いた。ヘッドライトの明かりは見えない。首を何度も振って確認した。車道に飛び出す。昼間なら飛び込み自殺と間違われたかもしれない。
 反対側の歩道まで一気に走る。ビルの壁に沿って脇道まで全速力。残り五十メートルを切っても車は見えない。後少しだ。あの路地に飛び込めばと、それだけを考えていた。その先はすぐに駅だ。見知った場所にたどり着く。
 もう大丈夫。
 そう思った次の刹那、愛美の油断をヘッドライトが包んだ。路地を入ったところに停車していた車が、ちょうど走り出すところだった。
 慌てて身をひるがえし、通り沿いの壁に張り付く。
(見つかった……!?)
 明かりが路地から出て来た。歩道に隠れるところはない。愛美は身をかがめた。他にどうしようもなかった。
 こちら側のウィンカーを点けながら出て来た車は、そのまま車道に出ると愛美の脇を通って走り去った。時間にすれば数秒に過ぎなかっただろう。その間、愛美の心臓は止まっていたかもしれない。
 膝を付き、胸を押さえた。でも、ここはまだ危険区域だ。一刻も早くこの場を離れなければならない。愛美は立ち上がる。ここから先は駅裏の路地だ。宵の内なら飲み屋や飲食店の前を行き来する人たちで賑わっているのだろう。人影は見えないが、たった今車が出てきたばかりだ。他に人がいないとも限らない。愛美は道路に車が見えないのを確認すると、もう一つ先の路地まで走った。
 ガード下まで一直線のようだ。それを抜ければ駅前のアーケードに出る。この前、朋美に連れられて歩いた道。そこまで行けばマンションは目の前だ。
 愛美は走り出した。一気に駆け抜けてしまおう。万一人に見られても、この暗さでは顔がわからない。愛美の足に追いつける人も少ないだろう。振り切ってしまえばいいんだと覚悟を決めた。
 足の裏が熱くなる。陸上のシューズで走るようなわけにはいかないが、それでもかなりのスピードは出ていただろう。あと少しなのだ。皮が剥けてもかまわない。少しでも早く朋美の元へ帰りたかった。
 ガード下のトンネルを抜けると、ようやく歩いたことのある道に出た。もう迷子ではない。愛美は膝に手を付いて息を整えた。
 明かりの消えたアーケードを歩く。車が通ることはないだろう。日中なら人が大勢いる場所にハダカでいることが不思議でならない。空き缶が転がる音が響いた。胸の鼓動はどこまで聞こえているのだろうか。
 この先に朋美のマンションがある。あと少し。あと少しと気持ちが先行した。
 アーケードを出て少し行くとコンビニの明かりが見えた。この前来た時には気づかなかったが、この道で間違いないはずだ。あの前を通り過ぎなければならないのか。少なくとも店員はいるだろう。
 ギリギリまで近づいて中をのぞく。雑誌を立ち読みしている客が見えた。
(どうしよう……)
 ここまで来て遠回りはできない。マンションは、もうすぐそこなのだ。
 愛美は道の反対側まで離れて通り過ぎようとしたが、それだと却って見つかりそうだ。本棚から頭が出ないように膝を折ったままで行くしかない。コンビニから漏れる明かりが愛美の肌に届く。心臓が喉から飛び出しそうだった。
 もうちょっと……
 愛美が自分の迂闊さを悔いても遅かった。あと少しというところで自動ドアを開けてしまったのだ。
「いらっしゃいませ」
 店員の声が聞こえた時はもう走り出していた。見つかったかどうかはわからない。
 息が切れるまで走った。背後で声がしていたようだが、追いかけてくることはなかったのは幸いだった。今度こそダメかと思った。息がやっと落ち着く頃になって、愛美はそこが朋美のマンションの前であることに気づいた。
(着いたんだ)
 愛美はエントランスに駆け上がる。オートロックで中には入れないのを思い出し、パネルの前に立つ。朋美に教わったようにインターフォンで七〇五号室を呼んだ。その応答より早く、愛美の体をタオルケットが包んだ。
「お帰り、愛美ちゃん」
 朋美だった。愛美はその胸に飛び込む。頭の中には何もなかった。体が勝手に動いた。涙が溢れた。一度出た涙は、止めようがなかった。
 タオルケットごと、愛美を抱き留めた朋美だが、
「愛美ちゃん。ねっ、ここはまだお外だから」
 小さな子供もあやすように、マンションの中へと促す。二人の後ろを一台の車が通りすぎた。
(つづく)


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