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第12話 お仕置きはオナニー禁止

 起きるのが遅かったせいで、時間の感覚がズレていた。
 夕日が射し込むようになって、愛美はまだ、今日のランニングをしていないことに気づいた。急いでジョギングスタイルに着替えると、玄関を出ていく。
 君枝は夕飯の支度を始めていた。
 競技会まで後一週間。こちらも気合いをいれなければならない。愛美はいつものコースを走っていく。時間帯が違うというだけで、違う景色に見えた。シューズを履いているとこんなにも走りやすいものなのだと、改めて思った。
 早めのお風呂に入ってパジャマに着替える。
 お昼ごはんを食べ過ぎたこともあり、夕食は軽く済ませた。差し向かいの食卓。愛美も君枝も、口数が少なかった。
 部屋に戻ると、パソコンのスクリーンセーバーが、あじさいの花に雨を落としていた。愛美は立ったままマウスを動かす。メールソフトの受信欄に太文字が見えた。

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愛美へ

全裸迷子とは、また大変なことを実行してきたものだね。
露出初心者の愛美にはハードだったことだろう。
よく頑張ってきたね。
私からもほめてあげよう。
でも、ご主人様たちも同じくらい大変だっただろうね。
ずっと近くで見守っていてくれたはずだ。
よく考えてごらん。
こんな危険なことを、愛美一人にさせるわけがないだろう。
何か心当たりはないかな。

管理人
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 愛美の脳裏に全裸迷子の記憶が甦る。
 マンションに着いた時、朋美はジョギングスタイルだった。うっすらと汗も掻いていた。あれはもしかしたら……
 あの時は夢中だったから気づかなかったが、今にして思えばおかしなところがある。マンションの外で待っているにしても、なんで後ろから現れたのか。
 愛美はケータイを手に取るとイスに腰掛けた。またこちらから掛けても良いか、聞いてくるのを忘れていた。それでも掛けずにはいられなかった。
 アドレス帳から「朋美」の文字を探してボタンをプッシュする。
 呼び出し音が鳴り出す。
 繋がるまでが、異常に長かった。
『もしもし、どうしたの?』
 朋美の声が聞こえた時には、もう涙が出ていた。
「朋美さん、ごめんなさい。私……」
 声が詰まる。怒られるのではないかと怖れる気持ちも忘れていた。
『愛美ちゃん、泣いてるの?』
「ずっと側にいてくれたんですよね」
『えっ、何のこと?』
「私が迷子になっている時です」
『……あれっ、ばれちゃった』
「やっぱりそうだったんですね。管理人さんにメールしたら、ご主人様ならきっとそうするはずだって」
『管理人さんって、露出っこクラブの?』
「そうです」
『そっか。まあ、しゃーないか』
「私、ちょっとだけですけど、朋美さんを疑っていたんです。私がひどい目に遭うかもしれないのに、お構いなしなんだって」
『そうね。確かに危険なことだものね』
「はい。でも……」
『愛美ちゃんがコンビニの前を通ろうとした時には、びっくりしたのよ。初めてマンションに連れて来た時、わざわざ脇道を通ったのに、覚えてなかったのね』
「あっ、そう言えば……」
 人混みを避けるためだとばかり思っていた。あの時から計画していたなんて。愛美の通るルートまで考えていてわけだ。
「本当にごめんなさい。朋美さんを疑った自分が恥ずかしいです」
 言葉の通りだった。愛美は朋美を信じられなかった。自分にだけ危険なことをさせているのだと思い、その陰で見守ってくれていたなどと考えも及ばなかった。それが口惜しかった。
『そうね。ご主人様を疑ったのはいけないことだわ。また、お仕置きしなきゃ』
「はい……」
 また知らない場所にハダカで、放り出されるのだろうか。今度はもっと遠く? まさか人にハダカを見られるようなこと?
 胸をえぐられるような思いを抱きながら、その一方で女の子の部分が疼いた。
「わかりました。お仕置きしてください」
『いいわ。よく聞いてね。愛美ちゃんはこれから一週間、露出禁止。オナニーも禁止。エッチなことを考えてダメ。いいわね』
「ええっ」
 最初はそんなことで良いのかと思った。でも、愛美はすぐに思い直す。このところベランダでの全裸オナニーは日課になっていた。毎日露出のことばかり考えていた。それを一週間禁止だなんて耐えられるだろうか。
『今の愛美ちゃんには厳しいけど、しっかりやり遂げるのよ。それができたら、またご褒美あげるわ』
「あああっ」
 愛美の花芯から熱いものが溢れた。それが甘い痺れとなって全身を駆けめぐる。ベッドの中で、朋美と肌を合わせた感触が、すぐそこあるようだ。あの指で摘まれた乳首が、あの舌で舐められたクリトリスが、記憶を現実のものにせよと求める。触ってみなくても、花芯が滑りを帯びてくるのがわかる。
『オナニーは禁止なんだからね』
 朋美には、愛美の指の動きまで見えていたのだろうか。
「は、はい」
 愛美は、股間に迫ろうとしていた手を、口元に持っていく。
『思ったより辛いでしょ』
「はい。辛いです」
『お仕置きなんたがら当然よ。私に電話もしない方がいいかもね。変なこと、思い出しちゃうから』
「ああ、そんな……」
 朋美の言葉の一つ一つが、今の愛美には拷問だった。
『管理人さんにも報告しておくのよ』
「はい、わかりました」
『それじゃ頑張って。来週の土曜日を楽しみにしているわ』
 電話が切れた。
 土曜日って……オナニー禁止が解除になる日。それまで頑張ればご褒美が貰える。
(また朋美さんの部屋に泊めて貰えるの?)
 妄想が一人歩きしていく。一つ一つの記憶が鮮明に思い出される。初めて朋美のマンションを訪ねた日のこと。ハダカにされて首輪を付けられたこと。ベランダに閉め出されたこと。一緒にお風呂に入ったこと。
 他に何もいらないと思えた幸せ。でも、ご褒美は、それ以上だった。
(ダメよ、そんなこと考えちゃ!)
 ケータイはとっくに離していた。股間に向かおうとする右手を左手で押さえる。羞恥の源泉がどうして構ってくれないのと抗議の自己主張を繰り返す。それに応えようとする指先と、早くしてとせがむ肉の芽が、愛美を挟み撃ちにした。
(こんな苦痛に、一週間も耐えなければならないなんて)
 愛美の背中に、もどかしさの塊が貼り付いた。

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管理人さん、こんばんは。
愛美です。

今日、二回目のメールになります。

ご主人様に、またお仕置きされてしまいました。
今度のは「オナニー禁止」です。
管理人さんにもご報告するようにと言われました。
当分ベランダでの日課をすることができません。
お許しください。
解禁になったら、また、毎日やらせて頂きます。

このお仕置きは厳しいです。
メールを書いている今も、自分でしたくてたまりません。
ウソを付いてもご主人様にはわかりません。
でも、そうしようとは思いません。
期限は一週間です。
絶対にやり遂げてみせます。

愛美

PS.でも、やっぱり辛いです。
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 考えてみればおかしなものだ。クラスの男子相手にオナニーの話なんてできない。露出っこクラブの管理人だって男性のはずだ。少なくとも、男性だと思ってメールしているのに「ハダカ」とか「お仕置き」とか、平気で書いているのだ。呼び方も最初の内は「管理人様」と書いていたのに、いつの間にか「管理人さん」になっている。
(悪い人だったら、どうするつもりなのかしら?)
 まだ寝るには早い時間だ。愛美はリビングに下りて行くことにした。気を紛らわすには君枝とサスペンスでも見て過ごすしかなさそうだ。
「あら、どうしたの?」
 君枝は座卓に膝を付き、お茶をすすりながらテレビを見ていた。今日はもう下りてこないものと思っていたらしい。
「デザート、忘れてた」
 別に食べたかったわけではないのだが。
「太るわよ」
 君枝は立ち上がると冷蔵庫からケーキの箱を持って来て座卓の上に置いた。愛美がモンブランを二つ取り出している内に、君枝はカップにお湯を注ぎ、紅茶のティパックを入れて戻って来た。
「お昼に出そうと思ってたんだけどね」
 愛美は、メインディッシュを食べ過ぎたようだ。
 フォークで口に運びながら、君枝の様子を伺う。特に見たい番組でもなさそうだ。差し向かいで同じように手と口を動かしている。
(そう言えば、お母さんもオナニーするのかな?)
 聞いてみたくなったが、言葉にはできなかった。聞けば自分のことも話さなければならない。それも恥ずかしかった。
「今夜はベランダに出ないの?」
 顔に書いてあったのだろうか。まさか先手を打たれるとは。
「その話はなし」
「あっ、そう」
「それより、お母さんが言うの、本当だったわ」
 君枝はフォークをくわえたまま、目だけ動かした。
「朋美さんがフォローしていたこと、知ってたんでしょ」
「全裸迷子の時ね。もちろん知ってたわ。いくらなんでも十四歳の娘を一人で放り出せないでしょ。でもなんでわかったの?」
「うん、ちょっと」
 愛美の知らないところで、どんなやりとりがあったのか。指先で軽く目尻を押さえた。
「朋美さん、私から聞かなかったら、ずっと言わないつもりだったのかなあ」
「そうでしょ」
 君枝は当たり前のように答えた。
「人知れず見守るのって、格好いいよね」
 愛美のくずれた顔が、元に戻らない。モンブランは、まだ半分以上残っていた。
「芳樹にも感謝しなさいよ」
「えっ、お兄ちゃんに?」
「知らなかったの。芳樹の車ともすれ違ったでしょ」
「ええー」
「駅裏の路地はね、あのまま行くと交番の前を通ることになるの。それで芳樹が車を止めて待っていたわけ。その前も後も、ずっと側にいたのよ」
(あの車、お兄ちゃんのだったんだ)
 車種も色も思い出せない。あの車を運転していたのが芳樹だったら、愛美は、すべてを見られたことになる。頬が急に熱くなった。
「そうだったんだ」
 全裸迷子がそんなにも大がかりなものだとは知らなかった。まさか芳樹までが協力してくれていたなんて。
「で、でもお兄ちゃんは反対だって……」
「そうよ。今でも愛美が露出するのは反対だって言っているけど、私が頼んだのよ」
 君枝は続けた。
「芳樹は自分の気に入らないことでも、それが必要なことだと思えば一生懸命やる子なの。お父さんにそっくりだわ」
「お父さんに?」
「そう。あなたのお父さんもそういうことができる人なの。ホント、よく似ているわ。あっ、でもこのことは芳樹に言っちゃダメよ。芳樹はまだ、自分たちを捨てたお父さんを許していないわ。だから、そんな男の援助なんか受けないって家を出たの」
 愛美は幼かった頃を思い出した。いつも芳樹の後ばかり付いて行った。大きな兄がとても頼もしく見えた。いじめっ子たちも芳樹の妹だとわかれば愛美に手を出さなかった。愛美がずっと憧れてきた芳樹。それはきっと父親への憧れでもあったのだ。
「お母さんは幸せね」
 ふと口に出た言葉だった。本来なら日陰の身である母に言うべきことではないだろう。でも、その時の愛美には、最愛の男性と心を通わせている君枝が羨ましいとさえ思えた。
「だったら愛美も、そういう人を見つけるのね」
 君枝がフォークを置いて立ち上がる。目元が光っていたような気がした。

 翌朝、愛美はいつものランニングコースを走っていた。朋美から言われたお仕置きのことも忘れていた。父のこと、兄のこと、そして母のこと。それらすべてが、この朝の空気みたいにすがすがしく感じられた。
(私もカレシが欲しくなっちゃったかも)
 今度の土曜日には、いよいよ競技会の当日を迎える。一度家の前まで戻ってきた愛美だったが、そのまま通り過ぎた。日曜日は部活もない。もう少し走っておこうと思ったのだ。決して意識したわけではない。でも、いつの間にか例の公園まで来ていた。
 朋美と二人、全裸で走ったこの道。
 あの時とは違う。街はもう起き出していた。家々の窓も開いているところが多く、庭で洗濯物を干している主婦の姿も見えた。愛美は公園の外側を一回りすると、中に入ってベンチに腰を下ろした。まだ子供たちが遊びに来る時間には早い。いつかのような浮浪者もいなかった。
 気持ちのいい風が吹いていた。ランニングの途中で体を休めるには持ってこいの場所だ。愛美は今まで使い方を間違っていたのだと思う。ただ、ここで起きた事件の真相は、未だにわかっていなかった。
 ふと、誰かに見られているような気がした。
 ハダカで走っている時の感覚とはまるで違う。どこにでもある普通の視線だ。この近くには知人は住んでいないはず。愛美は立ち上がって辺りを見回したが、どこにも人影はなかった。優太なら、今さら隠れることもないだろう。
(そうだ。ここには来ちゃいけないって言われていたんだ)
 愛美は走り出した。誰かがいたことは間違いないのだ。今もきっとそこにいる。公園の裏の出口から道路に出ると、すぐ脇の植込みの陰に隠れた。タイミングを計って逆戻りすると、公園の真ん中を自転車が横切って来るところだった。
 自転車は横向きになって急ブレーキをかけたが間に合わない。愛美は運転している者の顔をしっかりと捉えた。
「あなただったの」
 いつかもこんな場面があった。学校の屋上で「やっぱり愛美ちゃんが好きだ」と叫んだ男の子・喜多靖史が、自転車を跨いでいた。
「見つかっちゃったか」
 靖史は横を向いて頭を掻いた。その顔の正面に、愛美は大股で回り込む。言いたいことがいっぱいあった。聞きたいことがたくさんあった。でも、実際に口から出たのは、恐らくそのどれでもなかった。
「私のハダカ、見たでしょ」
 少しだけ時間を止めた後、靖史はまた、視線を避けた。
「ごめん」
「もう、なんでよ。このエッチ!」
 今度は愛美が背を向け、両手で顔を覆った。
「だって、こんなところでハダカになるから……」
「だからなんで付いて来たのよ」
「それは……」
 愛美は、熱いお風呂から出たばかりのように、全身を火照らせた。靖史の答えを待っていたわけではない。どこまで見られていたのか、聞くのも怖かった。でも、
「あの、新聞配達のおじさんの時も……」
 愛美はまだ、両手を顔から離さない。
「ああ、あの時は家の新聞が入ってないって言ったんだ。慌てて入れに行ったよ。おじさんには悪いことしたな」
「学校のグランドにもいたでしょ」
「あの女の人と駆けっこした時だろう。愛美ちゃん、いや、榊原さんが一枚ずつ脱いで行くの見ててドキドキしたよ」
「あーん、やっぱりー」
 あの時、初めて全裸を晒したことになる。愛美はその場にうずくまった。体を丸めた。もっと小さくなりたかった。
 同級生にハダカを見られた女子がどれだけいるだろう。それも野外ヌードだ。靖史の顔をまともに見られるはずもない。愛美は下を向いたまま続けた。
「部室の鍵も、あなたの仕業なの?」
「うん、部室棟に向かうのを見て先回りしたんだ。あの時はギリギリだったよ。榊原さんがハダカじゃなかったら絶対に間に合わなかった」
「もう、簡単にハダカ、ハダカって言わないでよ」
「あっ、ごめん」
 本当に無神経なんだからと思う。それでも大きな声を出したことで、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「公園のベンチに置いてあった服を移動したのもあなたよね」
「そうだよ。変な男が近づいて来たんだ。あいつも脱ぐとこ……」
 靖史は口をつぐんだ。結局、全部見られていたというわけだ。愛美の人に言えない恥ずかしい体験を、靖史は全部知っている。
 愛美は自分の頬を掌で二回叩くと、思い切り良く立ち上がった。
「ねえ、なんで。いつから見ていたの?」
 正面から向き合った。靖史も自転車から下りてスタンドを立てた。
「榊原さんが朝のランニングを始めてすぐだと思うよ。お隣同士だろう。部屋の窓から走り出すのが見えるんだ。そしたら榊原さんをストーキングしているやつがいるって聞いて……」
「ああ、木村優太ね」
「知ってる奴だったの?」
 靖史の目が丸く開いていた。
「ううん、この前、捕まえて吐かせたの。そんなに悪い子じゃないわよ」
「そうなんだ。でも俺、心配になって毎朝……」
 言葉で言うほど楽なことではない。早く起きるだけでも意志が強くなければできない。それは愛美もよくわかっていた。露出するようになってから起きる時間もさらに早くなった。自分のことでもないのに、ずっと続けていたなんて。
「人知れず見守るなんて格好いいよね」
 愛美は昨日、君枝に言ったことを思い出した。胸が騒いだ。父がしていること。朋美と芳樹がしてくれたこと。それと同じことをこの靖史も……。
 一歩前に出た愛美は、靖史の胸に手を当てた。顔がすぐ側にあった。見詰め合う目と目。愛美は瞳を閉じた。
 男の子とのファーストキス。
 その唇にも、愛美を抱きしめる腕にも、朋美にはない力強さがあった。
「うん、もう。キスしていいなんて言ってないのに」
 靖史は何も答えなかった。
(朋美さんになんて言おう)
 愛美は、ふと思い当たった。
「そう言えば、ヤッくん、朋美さんのハダカも見たのよねえ」
「ああ、朋美さんって言うんだ。あの、おっぱいの大きなお姉さん」
 愛美は靖史の胸を押し離した。
「この変態。のぞき魔。女の子なら誰でもいいのね」
 そんなことはない、という答えを期待していたのだと思う。ところが、返事は全く違うものだった。
「しょうがないだろう。年上のお姉さんのヌードなんて滅多に見られないし」
「へえー。朋美さんとエッチしたいとか思っているんだ」
「それは思うよ。男なんだから」
 キスをしたばかりの相手に言うことなのだろうか。それが男の子の生理なのかもしれないとは思う。靖史が正直過ぎるだけなのか。それでも愛美は言葉にして欲しくなかった。靖史を睨み付けた。
「でも、俺が好きなのは榊原さんじゃなきゃダメなんだ」
 靖史がまっすぐに見つめる。ウソを付いているとは思えない真剣なまなざしだった。
「そんなの、私、わかんない」
 愛美は走り出した。
(私のこと、好きだって言ったのに。キスまでしたのに。朋美さんとエッチがしたいだなんて。おっぱいのことなんて言わなくたっていいじゃない)
 どこをどう走ったのか覚えていない。気がつくと家の前まで戻っていた。玄関に君枝が立っていた。郵便受けまで新聞を取りに出たのだろう。
 愛美はその胸に飛び込んだ。
「あら、あら」
 何も聞かずに頭を撫でる君枝。愛美のTシャツには汗が滲んでいた。
「シャワー、浴びちゃおうね」
 君枝に頭を撫でられた。
 家に入り、浴室に向かう間も涙が止まらなかった。なんで泣かなければならないのか、愛美にはその理由がわからなかった。
 お風呂から出て普段着に着替え、食卓で君枝と向かい合った。二人とも黙ったままトーストを食べてホットミルクをすすった。
 空になった食器をまとめて、君枝が立ち上がろうとした時だった。
「ねえ、お母さん。何を聞いてもいいよね」
 君枝は食器を食卓に置いて座り直す。
「どうぞ。いいわよ」
「セックスって気持ちのいいものなの?」
 君枝の目が少しだけ動いたように見えた。
「朝から過激な質問ね。何かあったの?」
「うん、ちょっと」
 間が空いた。愛美は下を向いたまま君枝の答えを待っていた。
「まあ、いいか。そうね、いいものよ。愛されているって感じがするもの」
「でも男の子は、その、愛していなくても……」
「セックスには二種類あるのかもね。愛のあるセックスとないセックス。女はどうしても愛のある方を求めるけど、男性は両方とも欲しいんだと思うわ」
「そんなの……」
「汚らわしいと思う?」
 愛美は顔を上げて頷いた。
「でもね、愛美だってエッチなことしてるでしょ。男の子はそれが露骨なだけ。それに……」
「それに、何?」
「ううん、何でもないわ」
「ええ、そこまで言って気になるじゃない」
 気がつくと、君枝が目尻に指先を当てていた。
「私も人間ができてないなあ」
 君枝は天井を見上げて鼻をすすると、指先を膝の上に戻した。
「これだけは覚えておいてね。愛し合う者同士が、必ずしも結ばれるとは限らないの」
「あっ!」
 口に手を当てて、その後の言葉を呑む。
「愛美は、いい恋しなさいよ」
 ムリに作った笑顔だった。
「それって、早くセックスしろっていうこと?」
 愛美も精一杯のおちゃらけで返した。
「そうね。バージンなんてつまらないわよ。早く卒業しちゃいなさい」
「ねえ、母親ってフツウ、娘にそういうこと言う?」
「あっ、言わないか。愛美、今のなしにしてぇ」
「ん、もう」
 母と娘の大笑いで、この話題を閉めた。

 君枝が朝食の後かたづけをしている間も、愛美は食卓を離れなかった。部屋に戻ってもオナニーができるわけでもない。その気もなかったが、一人になるのがイヤだった。食卓に頬杖を付き、君枝の背中を見ていた。
(もう帰って来たのかなあ)
 視線を隣の家の方角へ向ける。公園に靖史を置いてきてしまったが、その後はどうしたのだろう。仮にもファーストキスをした相手だ。気にならないわけがない。「さっきはごめん」なんて言って来られるのも困るが、このままでは明日、学校で顔を合わせることができない。
 明日の早朝も、ランニングに付いて来るのだろうか。
「どこか遊びに行って来たら」
 振り向きもせずに君枝が言う。
「うん」と、生返事の愛美。
 当てがないわけでもなかったのだが……。
 とりあえず、ここにいても心配かけるだけだと思い、自分の部屋に引き上げたが、一時間と持たずにリビングへ下りて行く。一日中、母親の周りで無意味に過ごすなんて、小さな子供みたいだ。何かに集中したのは、午後になって、二人でサスペンスの再放送を見た時くらいだ。
「お母さん、これからちょっと出かけるけど」
 日が傾きかけた頃になって、君枝が言い出した。
「えっ、どこへ」
「うん、ちょっとね。遅くなると思うから、夕ご飯は一人で食べてね」
 こうやって出かけることは、これまでにもあった。君枝は、いつもより少しだけ着飾っていた。愛美は思いついた言葉を飲み込む。
(お父さんに会いに行くの?)
 座卓の両肘を付き、お出かけの準備をする君枝の姿を追いかけた。
「私は、お兄ちゃんの所にでも、行って来ようかな」
 本当に行こうと思って、言った言葉ではなかった。
「芳樹なら旅行に行くって言っていたわよ」
「ええっ、本当?」
「一泊二日だって。今夜は遅いんじゃないかしら」
「そうなんだ」
「昨日の午後、出発したのよ。二人とも徹夜明けなのによくやるわよね」
(二人ともって……)
 昨日、朋美のマンションをお昼で帰されたのは、芳樹と旅行に行くためだったのか。
 夕べ、朋美と電話した時も芳樹と一緒だった。愛美の脳裏には、二人が愛し合う様子が浮かんでいた。芳樹のアパートでクローゼットの中からのぞき見た光景が、神社裏で傷だらけの朋美を下から突き上げる光景が、生々しい映像となって甦る。愛美の胸を刺す。
「それじゃ、行って来るわね」
 君枝がハンドバッグを手にした。愛美も立ち上がり玄関まで見送る。
(そうか。お母さんも)
 愛美の胸に暗い雲が広がった。
(つづく)


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